Tunes composed by 早





ラベル エッセイ の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル エッセイ の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

神戸のカフェでランボーを読んだ4/1

(#エイプリルフール)

午後の光が斜めに差し込む、神戸元町の古い喫茶店。その一角、窓際の席というのが私の定位置になりつつあるのかもしれない。今日、4月1日のことだ。テーブルの上には、先ほど古書店で手に入れたばかりの、少し黄ばんだアルチュール・ランボーの詩集と、まだ湯気を立てているブレンドコーヒー。周囲の喧騒――他の客たちのひそやかな話し声、遠くで鳴る食器の音、微かに流れる古いジャズ――は、不思議と私を外界から切り離し、一種の心地よい結界のようなものを作り出す。こういう空間でなければ開く気になれない類の本、というものがある。ランボーは、間違いなくその一冊だった。なぜ、今、この稀代の悪童、夭折の天才詩人の言葉に向き合おうと思ったのか。明確な理由があったわけではない。ただ、古書店の棚で目が合った瞬間、呼ばれたような気がしたのだ。あるいは、私の内なる何かが、彼の放つ毒のような輝きを求めていたのかもしれない。

ページを開く。印刷された文字が目に飛び込んでくる。それは、整然とした論理や穏やかな抒情とは対極にある、激しく、冒涜的で、幻視に満ちた言葉の奔流だ。『地獄の季節』、『イリュミナシオン』。十代にして既成の詩の形式を破壊し尽くし、「見者(vovant)」たることを宣言し、未知の感覚、未知の言語を追い求めた魂の軌跡。言葉は奔放に跳躍し、イメージは衝突し合い、読んでいるこちらの理性や常識を激しく揺さぶってくる。ランボーの生涯そのものが、彼の詩と同様に、常軌を逸した烈しさを孕んでいる。わずか数年で詩作を放棄し、ヨーロッパを放浪し、アフリカで武器商人となり、そして病を得て若くして死ぬ。その破滅的な軌跡は、安穏とした日常を送る私のような人間にとっては、眩暈を覚えるほどの異質さだ。しかし、同時に、私の心のどこかにある、社会の「敷かれたレール」への反発心や、現状を突き破って未知の世界へ飛び出したいという衝動、あるいは過去の経験――ベトナムでの放浪、精神的な混乱期――が、彼の言葉や生き様と奇妙な共鳴を起こすのを感じずにはいられない。それは、憧憬というよりは、むしろ同族嫌悪に近い感覚なのかもしれないし、あるいは、彼の抱えたであろう孤独や怒りに対する、痛みを伴う共感なのかもしれない。

ランボーにとって、詩とは単なる感情の表現や美の追求ではなかったのだろう。それは、彼自身の言葉を借りれば、「未知なるもの」に到達するための手段であり、感覚の「長い、広大な、そして計算された錯乱」を通して、自己を変容させ、世界認識そのものを変革しようとする、極めて能動的な試みだったのではないか。彼の詩における言葉の使い方は、もはや既存の言語体系への信頼を放棄し、言葉そのものを物質のように捏ね上げ、爆発させ、新たな意味や響きを生成しようとする、まさに錬金術的な実験を思わせる。それは、ニーチェが既存の価値体系の「価値転換」を試みたように、言語と認識の根源に揺さぶりをかけようとする、危険で、しかし根源的な問いかけだ。私が自身の拙い音楽や歌詞の中で、言葉の響きや象徴性にこだわり、時に意味の通らないようなフレーズを紡いでしまうのも、ランボーのような存在が示した、言葉の持つ魔術的な力、世界を再創造しうる力への、無意識的な憧れがあるからなのだろうか。しかし、言葉はまた、ニーチェの言葉が誤用されたように、あるいは自身の経験(OLが私の言葉に「心を染められ」たように)が示すように、容易に人を傷つけ、自己をも破壊しかねない劇薬でもある。ランボーの言葉の刃は、果たしてどこへ向けられていたのだろうか。そして、その刃は、今、私に何を切り開かせようとしているのだろうか。

コーヒーはいつの間にか冷めていた。窓の外を見ると、空は茜色に染まり始めている。詩集を閉じ、しばしその余韻に浸る。ランボーの世界という、濃密で、時に息苦しいほどの異空間から、再び神戸の日常の風景へと意識が引き戻される。しかし、何かが違う。見慣れたはずの街並みが、カフェのランプの光が、隣の席のカップルの会話が、どこか非現実的な、奇妙な輪郭を帯びて見える。ランボーの言葉は、網膜に焼き付いた残像のように、私の知覚を静かに変容させたのかもしれない。それは、心地よい読後感とは程遠い、むしろ不安や焦燥感を掻き立てるような感覚だ。彼の問いは、安易な答えを許さない。彼の存在そのものが、私の「生活すること」――安定を求め、社会に適応しようとする側面――に対する、痛烈な批評として突き刺さってくる。

店を出て、夕暮れの雑踏の中を歩き出す。手にした詩集が、ずしりと重い。ランボーを読むという体験は、単なる知的な遊戯ではなく、自己の存在の根幹を揺さぶられるような、ある種の冒険だったのかもしれない。彼の言葉は、美しい花であると同時に猛毒であり、読む者を安住の地から引き剥がし、未知の領域へと誘う危険な力を持っている。しかし、あるいは、そのような毒の中にこそ、生の持つどうしようもない強度や、言葉が切り開く認識の深淵が隠されているのではないか。本を読むこと、特にランボーのような特異な魂に触れることは、慰めや安らぎを与えるどころか、むしろ私自身と、私が生きるこの世界に対する、終わりのない問いを突きつけてくる。その問いを抱えながら、私はまた、西宮の自室へと続く日常のレールへと戻っていく。だが、その日常は、もはや昨日までと同じ日常ではありえないだろう。ランボーの幻影は、きっとこれからも、私の「本を読むことと生活すること」の狭間で、不穏な光を放ち続けるに違いない。


Generated by Gemini 2.5 pro (↓参照)

https://bloominghumanities.blogspot.com/

機密の災いと世界像

私の人生というものは、高校3年生のときに宝くじの逆が当たったかのような珍しくて巨大な不運が降りかかってきて、それ以来、その災難に関する厄介事がずっと継続し、半ば壊れてしまっている。


困難を抱え、それでもなんとか生き抜いてきて、得たものも多いが、失ったもののほうが、そして平和でそれなりに幸福なはずの時間の損失のほうが、大きい。


その長く続く重大な厄介事に関しての社会活動を私は6年近く行ってきた。調査、聞き込み、インターネット検索、関連書籍集めと精読、その活動に関するコミュニティ内での同様の困難を抱える方々との話し合い、文書の執筆など。


その活動の中で、私は機密情報を知ることになってしまった。日本を含めいくつかの国の主に軍事に関わる機密。


この記事でもその機密の内容はもちろん、私が高校生の時から直面しつづけている災難についても、書くことはできない。


機密に触れてから、さらに災難は増し、生活が脅かされることも多くあった。何もかも知らないほうがよかったのかもしれないと思うこともある。しかし、現実の人間の世界に存在することを知るということは重要だ。知らなかったら今の私の世界認知は今のものではないだろう。


人は、半径数十メートルの視聴覚できる範囲、自宅や職場や身近な人間関係、自分がログインしていているSNSの読むことができる範囲、だけを生きているわけではない。人は、行ったことがない国や知らない無数の人が居て、地球の自然や遠くの星々が在って、歴史と科学と膨大な書籍が在り、何千年も前から続く人類社会が在る、このどこまでも広大で複雑な世界を生きている。


たとえインターネットがあっても個人が1回の人生で知ることができる範囲というものはほんとに限られている。その中で個人の人生を生き、社会生活に参画する中で、膨大な数の事象群から個人の限られた選択肢の中から体験や情報を選択しながら日々が過ぎていき、人が見る世界像は徐々に決定されていく。


その体験可能な事象の範囲の限定性から、世界像は当然のことながら個人差が大きい。自分が知ってる世界と、友達が知ってる世界は全然違うし、テレビの向こうの有名人の知っている世界はもっと違うだろう。


普通の小学生と社会経験を積んだ大人では、社会を知ってるか知らないかでぜんぜん世界像が違う。日雇いの肉体労働をして生活している人と、IT関係の企業の役職の人も、同じ人間社会に存在しながら、全く別の世界を見ているだろう。労働と少しの遊興だけで数十年が過ぎていく会社員と、科学の分野で博士号を持つ研究者や大学教授は、同じ宇宙の同じ地球を生きながら、まったく異なった世界像を持っているだろう。


私が知ってしまった機密というのは、日常的な社会観念を覆し得る類のものだった。それ故、私が機密にアクセスしてから世界像は変転してしまった。人間社会というものにこんなものがあってこんなことが起こってるなんて、信じられないと思えるほど。


知ってよかったのか? 悪かったのか……。知ることによって私へ降りかかる災いは増えてしまった。そして平和なはずの世界像がそうではなくなってしまった。しかし、現実にこの世に起こっていることを知らないまま生きて、そして死んで、その人の経験や記憶が小さな世界に留まることであったとしたら、たとえそれが穏やかなものであっても、それは知らないことを知っていった上でとらえていった人間世界上での人生より、良いと言えるのだろうか。


私は、もともとは不可避な災難によって、そして機密へのアクセスによってさらに、自分が生きている世界が平和でなくなった。しかし、後悔はしていない。1回しかない人生だから、知れることは知りたい。視野は広いほうが、自分の存在しているこの世を知って体験することの多様性を増していくだろうと思う。特異な状況に追いやられて困難は大きいけれど、より多くのことを見ながら有意義に生きていきたいものだ。

人文系の本を読んでいくこと

空いている時間をどう使っていくかによって、人生は豊かになっていくことがある。私は今は音楽に熱中しているが、若いころ10代の終わりから20代前半にかけて、純文学や哲学などの人文系の本をたくさん読んでいた。この経験は私の精神面を豊かにしてくれたし、リテラシーの改善にもつながったと思う。


ゲームをして過ごすのも楽しいし、軽いミステリー小説を読むのも有意義な時間ではあると思う。しかし、それでは経験の総体に積み上げていくという点に関しては空疎になってしまいがちで、必ずしも人生の価値を高めていくことには繋がっていきにくい。


人文系の本には読むのが難しいような本もあるが、色々な言説がたくさんつまっている。単に娯楽として面白い話や文章があったりするだけでなく、本と一緒にそのように考えることによって自分の心に身についていくような言葉がたくさんある。そういう言葉を吸収していくことによって、心が豊かになっていくし、知識もついてくることになる。


どの本も一定の独立性を保った作品ではあるものの、それを読んでしまえばそれだけでその本は終わりというものではなく、精神に記憶として残っていくだけでなく、知識として残るので、~の本でニーチェが~に言っていたと言うことを覚えていると、他の本でニーチェについて出てきて、さきほどの知識があったからこそ読める読み方をすることにより、より豊かな解釈を得ることが出来る。その集積で、単に一つ一つの本が単独で存在していたのに触れたというのではなく、人類の人文系の財産の総体に読み手が参画していくことになり得る。だから、色々と呼んで知っておく言葉や考え方が多ければ多いほど、新しいその方面の本を読むことにおいてもより興味深い体験をすることができて、精神は豊かになっていくということが起こる。


音楽もやればやるほど出来ることであったりが増えていくし、聴き方も良くなっていくもので、一つ一つ過ごした時間というものが無駄にならず、次に生きていくが、人文系の本を色々と読み込んでいくことも同じことが言えて、どの読書も他のあれこれの読書に生きていくので、趣味や時間の過ごし方として空虚さが感じられず、有意義なことであると思う。


ただ空いた時間を過ごすにおいても、それをやったらただ楽しかっただけで活動の結果が消えていくものではなく、毎回それを実行することによって積みあがっていくもので、過ごしていくことは非常に価値のあることであると思う。私も、若いころたくさん本を読んでいてよかったと思うので、音楽だけでなくまた読書の空間に入っていけたらなと思う。色々と辛いことの多い人生なので、虚無に陥らないためには、得るものが大きく取り組み甲斐のあるもの、意義を感じることをしていたいと思う。人文系の本というのはそれに適したものであるに違いない。考え方が増えることによって少なくとも精神面での苦痛を減らしていけるのではないかと思われるし、何よりも自分以外の精神的な営みに参加することによって虚無感や孤独感を軽減できるものだと思われる。

TORRとかMENSAとか

 入院によってMENSA会員資格のための年会費の入金ができなかった。そのため、MENSAは脱会となった。といっても、一度入会テストをクリアした者であれば、年会費を納めることでテストなしで再入会できるので、いつでも戻れるということにはなっているが。


高知能団体で年会費とるって、なんか商売っぽいけど、需要があるからMENSAはそれなりに会員がいて活発に稼働しているんだろうと思われる。入っていて何かメリットがあるのかといえば、会員と交流できることくらいか。同等以上の知的レベルである人と交流できるので、それなりに刺激はある方だと思う。


TORRというMENSAよりもIQ的には格上、IQ145以上の団体にも加入しているが、こちらは会員数がまだ少ない。しかし専用SNSやFacebookグループを見ていると、MENSA以上に知的な人が多く、軽いノリというよりは少し堅くて物事を深く追及する人が多い印象。こちらは一度入会テストを突破して入会金少しだけ支払えば年会費等一切なしで永久会員資格が得られる。


TORRのSNSとか活用して友達とか見つけたいような気がするけど、日本人の絶対数が少ないのでなかなかいい出会いはないようではある。しかし、英語で交わされる哲学的なことや社会的なことを読んでいると、なかなかいい刺激になって、英語の勉強にもなるし、物事を色々と考えさせられる。極めて頭いい人たちが真面目に、普通の人が深く考えないような事象について、しっかり考えていたりする。


自分は元メンサンになったとはいえ一応はその上の高知能団体に所属している身であるが、その頭脳を全く活かせていけていない。何よりもテクノロジー犯罪が原因となっているので、私の問題だけではないのであるが。MENSAの人たちはやはり頭いいだけあって、QOL(クオリティ・オブ・ライフ)の高い人が多く、専用のFacebookグループの投稿を見ると、普通のカテゴリーの人たちとは違う豪勢な生活をしている人が多い一方で、私は社会の最底辺を生きることを余儀なくされている。


基本的に私は誰とでも関わると言えば関わるけど、物事をしっかり考えて生きている人の方が好きなので、この高知能団体という怪しいグループのカテゴリーを通して、素敵な友達を発掘できたらと思うのだが。なかなか知的な人たちに軽く声をかけづらく、少し引っ込み思案になっていたようだ。でも良い友達をつくるきっかけとして、TORRより上で人気のあるHELLIQとかに入会とかしてみて、この高知能団体というカテゴリーに進出してみようかと思ってもみた。


世の中いろいろなグループとか繋がりとかあって、そういうのも上手く使ってみようと思ってみたこの頃。友達が切実に欲しい。孤独で飲んでばかりいる。バンド組めたのが嬉しい。入院中も友達が出来たのも嬉しい。でも人脈と呼べるものがないし、友人・知人の数は極めて少ない。以前、テクノロジー犯罪被害がましだった期間は、音楽関係とかSNS繋がりとか飲み屋で知り合ったとかで、結構たくさん友達いたような気がするのだが。破壊された人生を取り戻したい。

カバー・コピーしたい曲 最近のギター

DEMOですが、Mr.Children の Loveはじめました をカバーしてみました。





他にカバーしたい曲がたくさんあります。

Mr.Children / シーラーカンス




L'Arc~en~Ciel / HEAVEN'S DRIVE




NIRVANA / Come As You Are





など。
今年度中にカバーしてみようと思います。


最近は、ギターの弾き方を変えています。プリングオフとハンマリングオンを暫くは完全に使わないようにしています。そのせいでソロのリズムがめちゃくちゃですが、いったんはこれに慣れようと思う。しっかりできるようになったころに、クラシックギター練習して指板の指を素早く動かせるようにして、プリングオフとハンマリングオンをエレキギターでも使うようにして、2倍速で弾けたら、速弾きができるようになるのではないかという魂胆です。とにかく、今までの音符の短さを一音一音ピッキングして、その真ん中でハンマリングオンとかを使って、2倍速にしようと。できるかわかりませんが、ハンマリングオンとか無しの練習はなかなか指にとって機能的にいい練習だと思いました。

Where is Memory?

24歳のときに書いた英作文であるため、考え方や文法に間違いが存在する可能性が高いです。


 (The following is not based on firm evidences but a result of my intuition.)

(And I'm sorry my English is sometimes wrong or too poor to describe abstract affairs such as the following.)
(Here I mean by the word Memory not memorizing but memorized contents.)

Generally, scientists and modern people under their theories think of Memories as being stored in a Brain, but I don't think that. I think, though a brain have the function of taking in the images of things which the nervous system perceived and the function of recalling these images, it don't have the function of a storehouse. Likening memories into water, a brain have roles of watercourses and valves but don't have the function of a water tank.


Well then, Where are memories stored. But there is a nonsense in this question. That is the fact that we apply memories to the concept "where" Naturally, and Actually memories have no places in the sense of our ordinary thinking. And our tendency to allot memories to Place, Brain the firm material realm, is involuntary wrong application due to the fact that we live experiencing the three-dimensional space ordinarily, that is our unconsciously confusing spirit with matter, I suspect.

Fundamentally speaking, regarding three-dimensional space, it have not been varified perfectly as actual existence, or some people say that it is no more than a tool or a concept through which we human beings feel the outer world. Adopting this theory here, three-dimensional space is the concept which spirit invented for life to live in this world conveniently. By the way, Memory is a such thing that is more fundamental and essential than a tool to live, I think. That is to say, memory is not a thing that spirit have invented but the tracks of spirit itself, process of life. Then returning to the earlier problem, applying perfectly the concept, that is no more than a tool to grasp, to memory, that is essential movement and tracks of spirit itself, is obviously false if we think that way. To say, memories don't exist in a brain that is physical and three-dimensional space. Spatial places don't correspond to memory, but memory exist at a Place which we are hard to call as Place. Boldly speaking, even if a brain vanish, it can be possible for memories to exist Somewhere. Merely, it is difficult to indicate the Somewhere by a clear concept of Place, which is often haunted by three-dimensional space. Anyway, if only we separate memory from the physical concept, three-dimensional space, it is obvious to us that memory exist somewhere but the brain.



一般的に、科学者やその理論の影響下にある現代人にとって、記憶は脳に保存されていると見なされているが、私はそうではないと思っている。思うに、脳は神経系が知覚した事象の印象を取り込む機能や、その印象を思い出す機能は持っているが、記憶の保存庫としての機能は持っていない。記憶を水に喩えるなら、脳は水路やバルブの役割を持っていても、貯水の機能は持っていない。

では記憶は何処に保存されているのか。しかしこの問いには一つのナンセンスが含まれている。すなわち、記憶に「何処」という概念をあたりまえに当てはめてしまっているということであり、実際のところは記憶には私たちが一般に思っている様な意味での場所など存在しなく、私たちが記憶に対して、場所、脳という確固たる物質的領域をあてがいたくなるのは、私たちが日常で三次元空間を体験しながら生きていることに依る無意識の間違った適用であり、精神と物質の無意識的な混同なのではないのだろうか。

もともと、三次元空間だって、それが確固たる実在として完璧には立証されていない、いわば人間が外界を感じるときのための道具や概念でしかないという説もよく見受けられる。その説を採用して、三次元空間も生命が世界を便利に生きるために精神が開発したものでしかないとしよう。ところで、記憶というのは、生存のための道具というよりも、もっと根源的で本質的なものではないだろうか、すなわち精神が開発したものではなく、精神の軌跡そのものなの、生命の過程そのものなのだ。そこでさっきの問題に立ち返ってみると、精神の本質的運動そのものとその過程である記憶に、精神が生み出した単に生存のための一種の捉え方でしかない三次元空間という概念を、ぴったり当てはめることは、こう考えてみると明らかな誤謬になる。すなわち記憶は脳という物的三次元空間には存在しない。空間的な場所が対応しているのではなく、場所とは呼びにくい場所に存在している。大胆に言ってしまえば、脳が消滅したとしても、記憶は何処かにある可能性がある。ただ、その何処かというのが、はっきりとした場所という概念で示しにくい。場所という概念には三次元空間という概念が普通はよくつきまとっているから。とにかく、記憶を三次元空間という物的概念から引き離せば、その場所は脳ではない何処かだということは明らかだろう。

ニーチェのペルソナと殉教

ニーチェはまさに「高貴」という形容に相応しい人格者であり、実際的にニーチェに接したことのある人の色々な文献から、ニーチェの気高くて誠実で礼儀をわきまえた優しい人柄が伺える。ところが文書の上ではニーチェは人の暗面や毒を辛辣に、胸を抉るほど克明に描き、とくに復讐心などをその血さえ半透明になるほど鮮烈に表現している。

このギャップは一体なんであろうか。23歳で大学教授となったエリートであるニーチェは、実のところは人格者なのではなく病んだ人間なのかと、ニーチェの書物に出会ったばかりの人は感じることもよくあろうと思われる。しかしその実態は、ニーチェが他人を、それも卑近な位置にいる人だけでなく、数百年以上離れた作家や哲学者も含めた他者を、生身を以て体験しているというところにあり、しかもその他人が体験している心理をその当事者よりも切実に認識し、それを自分の言葉で暴き出し文章として記録に残さずにはいられないという、熱烈な批評欲がニーチェにあったのだろう。

青年時代から音楽や文学や哲学に精通していたニーチェは、当然のことながら決して他の人と比べて劣るような人格を持っていたのではなく、他人の暗面を自らその得体のしれない好奇心を以て体験し、文章上で岩をも砕く閃光のように演出してみせたのだろう。そういうニーチェの文章というのは表現形式もパフォーマティヴだが、表現内容も多くがパフォーマンスで成されていて、といっても真剣な態度であるのだが、人間の闇を語るときも、ある病んだ一類型であったり人類普遍の病であったりを自ら体現して演出しているという、その深刻な、あまりに深刻な演劇の地点に、ニーチェの余裕を見ざるを得ない。

決して太宰治のように自身の実存自体が本当に苦悩の限界にあり人格が破綻して悲しみや苦しみを文章の一語一語に仮託しているわけではない。引き合いに出すとすればドストエフスキーが、生活と神経病に苦しむ道化を小説内に登場させたのと同じように、ダイヤモンドさえ傷つけることを辞さないその寸鉄の断章のなかで、疑いや毒などを対象化して扱い、いわば料理し、苦悩を演出的に描いてみせたのだろう。時には血を以て。そうやって求道の山道は高きところからの認識欲により、自ら吐き気極まる人間性の闇を己の強さで以って体験してつくしてきたこと、その病人どもに対する愛で、ニーチェの外面的人格はペルソナとして形成されている。尤も、文章上ではそのようなパフォーマンスとしてのペルソナであったが、実生活では真面目で誠実な人間として礼儀正しいペルソナを形成していたに違いない。

文章上で毒を描くニーチェはある意味では読者より一枚上手な演出者なのであるが、しかし、ニーチェの人間性に対する認識欲はとどまるところを知らなすぎたことから、発狂前のニーチェは人類の普遍的な悪や罪にまで直観や認識がとどいてしまい、そこには余裕や演出性はみられなくなる。なぜなら、集合的無意識の最深点は全人類の死であるからだ……。

『この人を見よ』は決してペルソナによる遊戯なのではなく、あのころの文章や手紙においては、前代未聞の能動性による人類諸々の心理の認識と洞察の果てに見た、普遍的な対立、「キリスト対ディオニュソス」を、自らの心臓に宿してしまった苦悩者として、文章上で吐血し、死へ向かっていること、自らの魂に殉教しようとしているのが感じられる。

東京旅行

今の私にはそこそこ仲のいい音楽の好きな知人がいるのですが、半ば私の強制といっても過言ではない程に強引に、しかし相手の方も少しは羽を伸ばして遠くへいってみたいと希求されていたので一応は合意がありで、東京へ向かいました。新大阪から新幹線に乗って色々と話しながらあっという間に乗車時間は快適に過ぎました。二人とも睡眠不足で前日あまり眠れていなかったのですが、それでも起きていたいと思う程度には色々話したと思う。そういえばアメリカ人というのは、初対面で電車で同席しただけで、違う州へいく電車内のことであれば、お互いの人生のほとんどを話してしまうそうです。初対面ではなかったし、9月中に知り合っただけですが、色々とお話ができてよかったです。
歌舞伎町のホテルへ直行。アパホテル新宿歌舞伎町タワーで宿泊。アパホテルの社長さんのサービス精神に驚愕するような宿泊料。この値段であれば何泊でも可能である。2泊を予約していたのですが、もし3日で物足りなければもっと宿泊できそうという旅行の楽しみの延長を期待し、チェックインしたような気がします。 1日目は移動の疲れを癒すためにひたすら、部屋でゆっくりと。夜の20:00~21:00頃だったかに、旅の連れを部屋にのこし、私が初めて組んだパンクバンドのベース&ボーカルの方と一緒に居酒屋へ行った。2人とも変わってしまったな。青春の夢は私の方では炸裂していたが、上手く行っているとは言い切れないほどであり、他方は社会に順応しつつ革命的といってもいい夢を失っていたかどうか。ほどほどに飲み、ほどほどに普通の話をし、そこらの時間でお開き、気前が良かったのは相手の方であった。
2日目は主に買い物をした。新宿から渋谷まで街並みの写真を撮りたかったので、徒歩でいこうかと思ったが、しばらく歩いてさすがに遠いと思い、タクシーを呼んだ。タクシーからとる写真もなかなか趣があるというか、東京と言うと趣というよりデザインと言うべきか、そういう構造物が窓から眺める私の視覚を通過していくたびに写真に撮りたい気持ちになり、何枚かはタクシー内から街並みを取った。渋谷に着いてからは適当にぶらぶらして、服やキーホルダーなどを購入。渋谷って歩き回るといつのまにかラブホテルの一角に迷い込むような街の構造で、しかも迷い込んだら細い道や坂が多くて抜け出すのが難しい……これはレディを捕まえる蜘蛛の巣を意識した国土交通省官僚の設計か……。とりあえずは、渋谷を歩くのも買い物もそこそこ楽しかった。
3日目は東京スカイツリーへ。スカイツリーでの出来事は、記事を別に一つどころか、短編小説でも書けそうな程には色々あったので、このページでは割愛します。
4日目は、旅の連れさんが東京の知人に会いに行きたいとのことで1人で東京内の遠くへ。私は心配しながらも、部屋にいるだけでは面白くないので、ゲーセンで遊び、カラオケへ行ったり、あちこちのガチャに100円玉をたくさん貢いだりしていた。貢ぐ……っておかしいようにみえて、欲しいキャラのガチャが出るまで課金し続けるので、言えてなくもないような気がするのだが、まあそれは一つの遊び心ということで。帰ってきた旅の連れは疲れていそうであったので、部屋でゆっくり過ごして色々と話をしていたような気がする。それにしてもアパホテルは快適である。とくに日用品を持って行かずとも、十分に過ごせるよう備品がそろっている。水についても不足なく、美味しい飲料水が置いているし、水道の水も綺麗にしてあって飲めるようになっている。お金があったら、この値段なら60泊してもいいかもな、と思える程の快適。やはり一流のビジネスホテルは素晴らしい。 4日目の夜、はぐれてしまった。
5日目、秋葉原。いい買い物をした。そしてどうしても帰宅しならなかったので、一人で帰った。ほとんど無理やり連れて行ったのに、無責任極まりない。元気に帰ってきてくれたらいいのだが、神経質な人はそっとしておいたほうがいいのかも、ということで新幹線内で最近の私の最も楽しい遊び、Twitterを新幹線に例えられる程度には実行したであろうか。 人を置き去りにして得た土産物は、フィギュア。あちこち行くたびにガチャがあったのは何故だろうか。東京らしい土産物はなかったが、写真や人形の内に存在するオブジェクトをたくさん持ち帰れ、脳にも焼き付けることができた。 東京へいくといつもブラックジョークのようなことがよくある。今回は今までになく楽しい東京旅行であったので、旅の連れ様にはありがとうを。帰還については祈りを。そして素晴らしい都市を設計し実際に建てた官僚に感謝を。

8月と9月

 7/31で派遣会社を通して勤務していた、不動産関係でありながら自動車関係である会社を退職した。1つ目の理由は、職場すぐ100メートル以内にある自宅マンションの家賃が高かったため予定している学業の資金を貯蓄することが困難であり、実家に帰るとその職場での勤務で得られる益が減るため。2つ目の理由は、東大文学部(文Ⅲ)に入学するための受験勉強にある程度は時間を当てないと合格できないだろうという、悲観的な予測のため。といっても、6月と7月で高校3年間の文系の教育課程の4割ほどを復習していたので、不合格の見込みは特になかったのだが、入試の成績がいいと学費免除になる可能性が高いなどのアドバンテージがたくさんあるため、高得点を狙うという意図もあった。

7月、気分は全くわるくなかったが気力が低下していたため、退職の手続きと引っ越し作業は困難であった。しかし、実家に帰ると猫と戯れることができることと、漫画やフィギュアの類がたくさんあって、楽園のようになるかもしれないという楽観的な想いで、引っ越し作業を行うことができた。

無事、引越。

※人力引越社(株式会社キョウトプラス)の引っ越し用ダンボール

8月に入ると、Twitterがやたらと面白くなってきた。ホームをみると、花火を見ているようだ。いや、戦闘機の遊泳というのかカラフルな煙を出しながらアクロバットするやつをか。それともピラニアやエンゼルフィッシュやグッピーやアロワナやメダカやタナゴの類か。とにかく、ホーム画面に出てくる言葉や画像などが面白くて仕方がない。

と、いうわけで、躁転? 軽くハイな感情の状態になり、また感情の潤いも蘇り、感覚の彩度も高校生の時のようにとはいわないまでも、年相応以上くらいには目まぐるしい光彩が絢爛するようにはなったと思う。薄めた洗剤でビー玉やおはじきの類を洗っているかのように、なんとなく楽しくなった。

それからというもの、1ヵ月で再就職してその1ヵ月の間は真面目に勉強して次席合格あたりを狙おうと企図していたものの、猶予期間が2倍、9/30日までになりそうなくらい、Twitterにハマってしまった。

ツイ魔

しかもあまりにもわくわくしすぎて、魔が差して悪心を発し、(もちろん私の興味の分野がネット上では)女性(比率が高いためでしかないが)アカウントと思しきに、挑発を試みてしまった。災いだ。以下略。

災いは災いでしかないものではあるが、しかしなかなか興味深い交流をできていたのではないかと思われる。

一応プライバシーに配慮して幅をもたせておくが、Twitterを通して知り合った方1~5名とお会いすることができ、以前は交友していたが疎遠になっていた1~5名とお会いしたり通話をしたりすることができたので、有意義ではあったと思う。しかしまあ「七夕ごっこ」と称した1ヵ月ほど遅れた1~5行の半分以上は宛名なしの飛ばし合いはやはり、災いを呼ぶ。星が日本に落下しなくてよかったというところであったが、私の実家近くの上空に何度も雷が轟いた訳は一体全体、コロナ下での花火大会より危険であったかなかったか。

リプライや空リプがやたらカラフルであっただけでなく、Twitterで知り合った方や縁を戻した方と、ファミレスに行ったり、セッションしたり、通話を長時間したり、カラオケへ行ったり、本などを郵送しあったりと、楽しいことがいくつかあった。

それにしても、戯けすぎである。仕事はほぼ決まったが、遊び過ぎたツケは大きい。明日から東京へ旅行に行くつもりではあるが、あんまりはしゃがないでおこうと思う。元バンドメンバーやその周辺の知己に再開することができたらいいなと思うのもあり、また昨日4年振りに人とアンサンブルを行ったので楽器練習に本気で昨日目覚めてしまったこともあって、音楽や読書をがんばろう。仕事はじまるまでは芸術の秋と読書の秋を極めてみたいものだ。

非常に興味深いカラオケの思い出



15-17歳の頃であったと思う。

自分がストレートパーマで隣の隣あたりの女子高に電車でモテモテ? だった東大寺学園生で、ネトゲ毎日8時間ほどやってた頃の話。

灘高校いった秀才2人と私の最寄り駅に近いカラオケへ行った。私は東大寺学園入試の後、数学100点と合格を確信していたので、Phantasy Star Online と Devil May Cry に熱狂的熱中のゲーム数日間、おそらく60時間くらいやって睡眠削っていたからか、灘高校には落ちた。しかも灘高校入試当日、睡眠不足の上、風邪のような頭部違和感……言い訳はともかくとして、東大寺学園には幼馴染? が通っていたので、東大寺学園にしか行く気がなかった。

脱線したが、話もどすと、高校1年か2年のとき、灘高生2人と自分の3人で、カラオケへ行った。私は15の夜(両方の意味で)歌にハマっていたから、進学校高校生の中ではだいぶ歌える方であったので、たぶん2人ともをびびらせていたと思う……。しかしイタいことに、立って歌うのが好きで、ぶったおれそうなくらいの破壊的声量で歌ってような気がする。

そんなんありながら、懐かし話に花を咲かせ、過酷な進学塾、高校入ってからの事、私のネトゲ情事いや事情だったかな? について話し、楽しいひとときであった。

私は新しい物と高い物が好きだったので、L'Arc~en~Ciel の NEO UNIVERSE を歌ったが、ミックスボイスはぎりぎり出たが、ファルセットは出なかった。その次か次の次のあたりで、ND高校をトップ合格した人であり進学塾で私の唯一のライバルであった人が、皮肉か何かで、Mr.Children の I'LL BE を歌ったのはなかなか面白い思い出である。

時計の話

(9/21のこと)

腕時計、無くしたり飽きたりして、安物だけど、今までにいくつ買ったことだろうか。その中で、たぶん5年くらい前に買って、そのうちの2年くらいは常用していた時計を、部屋が散らかっていた故に失くしていた。久しぶりに姿を現したと思っていたら、汚損していたので、新しい時計を買おうと天王寺か難波・心斎橋に良いデザインの時計を買いに行こうと企図した。

お金が手元にはいっぱいあったけれど、色々な事情でそんなに使えないだろうと思い、また心斎橋に買い物に出かけるとついでに衝動買いしてしまい、ミナミで飲んで帰る、というのが常態となっていた時期があったことから、天王寺に腕時計を買いに行こうと思った。しかしまあ、電車乗ってみて別の方向の駅になんとなく辿り着いていたとしたら、難波で降りてもいいやと思うことが可能なほどには、目的地を定めず。

たくさん飲んでいた。買い物までに、1~2日前から、飲酒はもうアル中の領域といってもよいほどだった。アルコール中毒といえば医学的に大量飲酒による人体機能の失調であるが、アル中というと、とりあえず阿保ほど飲んでその期間の毎日が乱れてきっている、というようなニュアンスだろうか。後者のアル中と、また寝る時間がもったいない(どうせ碌な夢はみない)という理由でそれまで1週間の平均睡眠時間が2時間前後であったことから、もうフラフラであった。

天王寺へ行く途中の電車で、眠りこけててしまい、気づいたら柏原市の駅にいた。なるようになれという気持ちで難波駅にたどり着いていいと思っていたことは事実であるが、柏原市であれば天王寺駅のほうが近い。まどろむ瞼、傾く頭、どんな指つきかもわからない手で、私は天王寺駅をめざそうと、電車待ち。しかし、反対方向へ行く電車を待つかっこうで、間違ったホームにつったっていた。それに気づき、反対方向へ向かうホームへ一度エスカレーターを登って降りて到着。

正しい電車にのり、つったったまま、うたたねしそうになりながらもなんとなく天王寺でしっかりした意識を取り戻すだろうという予感。無事、天王寺で下車。

mioで買い物。時計目的であったが、意識があんまり保てていなかったので、どの階かわからず、たどり着いた階には、天然石のアクセサリーが売っている店があった。フラっと入って、ブレスレットを数個購入。その後は通路ではなく店を通過しながら、どんなものが売っているだろうかと店の迷惑にならないよう左右をささっと確認し、通過。そんな感じで階を移動しながら、やっと時計が売っている店へ到着。

時計板の大きな黒い時計。ひとめぼれと言うほどではないが、5つの候補の内を2分ほど眺めまわして選択し、店員に制服がないアパレル的なショップだったのでだれが店員だろうかと血迷いながら、やっとのことでレジで購入。

そのあとは化粧品コーナーと薬品コーナーが併設されている1階の店で、必要そうなものを購入し、なんとなくLINEがしたくなって恐らく友人ではあろうかという方にLINEして、mioが入っている天王寺駅から出て、コンビニへ。コンビニで衝動買い……なんて馬鹿みたいだけど、コンビニで売っているものはその名の通りで利便性が高いので損はないのであろうか?

次は天王寺動物辺周辺を何となく歩き回りたくなった。歩いた。そして歩いて歩いて、ネットカフェ。ネットカフェには大量の漫画がおいてあった。人の世にはこれだけの漫画があるのか……感心した。

そのあともあれこれとあったが、家に帰ると、今度は布施で時計を買おっかなと。それほど時計は自分から居なくなるし、また欲しくなるということを繰り返しているのだ。

見えている?

外的に存在している現実においてであれ、人の心理に現象している観念群においてであれ、実は見えない事柄というのは無数に存在している、という命題を想定したとき、後者については当たり前のことであるが、前者についてはどうであろうか。外的現実というのを、視認できる範囲にある物の群というのではなく、現実世界全てに存在している諸々の出来事の総体であると、見做した時、視覚には入っていない事柄が外的現実のほとんどを含むといえることは当然であるが、人間に記憶や想起という機能が携わっていること、及びそれが常々の刹那に働いていることを考えるなら、人間が体験する現実というのはその瞬間的眼前性においても常に、見えない少なくとも見えていない事象も含まれているとはいえないだろうか。つまり、何を見ても、それに関する記憶が瞬間的に想起され、その記憶を伴って眼前の出来事に対する解釈が起こり、そこから導かれる行動や発言を物や他者に対して作用することにより、視覚内の現実を人は体験しているのであるから、つまり瞬間的眼前と想起上の事象の作用のフィードバック体系が一秒一秒駆動しているところのものが現実の諸事象の配置とそれらの体験なのであるから、人の現実体験において、現実世界全てに存在している諸々の出来事の総体の一部が、視覚内の現実に強度に介入しているのである。鏡に映っている窓の外の風景が鏡がなければ本来その人の視覚内であったり半径数メートル内であったりにないように、刹那刹那の記憶の想起が、遠くのまたは過去の出来事を眼前の体験する現実に引き入れている。

とにかく、現実において人や物が相互作用をなしているその空間上において、心理だけでなくとも、見えないものや見えていないものはたくさん関与しているのであり、眼前に現象していない事象を含めた上で人間はその現実を体験しているといえる。そういう場において取り交わされる諸々の事象同士に対して、さらに人は関係性を見出しているものであるから、関係を結ぶ以前の事象だけでなくその関係性も事象としてカウントするのであれば、人がその瞬間体験している現実の空間上の事象というのは膨大な数になりうると言える。

人の知覚力や知能に応じて、現実の場を体験するにあたって、把握する事象や関係性の数は増えるものである。知覚力は眼前の現実の感取における事象の数という面において、知能はその瞬間に想起する記憶内の事象の数及び眼前の現実の事象と想起した事象の群から見出す関係性の数という面において、体験する現実世界において把握する事象の数の増大に寄与する。またその刹那に想起する記憶内容は個人によって全く違うものである。だから、同じ場を体験していても知覚や知能の程度によって、見えている世界は全く異なっており、ある人においては現実把握に存在する事象やその関係性が、別の人には存在していないということがあり、その差はかなり大きいものである。

タナトフォビアについて

『モルヒネ』という小説を読んでいると、死の恐怖が襲来した…。
国産ミステリー、アメリカ産サスペンスにおいては、殺人事件が頻発して登場人物がバタバタ死ぬ。それはお決まりの形式であり、小説でなくても『名探偵コナン』は少年ジャンプのバトルものよりも死者多数であり、ミステリーやサスペンスを成り立たしめる要素として、欠かせないのが殺人事件である。そういう作品をたくさん読んでいれば、登場人物の死亡というのが文学上の倫理的な意味をもつ事柄ではなく話のプロットでしかないものになり、特に心理的抵抗や不安感などがなく読めるものである。しかし、そういう定型化した殺人による死亡とは違い、『モルヒネ』においては主要人物が癌と宣告されるし、ホスピスが出てくる。

私は子供の頃、ニュースでホスピスが映るのが鬱であった。理由は、タナトフォビア(死恐怖症)であり、とにかく子供の頃から死ぬのが怖かった。死が差し迫ったことはなかったし、ましてや自殺しようと思ったことは一度もなかったが、いつか70年後か100年後か知らないが自分に死があることが、どうしようもない恐怖であり、重いメランコリーに何度も陥った。小学2年生の頃、60x60x24x365x80を計算機で叩くと2,522,880,000と出てきて、25億秒という限られた数字に直面して限定的な時間しか生きられないこと、死が秒ごとに近づいてくることに絶望し、砂時計が頭に浮かび、1秒1秒が消費されることが恐怖であり、泣いたり吐きそうになったりベッドにうずくまったりしていた。眠るとそのまま死んでしまわないかが不安でしかたなく、小学校の時に不眠症にも陥った。

死ぬのが怖いという言葉は、あまり日常世界で発せられないし、また死の恐怖が口にだせないほどの恐怖であったことから、世間一般では絶望を呼び起こすタブーとして死は誰も口に出せないものだと勝手に思い込んでいた。しかし、ある時、兄に死んだらどうなるのかを涙ながらに尋ねたら、「ずっと眠っているようなもの」という返答が返ってきたので、唖然として、一体この人は生きているのかと怪しんだほどである。

後々、死への恐怖心は個人差があるものであると知った。そしてタナトフォビアという病名までついていることも知った。少しづつ、死に関して口に出すことができるようになったとき、母にこの病気は遺伝ではないかと尋ねたら、父もタナトフォビアを持っていたことを知った。父は、旅行で飛行機に乗っているときに、アナウンスで気流のため揺れますと流れてきたのを聞いて、パニックの発作を起こして、(飛行機の操縦をしたことはないのに気が触れたため)「俺が飛行機を操縦する!」といって本気でコックピットに向かったそうだ。当然、仮に操縦したら間違いなく死亡するし乗客数百人を巻き込む惨事になることではあるが、パニックが強烈であったため完全に理性を失ってしまっていたらしい。

タナトフォビアに一般的に遺伝性があるのかどうかは詳しく知らないが、どうにせよ生まれつき宿ってしまったどうしようもない病気みたいなものであり、少なからず誰でも漠然と恐れているものかもしれないが、タナトフォビアを持っていると死の観念で鬱やパニックになったり泣いたり吐いたり震えたりと、とにかく死が怖くてどうしようもない。大江健三郎もタナトフォビアを持っていて、全く死が迫っていなかったのにもかかわらず学校で死を想起しただけで吐いてしまったことがあるとのことだ。

死が怖いので、永遠の命を冗談抜きで求めていた。しかしタナトフォビアを持っている人にはよくあることだが、「永遠」とか「無限秒」を頭に想像するだけで、果てしない時空を直覚してしまい、恐怖に陥る。タナトフォビアを持っている人にとって、死が恐怖させるところのものは、"生きられないことではなく、痛みや苦しみを伴ってなされることであるからでもなく、意識が永遠に消滅すること"であり、その意識が消滅しつづけている状態に終わりがないことに、恐怖するのであるが、そういう意識そのものを直覚する度合が強いことから、無限の秒とかそういう果てしない観念に対して体感として恐怖してしまう体質・精神構造になっているのである。永遠に生きることも怖い。さらには、時間が存在していること自体が怖い。宇宙が存在していること自体が恐怖でどうしようもない。命や意識を自身が持っているということ自体が恐怖であり、毎秒毎秒、得体のしれない恐怖感にさいなまれる。その恐怖感が終わるところの死はその恐怖からの解放かというと全く逆であり、死んで意識を失ったままになることもなにより怖い。とにかく存在していることと存在が消滅することに恐怖を感じて仕方がない。時間や物が存在していること自体が不自然で異常なことに感じられ、だからといって自然な状態であるはずの宇宙が無いこと、ビッグバン以前を想像すると、胸に風穴があいたように果てしない恐怖感に突き落とされる。

年をとっていくにつれてと、時間や空間についての哲学を読むにつれて、この「時間」「永遠」「意識」「存在」「宇宙の無」についての恐怖感は多少は克服できたが、今でもやはり「死」は克服できない。忘れていても、あれが来たって感じで、もうどうしようもない。意識が消えたまま永遠に時間がすぎるのがどうしようもない恐怖であり、1兆年人生があったところで足りない。というかいつか死ぬなら70年も1兆年も同じだ。5000億年地獄の生活をしてもいいので、のこりの5000億年普通に生きれたら、どんな地獄があってもいい。それで終わるのなら意味がないので、永遠のうち交互に半分が地獄でもいいからとにかく永遠に生きたくてどうしようもない。宇宙終焉まで生きたところで解決にはならないので、宇宙も永遠に存続してほしい。

ここから先は笑ってくれていいことであるが、切実に永遠の命が欲しく、私が大金を欲しがっているのも、永遠の命が今後30年のうちに実現するかもしれない…とか思っているからである。無いとは思うが、しかし、医学が発展するにつれて130年くらいは元気に生きてられるようになる可能性は全く皆無とは言い切れない。お金を持っていたら、130年建康に生きられるとしたら…今から100年後には永遠の命を実現する技術があるかもしれない。

実際のところ、諦めていて、タナトフォビアによるメランコリーに陥るほどの不安と恐怖は、なんとか忘れてやりすごしていたのではあるが、3年前に機密に該当することなので詳細は伏せなければならない事象なのだが、人類の物とは思えない科学力をみせつけられた。あれだけのことを成し得る科学技術があるのなら、永遠の命だってここ100年以内にあるかもしれない…たとえば意識をコンピュータに転送して、そこでしばらく生きて、その間に肉体を新しく作って、コンピュータで起動していた意識を肉体に移し入れるなど。限りなく実現の可能性が低いことではあるが、砂場の砂粒一つ程度にも可能性があれば、それに賭けてもいいくらい、死ぬのが怖い。永久に意識を失っていることなど、ありえないほど怖い。

松本零士の漫画『銀河鉄道999』に感動したことがあるのだが、私はどうしても機械の体でも何でもいいので意識を失ったままである状態になることから回避したい。なんならロボットのような体ではなく、パソコンでも空き缶内の脳漬けでも、サイコロでも木でも石でもどんな肉体の形態でもいいので永遠に意識を保ちたい……

革命的表現に出くわすことの功罪

私の知る限りにおいて、個人的な見解ではあるが、世界史・思想史・音楽史・美術史のあらゆる有名な人物のなかで、キリスト以外の中で最も純粋な人物は尾崎豊であり、最も誠実な人物はニーチェであると思っている。

イエス・キリストはキリスト教の開祖となったが、同時に革命家でもあった。色々な伝記があり、不遜極まる非実在説の類もあれば、聖書に書かれているその通りであるという説もあり、ドストエフスキーの『白痴』の穢れなきムイシュキン侯爵のような人物ではないかという説もあるが、個人的にはルナン伝と呼ばれることもあるエルネスト・ルナン著の『イエスの生涯』が史実に近いのではないかと思っている。ドストエフスキーの小説に出てくるキャラクターの中では、あまりに世間知らずでその人間離れした純情と無垢で周りを翻弄すると同時にまわりに翻弄され続けるムイシュキン侯爵よりは、家族の諍いだけでなく周囲の人の混沌を正し導こうとする意志をもつ人格者であり、続編では革命家または反政府主義者が想定されていたアリョーシャに近いのではないかと思う。

ルナンの描いたキリストは、愛の精神や民族救済の理想に燃えた情熱的な革命家である。政治には疎い田舎町の大工であるが、身近に実際にみる世界において、人々がローマ帝国にへつらうヘロデ王の圧政に苦しみ、また、権威を持ったパリサイ派の堅い律法の形式に生活を縛られ、人々が救世主を求めていた風潮の中で、愛を説くと同時に、世界を変革させたいという革命精神に突き動かされ、自身の愛の神の思想を口述の形で旅をしながら語っていた人物。個人的には聖書の記述そのままの出来事が起こったとは限らないと思っている。確固たる権威に属さずに各地に風来に現れてカリスマを得た人物というものは往々にして、その偉大な精神に直面した人の見聞、その口伝、噂で、諸々の偉業に尾ひれがつけられ、やがて伝説となり、神話となっていくものであるし、新約聖書が執筆されたのは後の時代である。

しかしキリストの生涯が実際にどうであったかに関わらず、地球上で最も読まれている書物である新約聖書に神懸かった偉大な人物として書かれ、後の文献学者から革命家であると史実として記述され、実際に歴史上最も人類世界に影響を与えた人物であり、2020年はキリストの存命期を基準にした年号である(近年はB.C/A.Dの定義付けが改訂されつつあるが)し、キリスト生誕の日とされることもあるクリスマスが祝われるなど、キリスト教圏以外にも多大な影響を残している。イエスが存命の間には、イスラエルの地の貧困な人、病人、圧政に苦しむ人に絶大な支持を得、後には世界を変えるほどの宗教になった。私は特に特定の宗教を持っておらず、宗教と言えばお墓が仏教のお墓に入ることになるだろうというくらいにしか身近な生活には宗教が関係していないものであり、信仰心は持っていないが、イエス・キリストの生涯・教え・思想が書かれた聖書やその他、キリスト教関係の文献に多感な時期に出会えたことは、一生の財産であると思っている。実存としての思想の面だけでなく、文学・哲学さらには西洋のロックなどに、文化的な興味関心を深く持つことができたのは、聖書を手にしたからであると思っているし、また、人格の面でも中学生のときまでは人に冷たかったが少しは他者に対して愛情を持てるようになり優しくなれたと思う。

私にとって聖書に出会えたことはいいことだらけであった。宗教には属していないがイエス・キリストは最も尊敬する人物の一人であり、とくにそのときの貧しい人や病に苦しむ人などを救おうとする愛、神の意志を事実伝えた精神性、圧政に対する革命への意志を尊敬している。

しかし革命家、革命的思想家というのは、若い精神にとっては時に悪影響になることもある。たとえばニーチェである。



ニーチェは反キリストとして有名であり、「アンチ・キリスト」というタイトルの書物を著し、有名な「神は死んだ」という言説もあるほどである。しかしニーチェは、その「アンチ・キリスト」においても、一人の個人としてイエスに敬意を示している言説が見られるし、ニーチェが発狂するほど生涯をかけて否を唱えたのは、キリスト教というよりも、畢竟、キリスト教圏のヨーロッパの人々の生の価値が西洋文明や政治体制によって貶められていること、ニーチェ自身が現実世界や書物の中で見聞きする人たちの良心が不誠実になってきていること、そして権威として世界に君臨しながら(科学の発展によって神の実在が疑われるようになってきたこともあり)宗教が実際に人の生命の内奥に機能し実存を高める役割を失ってきていることであり、ニーチェ自身は決してヤハウェの神を貶めたわけではない。実際にニーチェは旧約聖書の荒ぶる雄雄しい怒りと罰の神に畏怖と敬意を示す言葉をいくらか残している。

「神は死んだ」というのは、神が人に正しく作用することのなくなった当時の西洋世界の形態や風潮、西側文明人の傾向全般を批判した言葉であり、人々に機能しなくなりつつあった神への信仰心を超えるものとして、虚無を乗り越えるために、宗教や既成の枠組みに囚われない個人の生の高め方を狂気に陥るまで説き続けたのである。私は一時期グノーシス主義にハマっていたときにキリスト教に対して懐疑的になることはあったが、不思議とニーチェを読んだときはアンチ・キリストにはならなかった。上述のことを認識していたからでもあると思うが、何よりニーチェの誠実さを感じ、もはや崇高ともいえる誠実な精神に、宗教の根本に通じる倫理を見出したからかもしれない。ニーチェの誠実というのは、学術的にはどうかと思うことが多々あり、言いたいことのために事実を捻じ曲げる傾向にあり、師から処女作を「酔っ払いの戯言」とまで言われアカデミックな世界から半ば追放されたほどであるが、精神的な面での誠実は極まっている。だからこそ、自分がそれは人の生を貶める・諸々の高貴な価値を貶めると直感したもの、判断したものに対しては、妥協のない批判を容赦なく行っている。当時の権威や一般的風潮に媚びることなく、それらから攻撃を受けることを全く厭わず、信じたもののために命を懸けて言葉を放っていた。

その革命的な精神は同時に悪影響にもなりうる。ニーチェが悪影響を与えた個人として有名であり、文明上の永久戦犯といっても過言ではないヒトラーは、若いころにニーチェの超人思想などに多大な影響を受け、ニーチェの元盟友ワーグナーに心酔し、ナチスの凱旋歌にワーグナーのタンホイザーを使用した。ヒトラーは反ユダヤ主義を偏執的な誇大妄想といってもいいほど推し進めていたが、ニーチェは決して反ユダヤ主義者ではなかった。前述のようにニーチェは旧約聖書の神を高く評価し、畏怖を示して礼賛することがあったし、妹が反ユダヤ主義活動をしていたのに強く反発しただけでなく、反ユダヤ主義が当時のドイツに蔓延りつつあることに危機を感じ、警鐘を鳴らしていた。ユダヤ人に迎合したわけではないが反反ユダヤ主義といってもいいほどであった。ニーチェは当時の西洋文明に虚無を感じ取っていただけでなく、政治的な面でもドイツの異常の萌芽を感知していた。

ヒトラーのような歴史に影響力を持った人物においてだけでなく、ニーチェの悪影響というのは散見されると思う。まず、20世紀以降の哲学史では「ニーチェ以前/以降」というのは重要なターニングポイントとなっているが、ニーチェ後のポストモダン哲学の一部は、ニーチェの唱えた遠近法主義の悪影響を受けて過度の相対主義に陥っているのではないかと、あくまで個人的には思う。言葉の使用方法の自由度が高すぎ、余計な観念を新しい遠近法として捏造的に量産しすぎているのではないか、ソーカル問題で槍玉に挙がっているように数学や科学の概念を濫用してはいないか、社会上の事柄を勝手におかしな観念体系で解釈しすぎではないか、などポストモダン哲学には問題点があると思われる。

また、若い多感な精神に対してニーチェの過激な比喩表現は麻薬のように作用し、西洋精神に毒づき覆そうとした革命精神と相まって、反政府主義者などの過激派を生み出す可能性を蔵しているし、また精神的に病んだ若い神経系に劇物のように作用し余計に苦悩を増大させるものでもあり得る。

ニーチェは哲学界のトリックスターであり、天界の火を人類のために窃盗するという不遜を犯してゼウスの怒りを買い山頂で磔にされ肝臓を長期間巨大な鷲エトンについばまれ続けたプロメテウスのように、11年間発狂したままになってしまったという悲劇が下ったし、言語の魔術師といってもいいほど言語の法を侵犯して多種多様な言語表現を生み出したせいで誤解されたりするが、決して低級なトリックスターのように悪意を持って人間界や言語世界を攪乱しようだとか思っていたわけではなく、確固たる内的な正義と倫理に基づいて、際まった誠実を以って、人間の実存を高めようという意志で、当時の西洋の諸々を批判していたし、それだけでなく言語そのものに対しても痛烈な批判をしている。

その結果として悪影響が見られるものではあるが、その誠実さを考えると皮肉なものではある。元来、人間世界がたくさんの不正や不誠実の上に成り立っているので、ニーチェの偉大な意志とその純度の高い妥協なき誠実さに影響を受けすぎ、ニーチェが批判したのがもはや当時の人間全般・哲学全般といってもいいことを併せるなら、その文芸的天稟に激情を宿したセンセーショナルな言語表現に陶酔した特に若い読み手は、本人のキャパシティを超えた二律背反的な葛藤に陥ることになると思われる。

しかしヘーゲルの哲学でいわれるように、弁証法によってテーゼとアンチテーゼが相互作用することが構成的に機能するし、ユングの言うように二律背反的な苦悩の状態にあるときは人間の無意識から超越機能が働き象徴的に諸問題を解決しようとするものだ。ヘーゲルの哲学はあまり親しんでいないので控えるが、このユングの超越機能や象徴による解決というのは大変興味深いものであり、ニーチェが比喩表現や象徴表現を多用したことも考慮すると、超越機能は若い悩み多きニーチェ読者には多数働くのではないかと思われる。文章や歌詞などで出会った比喩表現やその他シンボル・絵であったり、自分の空想や詩作などから発生した比喩表現や図像などに、突然ハっとして、社会的要請により意識上で優位にならざるを得ない観念群とそれに拮抗的に対立する無意識に抑圧された受け入れがたい情緒群の、妥協として、さらには妥協を超えて新しい視野の拡大に繋がる心理的新発見として、それらの言葉や表現が心に作用し、それによっていつのまにか神経症的苦悩の一部が解決されると同時に、人格の領域や内容が少し拡大する(たとえば以前より多くの事柄に寛容になれる・多くを理解る)ということがあるが、それが象徴作用としての超越機能の一例である。

キリスト教世界の詩人や音楽家には、たとえばマリリン・マンソンやジム・モリソンなどニーチェの影響を受け、明るく楽しく平和な世界と相反する思想や表現の傾向を持ちつつも、素晴らしい詩句や歌でカリスマ的影響力を持った人物がたくさんいるし、シュールレアリズムやダダイズムなど20世紀の美術においてもニーチェの現実を超越したような芸術表現や反現世界性に影響を受ける人がいくらかいた。

とにかく、ニーチェに限らず表現が巧みな革命的な思想家・表現者の読むことにおいては、下手をすると反社会的反人間的な思想に陥ってしまう可能性があると同時に、表現側が広範な事柄群を思考対象に表現していることから読み手が思想的感化を受けた際に実存に関する関心事としてそれらが精神上に現象するので、その革命性・反骨性とそれに相反する既成の社会の枠組みを同時に生きることになるので(その二律背反性を思考や読書や鑑賞などによって解決できる意志と努力がありさえすればだが)、人間世界上の諸々の事柄を内包する者として、人格の内容を拡大することに繋がるのではないだろうか。

もちろん思想や人格の面だけでなく、学説などにおいてもそれは言えるだろうと思う。ドイツ観念論を打ち立てたカントと、その伝統的哲学を破壊しようとしたニーチェを比較する事で、何らかの弁証法的解決によって新しい学説が生まれることはあるだろうし、カントを信望したあとにニーチェに心酔したとしたら、なおさら面白い言葉が生まれるのではないだろうかと思われる。

2ちゃんねるの思い出…

1~2年だけ期間限定で2ちゃんねらだったことがあります。

そのころ18歳か19歳、テクノロジー犯罪の被害を直撃しはじめて数か月たったころ、大学で勉強したくて仕方なかったのに、受験勉強を妨害され、というより生活をほぼ完全に破壊され、電磁波で脳を操作されまくってまともに生存することが困難だった。併せて、若く多感の頃の苦悩の多い神経で被害で滅茶苦茶にされていたころから、鬱病を発症していて、精神的苦痛の中で悶えていた。その中でも大学教育を受けて色々な知の扉を開きたいという欲求は強く、受験勉強は思いっきり阻害されていたのと、精神的な苦悩の状態では哲学を読むことに相性がよかったことで、哲学や文学に熱中していたが、一人でやるのも刺激が足りないし、まわりには哲学について話せる友人知人がいなかったのとで、ネットに手を出そうと思い、なんとなく2ちゃんねるの哲学板に投稿を開始した。

煽情的な比喩表現を多用しながら、色々な思考を長文で投稿していると、意外にレスポンスがよく、たくさんのレスが殺到し、その半分くらいは2ちゃんねるでよくある叩きで、それに対しても逐一、反論をなるべく哲学的に返していた。毎回、2ちゃんねるの投稿の文字制限限界の長文を、8禁(一定時間以内に8レスを超える投稿をできないこと)に抵触しながら、大量投稿を繰り返していて、批判の3行レスが飛んで来たら、5分で30行のレスを飛ばしたりとしていると、色んな名無しさんから賛否色々なレスが来るようになり、数か月後には哲学版のいくつかのスレッドを私物化して、有名なコテハン(固定ハンドル)と化し、何人かのコテハンとは仲良くなり、哲学談義をするようになっていて、2ちゃんねるが遊び場になってしまっていた。

2ちゃんねるは、悪い面、匿名で投稿できることから、投稿内容が事実性の面でも道徳倫理の面でも無責任であり、誤情報や中傷が飛び交ったりしているが、匿名で気軽に投稿できるということから、無名のディレッタントが哲学板には自分の考えを無数投稿していて、あくまで2ちゃんねるの中ではまだ教養レベルの高いほうである哲学板では、それなりに面白い考え方が漂いまくっていて、読むだけでも楽しめることがある。普段は言えない、個人の独自の考え方を責任やアイデンティティを伴わずに軽く表現し共有できる点は、匿名掲示板のいい点であるかもしれず、色んな発想や表現をキャッチできてそれなりに有意義な場所ではあると思えた。また、アカウントがありハンドルネームがあるSNSでは、他人の意見や考えに対する懐疑や批判を返信として述べるのは多少以上気が憚られるが、匿名でアカウントのない2ちゃんねるの、少なくとも哲学板では、もちろん2ちゃんねるらしい叩き合いがあるものの、それぞれの投稿に対する批判、反論、解釈がさかんにレスとして行われ、議論になることもあり、思考の発展や新解釈の発見に繋がったりと、知的活動として多少以上は有意義であるような一連のやりとりも行われることがあった。

そういう匿名故の無責任さと自由さが奔放に開放されている場で、私は固定ハンドルとしてあれこれの考え、哲学者の思想に対する解釈、言語について、精神について、宗教について、意識の構造について、芸術・文学について、たくさん投稿していて、ある程度は遊びつつも真面目に書くことを心がけ、叩きや批判のレスにも丁重に敬語で誠意を見せつつ反論していたら、2ちゃんねるらしくなくなってきて、固定ハンドルが周りにたくさん現れ、名無しも叩きを行ってくることが少なく、あるスレッドがSNSのように機能しつつ、支持者が出てきて、ファンも出てきて、人が集まり、それぞれの人が自分の考えを述べるようになり、一種の交流のクラスタが生まれ、闊達な議論が繰り広げられることもあるようになった。私個人としては、テクノロジー犯罪の被害がそれによって解決に向かいどうかなるということはなかったが、受験勉強に比べてあまり加害者が妨害してこなかったのか他者とのフィードバック体系を共有した知的活動を行うことができて楽しく、また哲学や心理学などを深く追及することにもつながり、鬱病の方は快方に向かっていくことになった。

そこで二人の天才に出会った。一人は主にショーペンハウアーやニーチェなどの哲学者の思想について意気投合し、その他、自然や文学についても共感を得ながら、たくさんの議論をすることが出来た。大変頭の良い方で、小学校の時に最高値が145しかでないIQテストで145をマークした方で、私の個人趣味で深く追及していた独自の考え方や、比喩表現を多用する文章を、的確に理解してくださり、そのときの酷い孤独の状態を和らげてくれ、生まれて初めて人間・自然・宇宙・哲学などについての深い考えを共有できる人となった。また年上だったので、世間知的にも教えられることが多く、おかげで人として成長することができたと思う。スカイプで音声会話をたくさんすることもあり、日常についてもたくさん話すことができる年上の友人となってくださった。

もう一人は、非常に高いIQを持ちながら2ちゃんねるで10年間遊び続けている孤独な天才であり、ワーグナーこそ最高のオカズだと豪語するイカれた男、なかなかの変態で、また哲学よりも芸術やアートの世界に親和性の高い精神構造や感覚の性質を持っており、ピアノやギターが上手で、芸術やクラシックやロックの評論については素晴らしい表現がたくさん出てきていたりして、どちらかというと感覚・感性の面での天才と言っていい人物であった。

その後者の人は警戒心が強く、音声で会話することを私は拒否され、あまり個人的なことは話させてくれなかったが、2ちゃんその他掲示板上でお互いの詩や絵を評論しあったり、ロックについて文字で話したりと、それなりに楽しい芸術活動を遊びでしていた感じであった。しかし、彼とニーチェの哲学の解釈について反目し、そこから喧嘩が始まって、2ちゃんねる上でも滅茶苦茶な批判のしあいをするようになった。一時期、哲学板の某スレッドが、私と彼が言葉で戦闘するような場所になり、スレッドを私物化しつつ、~派と~派まで現れ、名無しやその他のコテハンを巻き込んで喧嘩していた状況になった。

私はそれまでに哲学板の住人から支持をあつめていたため、加勢してくれる人も現れ、また感性においては彼の方がレベルが高かったが哲学については私の方が上回っていたため、そのネット上の激戦の中で私が優勢であったが、だんだんとネット上で喧嘩や批判の仕合をしているうちに気がおかしくなってきた。それと相まって、アルコールにハマっていたことと、またテクノロジー犯罪加害者が喧嘩による錯乱に乗じて加害を強めてブレインジャックなどを行ってくるようになったため、だんだんと私の言行は乱れていった。

そしてそれが極まったとき、私は橋から飛び降りて、背骨を骨折し、救急病棟へ運び込まれた。それがテクノロジー犯罪によるブレインジャック・ボディジャックによる加害であったのが、私の気がおかしくなっていたため酒酔いも乗じて奇行を行ったのか、不明ではあるが、とにかく救急病棟で大きな手術を受け、奇跡的に後遺症なく骨折による重体からは復帰できたが、飛び降りたということから、精神科に移された。

そのことを病院内で日記に書くと、喧嘩していた相手のネット上の彼女さんであり、また私とネット上で仲良くもなっていた人が、びっくりして、半ば心配しながら、半ば嘘だと疑いながら、私の家の電話番号を知っていたので私の母に対して、ヒステリーになって電話をかけてくるという事件が起こった。それで、本当に私が背骨骨折の重体になっていたことが事実として相手方の知るところとなると、ネット上の喧嘩も終息し、私が哲学板に書き込むことは、入院中も退院後もなくなった。

その非常に才能のある二人に出会えた中の、前者の方とはいいことだらけであったが、後者の喧嘩相手とは滅茶苦茶をやっていて、ネットというのは、とくに2ちゃんと言うのは、大概なものであると、哲学的談義の熱中から醒めてからは見切るようになり、ネットを検索以外でコミュニケーションの場として利用する事自体それ以降10年近くほとんどなかったのであるが、今となっては、喧嘩での相手に対する嫌悪感がなくなってみると、なかなか面白い人物に出会えたなと、そこそこよかった思い出になっている。

2ちゃんねるみたいな叩き合いで悪名高い場所も、使い様によっては面白くなるものであると思えた。毎日のように、字数制限・投稿数ぎりぎりの分量の哲学についての言葉を投稿し、他者からのフィードバックが多く、それに対しても返答していたことから、言語によって、自分の考え、難しい思考の対象に対する解釈などを、記述する能力を上昇させることもできたので、少しは有意義であったように思える。今となっては縁が切れてしまったが、ネット上の哲学・文学・音楽好きの友人も複数人できたし、その時別の場所で書いていた詩やエッセイや論文の読者も獲得することができたし、ネットも有用に使おうと思えば使えるものであると思えた。特に、哲学はそれほど趣味としている人の絶対数が多くなく、現実生活で哲学について多く話し合える人を見つけることはなかなか困難であり、話したくても話せなくうずうずするその欲求不満を、ネットの特定の趣味クラスタが集まるような場所においては、比較的容易に解決できるものであると思えた。大学生活をテクノロジー犯罪によって奪われていた私にとっては、青春期に知性を開放させる場としてまあまあいい場所であり、言語表現や議論を行いつつ哲学を深めていくうちに、テクノロジー犯罪の方がそれによって軽減することはなかったが、鬱病の方がほぼ全治して特に苦悩することがなくなったので、いい治療であったかもしれない。

最近は英語を勉強中


緊急事態宣言もどうやら延長しそうであるし、自粛期間をせめて少しでも有意義に過ごそうと、英語の勉強を4月から本格的に始めています。



4月だけで購入した英語の参考書…
さすがに買いすぎたけれど、1/3ほど消化しました。

ゲーテの格言に、
外国語を知らないものは、自分の国語についても何も知らない.
英訳:Those who know nothing of foreign languages know nothing of their own
(『格言と反省』より)
というものがあります。最近の研究でも、外国語の学習は母国語の国語力を大きく向上させるという結果があります。

私は今更の夢ですが物を書いて印税収入で生活したいという目標をもっているのと、もし経済的余裕がでたら海外に住みたいというのもあるので、英語を勉強をしすぎても損はないと思っていて、英語を総合的に勉強することにしました。

英語の勉強というのは、結構勉強量に比例して成果として英語力が実感できるほど上がっていくものなので、なかなかに楽しいです。

以前20歳くらいのころ、TOEIC700点程度の英語力でしたがちょっと背伸びしてペーパーバックを読み始めて、英語で小説を読むことにハマっていたことがあります。とくによかったのが、エドガー・アラン・ポーの小説。原文での読本は、日本語版では色あせてしまった芸術性が強く感じられて凄く感動しました。エドガー・アラン・ポーといえば江戸川乱歩が愛読していて、推理小説のさきがけ的なものを書いたことでも有名ですが、あの至高の背徳詩人ボードレールもまた、エドガー・アラン・ポーを敬愛し、いくつかの秀逸な評論を残していて、ポーの芸術性に言及しています。『アッシャー家の崩壊』は、ゴシックで暗くも耽美で綺麗な印象でした。

海外文学の中でも特に詩や芸術の側面を愛するのであれば、是非とも外国語を学習するのは意義のあることで、原文で読むと文章や詩句の美しさというものがより強く伝わってきます。シェイクスピアとかを読んでみたいなと憧れてます。

原語ではありませんが、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を英語で読み始めました。前にも一度読みました。この小説は比較的難解な長い文章が多く出てきますが、日本語で7回ほど読んだ小説である程度記憶していたので、なんとか読破することができました。しかし、世界で1~2番目に好きな小説なので、また英語で読みたくなり、再読しています。前は流すように読んでいましたが、今回は精読しようと思い、1日数ページずつゆっくり意味をたしかめながら読んでいます。

言語というより、文字からの影響ですが、アルファベットで読んでいるとより洋風の情景が浮かんできて、なんとなく違う面白みがあります。

自粛期間でずっと家にこもりっぱなしであると、気がおかしくなりそうにもなりますが、何か没頭できるものとして、英語学習はうってつけでした。私の会社は緊急事態宣言中も私の所属している課に限って毎日8時間出社している状態ですが、仕事が終わってから4~5時間は英語を勉強しているような気がします。取り組み甲斐があります。

人間という存在は、今はウィルスの流行に脅かされてますが、自宅内で一人であっても生産的な活動を行える強さがある種であると思います。経済活動がコロナウィルスに大きく阻害されていて屋外の活動全般はずいぶん低迷させられていますが、自宅内であっても色々と出来ることが多いので、なにか有意義なことを見つけられれば、精神的には負けることはないと思います。外で遊ぶこと、屋外の活動、人と対面して話すこと等が好きな人にとっては、辛い時期ですが、この時期も無駄にせず、なんらかの価値のある活動を多くの人が見つけられたらいいなと思います。

TORRに挑戦……

1週間ほど前、Twitterに流れてきた無料のIQテストをやったら、なんとなく面白くて、IQって何だろうと考えて、1個前の記事を書きました。ささっと書いた雑文程度で特になにか重要なことを書いたわけでもなく、IQ高い人は社会適応を目指した方がいい、と当たり前のことを書いただけに終わってしまいましたが…

IQというのはある程度高ければ、社会に適応しやすいと思うが、突き抜けて高いと、逆に適応しにくくなるのではないかと思えることが度々あります。IQが高く生まれたのに学校や社会になじめず孤立し、能力を生かせない人というのは多いような気がします。

そういう人にとって救いになるのが、High IQ Society であるのかもしれないと。孤立している頭の良い人は、なかなか話が合う人を見つけることができない、なぜなら孤立していれば絶対数として友人知人が少ないし、その少ない友人の中で知的嗜好の合う人を見つけるのはなおさら難しいからです。



High IQ Society(高知能団体)というのは、入会することで、コミュニティの一員になるのだから一気に知己を増やせるというだけでなく、その成員が悉く同等の知的レベルであるから、趣味や話が合いやすいことになると思います。

MENSA に入会して、わかったことは、グループ意識と同じような知的レベルのためか、SNS で交流が盛んで、みな生産的な、少なくともそれなりに楽しい、コミュニケーションを展開しているということです。私はオフ会のイベントにほとんど参加していませんが、SNSで興味深い投稿を拝見させて頂いていて、インスパイアーされることがよくあります。

それはそうと、私は海外の文化に結構興味があるし、英語を勉強したいし、英語で外国人とコミュニケートしてみたい、という願望が強いです。また、コロナ禍の中、人とあまり直接会って話す機会が減り、ネット上でのコミュニケーションの有用性が上がってきています。というわけで、ネット上のほとんどが外国人のSNSはないかと思っていたのと、Facebook上でのJAPAN MENSAのメンバーたちの交流が生産的であることを鑑みて、海外産のHigh IQ Societyに入会しようと思いました。

だいたい自分のネット上のIQテストが140台なので、現実的には入れる可能性があるのは、145あたりか…と思い、調べてみたら、CIVIQ Society, TORR, Triple Nine Society などが該当していました。入会要項を見ていたら、IQの数値以外の面で、つまり費用や手続きの容易さの面で入りやすい団体が、TORR でした。
https://torr.org/

入り方は↓のリンクのサイトでアカウントをつくり、
https://iq-test.ca/ccfit/
ICFIT(The International Culture Fair Intelligence Test)という8.99ドルのテストを受けて、IQ145以上の結果を出し、その後で20ドル(コロナの影響で今は安いが通常は49ドル)を支払うというものです。TORR の会員サイトと iq-test.ca は連動しているのでスムーズです。今なら日本円で3000円ちょっとの費用で、ネットのテストと手続きだけで入れるので、入会の煩労が特にないです。PayPal(アカウント持ってない方は)登録するのがちょっと面倒なくらいです。

早速、多少の緊張を感じつつ、ICFIT を受けてみました。往々にしてIQテストは守秘義務があるので内容は書けませんが、TORR のサイトによると、「This test is comprised of spatial and matrix reasoning items as well as a few numerical items. 」(https://torr.org/)


テクノロジー犯罪の被害によって弱っている自分の頭ではなかなか難儀ではありました…

お酒飲んでいたし
徹夜していたし

言い訳はともかく、
時間切れ……



時間配分をもう少ししっかり考えておけばよかった…



きっとだめだろう…






結果確認の緊張感をまどろませるために……睡眠不足だったけどコーヒー飲んだかどうか……いや……そのときフラフラだったんでコーヒー飲んだかどうかさえ覚えていない……




結果は……








……アルコールと涎で喉が潤う中、ちょっとぞくぞく…!








…。





ギリギリIQ145でした。
セーフ!





どうやら IQ-Test.ca と TORR の会員サイトは連携しているらしく、IQ-Test.ca のICFITでIQ145以上をとると選択できるようになる、TORR へ入会のために20ドルを支払う、というところをクリックし、 IQ-Test.ca 内で PayPal 決済をすると、自動的に TORR の会員になりました!

TORR の会員サイトにログインできるようになり、会員専用のSNSを使用できるようになりました。

知的な外国人…と聞くとワクワクして、さっそく自己紹介いてイイネやリプライ待ち…。
趣味や気のあう人がみつかるといいな。

高IQ団体入会というのはメンサみたいな規模と伝統の大きい組織を除いて果たしてメリットがあるのかどうかはわかりませんが、TORR の場合は今(2020年4月の時点で)は3000円台で入れて、知的レベルの似通っている人と交流できるグループに属せるというのは、それなりにいいものではないかなと思います。

TORR で遠くの友人をみつけられるよう、英語の勉強を精進しなければ!

IQの高い人について

IQが高い人の特徴というのは何か?
・頭が良い
・数学が得意
・閃きがある
・知的好奇心が強い
・孤独
・普通の人と会話がかみ合わない
など色々なイメージがあると思う。IQ社会であるアメリカでは、収入とIQの高さが相関関係にあると言われている。一方で、社会や文化・芸術にとって創造的であることと、IQの高さがそれほど相関にないという報告もある。




(初めて受けた有料の具体的な数値が出るテストの結果: 146)

まず、IQが高いとはどういうことか。多くのIQテストで測られる能力というのは、図形や数列の法則性や規則性を見つけ出してそこから1個~数個ある空欄を類推して求めるというものであるが、その結果が知能を純粋に評価する数値として規定されていいものであるかどうかというのは、昔から議論の対象になっている。知性全般でいうと身に付けた知識であったり知的な特訓によって獲得した能力であったりも含まれるが、IQというと、(必ずしも定義としてあるいは臨床的事実としてそうであるわけではないが)イメージとしては先天的な(もしくは発達段階で形成された)大人になってからは恒常的な知能の指数、という意味合いがあるものである。IQテストに多いのが、図形がいくつか並んでいる問題であり、数列より比較的用いられることが多い理由は、数列のほうは数学を学習することによって経験的に獲得できる能力に依拠する度合が、図形と比べて大きくなってしまうからだろう。IQテストの図形の問題は、幾何学的知識にもその正答率がほとんど依存しない(幾何学的訓練がある程度はその正答率に影響するかもしれないが)、前提的な知識を度外視できる純粋な問題になっていて、未知の事象の配列から法則を見出す能力、及びその法則を分析して次に来るものや欠けているものを類推する能力などを、それなりに判定できるものであろうとは思う。

一般的なIQテストで測ることができる機能というのが、並んだ図形などから法則を見つけ出す能力であることから、平均的な知能の人にとってはとくに意味のない事象の配列であったりランダムに見える物事の配置であったりに対し、IQの高い人は法則や規則を見出し、それらの関係性や意味をつかむことができ、従って分析や思考の対象にすることが可能となる。要するにIQの高い人にとっては、諸々の物事がより強く多く関連しているように見え、従って意味をもっていたりする度合も大きい。IQが高ければ、事象の分類の方法が多様であるため、下位のカテゴリーの事象を上位のカテゴリーの事象関連の中に置き並べたりでき、より上位の概念で事象を括ったり、上位概念から個々の事象に降下したりすることが、易しく行える。このことによって、物事を様々なレベルで考えたり、一見遠そうなカテゴリーに見えるものに結び付けて考えたり、人より多くの関係性を物事の群に見つけ出したり、その関係性や意味を様々な平面で多角的に分析したりすることができる。

もちろん、これらの能力は学業の出来にプラスの相関をもっているだろうが、それだけではないだろう。IQテストではどんな前提にも依拠しない純粋な図形の羅列などかから法則性発見の能力や類推する能力が測られるため、五教科や読み書きなどに限らず、人と人の関わりの間でおこる諸々の事柄に対してであったり、人の心理に対してであったり、社会でおこる様々な事柄群に対してであったりも、上記の能力が適用されるため、日常生活や社会生活においても、様々な物事が色々な方法で関連していて多角的な思考の対象になっているということが考えられる。

なので、適切にIQの高いことからくる能力を社会上の事柄に向けることができたら、その人はより充実した少なくとも思考の体系を事実関連に役に立つ形でもつことができる。頭が良い人の言うことが魅力的に感じるのはこのためだろうと思う。しかし頭が良いことは、物事を深く考えすぎることに繋がるし、また知能が高いということは神経の敏感さにもある程度は相関があるだろうし、さらに知能が高ければ他の人が気づかないことに当たりまえに気づき誰も認識していないことを当たり前に認識していたり、多くの人の関心のないことに関心を強くもったりと、孤独に陥る危険に繋がる要素も孕んでいるだろう。

人間の諸々の能力の中でもちろんIQというのは一部の指標ではないが、人間社会上の事象というのは人間の総体が今までに形成してきた関係性や意味などで繋がりが成り立っているため、多角的にそれらを見出していける能力というのは、孤独を免れて適切に人間社会に適用させることができれば、大きな力になる。もちろん社会上の事柄だけでなく、学問においては顕著にその力が現れるだろうと思われる。しかし問題は、社会の総体といのは、全ての個人がそれに属しているという性質上、平均的な人向けにできている、ということである。IQが高いことによって、たとえば小学校や中学校の学業が退屈すぎて教育に意味を感じなくなってしまったりすることもあるし、社会生活でも頭が良ければすぐ分かりすぐに通過できる事を面倒な手続きや説明を経てやっと通過しなければならなかったりと、IQの高い人への弊害も多く、その能力を存分に発揮できていない高IQの人というのはけっこう多いのではないだろうか。


(JAPAN MENSA はそこそこ会員数が多く、交流や活動が盛んです。)

東大生の平均IQは120と言われていて、日本人の平均の105~108あたりから10以上も高い。ハーバード大学生の平均は130、メンサ会員の最低値が130、メンサ会員の理論上の中央値が135であることから、メンサ以上の人というのは、東大生と平均的な頭脳の人の差よりも大きな差を、東大生の平均に対して持っているのであり、同じ大学で同じ教育レベルである程度近い知能の群の中で人と関わるということのできる東大生よりも、孤独に繋がりやすいと推定できる。だからこそ、メンサをはじめとした高知能団体が出来、だいたい同等の知能の人どうしが交流する場と言うのが設置されている。メンサに始まるハイIQソサイエティーというのはそういう意味で画期的であり、普通の人の中で突出したIQを持っているがゆえにものたりなく感じることを、補ってくれると思うし、その団体の中でスムーズに知的な交流ができるため生産的であろうと思われる。


(追記→ https://jean629980.blogspot.com/2020/04/torr.html TORRというIQ145以上の団体に入会しました。会員専用SNSがあります。メンバー一覧はこちら→です。31ページ目に私の名前があります。https://torr.org/members/)

しかし、IQだけが全てなはずはないし、人間にはさまざまな要素があるのだからそれらの色々に魅力や意義を感じるべきであるし、IQが20離れると話が通じないということはない。話が通じるかどうかという問題については、もちろん高度な思考をリアルタイムで言語化した内容というのはIQに差がある人に対して通じないことが多いが、人間が人間である以上、相手に応じて発話する内容や形式を変えていくべきであるし、本当にIQの高い人ほどそうすることができるだろう。私は精神科で受けるIQテストは受けたことがないが、メンサの入会テストは簡単に全てできたので少なくとも130以上は保証されていて、ネットのIQテストで信憑性がありそうな比較的しっかりしたものでは140台と出ることが多いが、保育園や小学校のころ仲の良かった友達は学校でテストの点が一番低い人だった。特に彼とは問題なく接することができ、IQが高いが故に可能な助言であったりを私は行っていたであろう一方、その友達は活発で人と交流するのが得意であることから私に人と人との関わりについて教えるところがあっただろうと思われる。IQが高ければ諸々の知的能力が高いことにはなるが、人間という様々な面を持っている存在を測るにあたっては、ほんの一部の指標でしかないように思える。

私はメンサ会員であり、IQが高い人同士のグループだからこそ行える交流があることを知っているが、一方で、人間というのは色々な個性があり、個性が違う人同士が集まり強調するのが人間社会の形態であるのだから、必ずしも高IQ者が閉鎖的になる必要はないように思われる。私はおそらく140台であろうIQの割には、教育の水準の低いところをずっと生きてきたが、どんな個人にもそれぞれの魅力があったように思える。ドストエフスキーの小説の登場人物には、非常に考え深い人、たくさんのことを思いめぐらせている人、イワン・カラマーゾフのように知性の優れた人も居る一方で、ろくでなし、ならずもの、アル中であったり、貧しい人や病人もたくさん登場し、それらの群像が一体となって小説の世界を形作っている。知能の違いを受け入れて、それを排他に繋がる落差だと思わずに、人や社会に組み込まれていくことが重要であると思われる。

アメリカでは比較的高いIQを持つ人が成功しやすい社会の形態になってはいる一方で、その他の国では十分にそうなってはいないのが現状であり、IQの高い人が孤独に陥ったり能力を発揮することができなかったりするが、それを阻止するには、知能の差ということでアイデンティティを標準的な世界から分離させず、上手く人や社会に組み込まれていくようにするべきだ。IQが高ければ、そういう姿勢をもちさえすれば、それを実現することは容易であるはずである。高IQ者は社会に適切に組み込まれてこそ、彼は社会にとって生産的な活動をたくさん成すことができるだろう。もちろんメンサなど一定以上の高いIQを持つ人同士で「ソサイエティ」を作り交流することも意義のあることだが、社会と有意義に関係するためには、あくまでアイデンティティを標準から切り離さず、上手くその得意な知的活動を現実に組み入れることが求められると思う。もっている可能性は大きい。高IQ者に適した社会にはなっていない現状ではあるが、頭がいいのだから謙虚さを以って自身を社会に適応させればいいのであり、その方が本人も成功しやすいのはもちろん、幸福度もあがり、他者に対しても生産的になれるだろう。



読書のすすめ

読書は人生を豊かにしてくれるとよく言われるが、まさにその通りであり、読書によって齎されるものの価値は大きく、効能も大きい。読書で得られるのは決して知識だけではなく、数えきれないほど得られるものがあることは、読書家の当たり前に知ることであり、科学者も脳機能の向上の観点から読書によって得られるメリットが多いとされている。

 人間は言葉を恒常的に使用する生き物であり、脳内には無数の言語に関する回路が根付いているのだから、その言語に関する無数の数の回路が言語全般に反応しうる可能的な量と言うのは膨大であり、人間には莫大な量の言語の総体が開かれていると言えよう。

日常から人間は言語を使用すると言っても、特に読書をしない場合というのは、使われる言語の体系というのは限定されたものであるのだが、読書などの言語的活動をすることで、膨大な量の言語の総体に開かれることになり、日常の限定された言語の体系から大きくはみ出した量の言語が人の精神を駆け巡り得ることになる。

人間の古来から今も続いている多様な言語活動において、あらゆる物、事柄、出来事、状況、感情、心理、イメージ、観念、概念が名付けられ、名辞が与えられているとともに、それらの相互関係が文法に則った一定数の言語で起き並べられ、意味が与えられている。普段の日常生活ではとくに気をとめないような心理やイメージであったり、日常では出会わない出来事であったり、社会生活では特に必要とされないアカデミックな事柄であったりも、作家や学者によって言葉のまとまりで表現され、形や意味が与えられている。つまり、人間には言語の総体が開かれていると同時に、未知の世界が、それに含まれる事象に対して人が言語で名付けと意味付けを行っているということから、どこまでも開かれているのである。

それらは時には、普段は遭遇しない事柄であるためにすっと入ってこなかったり、アカデミックすぎて理解するのが難しかったりすることもあるが、人間の脳に備わっている言語機能の可能性は大きいため、既に知っている言葉や文法、それらが叙述可能な事象の配列から、いくらでも発展して、新しい事象や知識に対して誰でも解釈を行うことができ、そうすることで言語を通し、世界はいくらでも広がっていく。

生き物の図鑑を読めば、掲載されている写真に添えられた言葉での説明により、生物と自然の森羅万象の営みが読む人の心の前に現前し、ありとあらゆる生き物の生態を、家に居ながら知ることができる。生物学の本を読めば、生き物の外観だけでなく内部の構造や機能であったり、生き物の行動の意味や目的を知ることができ、生き物についてより多くのことを、言葉と少数の絵だけで知ることができる。

伝記やノンフィクションを読めば、普段の交流する人との会話だけでは出くわさないような、色々な出来事を追体験することができ、人間世界についての新しい事柄がたくさん自分に開かれていくことになる。小説や文学を読めば、実際にないこと、人間が体験しうる様々な出来事、人間が思い得る色々な心理を体験することができ、現実の実存からはみでた様々なヴィジョンや真理を手にすることができる。

評論文や批評文を読めば、社会上のあるいは学問や芸術の世界の色々な事柄に対して、学のある人が持った意見、それについての思考を、共有することができる上に、様々な意見や思考を取り入れることによって、本の外で現実的に体験する事柄についても、色々と思いめぐらせ深い洞察を持てるようになる。哲学書を読めば、時代と場所を超え、偉大な精神が人間や世界について見抜いた真理に触れることができ、読む人の精神は成長していく。

言語というのは、人間を特徴づける伝達方法であり、単なる視覚や聴覚の直接的な情報とは違って、五感によって感知できない遠くの事象を交通させることができる点で、人間を動物と大きく引き離しているものである。人間に生まれたからには、見たこともない生き物の羽の構造を知ることもできれば、3000年前の哲学者が抱いた思考を共有することもでき、宇宙の果ての星の営みを知ることもでき、フィクション上の冒険や景色を体験できるのである。体験しうるであろう社会上の事柄についても、全く知らない他人の経験を言語を通して追体験することで、社会生活上で自分の物として起こしうる行動や思考の可能性も増していき、行動の指針であったり出来事に対する解釈であったりが増大していくことから、実際に社会生活を行動面でも精神面でも豊かにしていくだろう。

映像や音声での情報とは違い、単語が文法によって羅列されている言語においては、無数の情報が抽象された形で一語に集約されているので、言語一語そのものが五感に関する脳の領域に与える一次的情報は少なくとも、それを解釈する思考というのはどこまでも広がり得り、解釈の結果として脳内を駆け巡る情報量というのは、映像や音声を上回ることが多い。本には夥しい量の言葉がコンパクトにぎっしりと詰まっていて、言語そのものは五感がそぎ落とされた抽象の結果の記号であるが、それをしっかりと解釈し、脳の中で具体化、イメージすることによって、一冊の本は一本の映画よりも遥かに多くの情報を人間に齎し得るものである。

映像での表現に触れることとの決定的な違いは、読書などで言葉の並び、文章を解釈する過程で、精神活動がより強度に発動することだろう。映像においては五感の情報がほとんどそのまま解釈されるだけであるが、文章を解釈するプロセスにおいて、言葉に意味を見出そうとするとき、人は意識的であれ無意識的にであれ、過去に体験した出来事、過去に思考した内容を想起し、それらを素材として言葉の並びに想像しながらあるいは考えながら解釈を下すということを行う。つまりその過程で、今までその人が体験した色々な出来事の意味するところが組み合わされたり、今まで思考してきて精神が諸々の事象に見出してきた意味が意識上に浮上して新たな解釈が構成されたりと、とにかく精神が機能することによって文章解釈において意味付けがなされる。五感が体験すること、見ている映像の内容に比べて、読書などで文章を読んでいるときというのは、そのように精神が機能している度合が大きい分だけ、それまでの思考や体験の軌跡から蓄積された様々な意味や価値、それらから導き得る色々な思考が意識に登ること、そして現前している未知の文章から新たな意味や価値や思考を能動的に構成していくことから、非常に意義深い活動であると言える。

上記までは読書の意義の一般論や、当たり前の事を抽象化しつつ詳しく書いてみたが、具体的にはどのような効能があるのだろうか。読書の効能を並べてみよう。

・新しいことを知ることができる
・語彙が増える
・思考力がつく
・想像力がつく
・文章力が上がる
・コミュニケーション力が上がる
・人と話すときの話題が増える
・興味や関心を手軽にいくらでも広げることができる
・社会および人間世界全般の把握が広がることで行動の指針や可能性が増える
・日常では体験しえない遠くの事柄やフィクション上の出来事を疑似的に体験できる
・様々なことに対して色々な見解や意見を持つことができる
・脳機能が全体的に向上する

すぐに思いついたものだけ並べてみたが、他にも色々な効能があり、とにかく人を賢くさせ、知っていることを増やし、人との相互関係を多様にする素養となり、社会生活上であれ精神的にであれ可能性を大きく拡大させ、生きることを有意義にするものであろうと思う。

最後に挙げた脳機能の向上について、実証されている事を以下に書いてみたい。

オックスフォード大学の神経学の教授であるジョン・ステイン氏によると、「読書は大脳のトレーニング」だそうだ。読書中の脳の状態を実際にMRIでスキャンしたところ、本の言葉で表記されている景色、音、味、香りなどを想像しただけで、それらに対応する大脳の各領域が活性化し、新しい神経回路が発生したとのこと。つまり、言語に関する脳の領域だけでなく、想像力によって本の中の五感情報をイメージに構成していく過程で、五感に関する脳の領域も活動して五感に関する神経回路も増えていくのである。

カナダのヨーク大学の心理学者、レイモンド・マー氏によると、読書によってストーリを理解して他人の考えや感情を理解しようと努めた脳において、脳の神経回路の重なりが増えていた、ということがMRIによる分析で‏明らかになった。このことから、読書することで他人の立場にたって考えたり他人に感情移入や共感を行う脳の機能が向上することがわかる。

エモリー大学の研究によると、ボランティアの学生に9夜連続で小説を読ませたところ、左の側頭葉の脳細胞の繋がりが増加していることが顕著にMRIの結果に表れた。興味深いことは、スキャンしたのは読書中ではなく読書後であったことから、左側頭葉の神経回路はたった9夜のことでその時だけでなく後に残るものとして増えたことになる、ということである。

他にも読書の効能を脳科学的に実証した実験というのはたくさんあり、脳の機能を向上させるうえで読書と言うのは非常に良いものであることが示されている。

読書をすることで、言語に関する脳の領域が強度に活動することはもちろんであるが、小説など五感情報に関わる事象が言語化されている表現を読むことにおいては脳の五感の領域が活動し、またストーリーにおいて人の思考や感情や人の状況が語られる表現を読むことで感情や状況や思考を理解する脳の領域が活動し、神経回路が増える。それも、読後もしっかりのこる増え方なのである。とにかく読書をすることで、脳のあちこちで神経細胞が繋がり、シナプスが形成され、飛躍的にシナプスを増やすことができる。たとえば音楽家は音に関するシナプスが普通の人に比べてはるかに多いため、音楽のワンフレーズを聞いただけで色々な感覚や感情が脳内を過り、それに対する論理的思考も発生したりするが、それと同じように、読書をすることで様々な事象に関するシナプスを増やすことで、同じ一つの出来事や言葉に対し、たくさんの思考や感慨やイメージを持つことができるようになり、日常に体験する情報に対しても脳内に駆け巡る印象や解釈が豊かになるだろう。


とにかく読書は、人を豊かにする。せっかくどんな人にも安価で手に入る本という媒体の上に、広大な世界が無数に広がっているのだから、人間に生まれたからには、人生を有意義にするために、読書を行わない手はない。幸い、書店や図書館に行けば、無数のジャンルの本が置いてあるので、普段読書をしない人もどれかには興味を持てるだろう。興味をもったタイトルの本、ふと目に入った本からでも、少しでも読んでいけば、興味や関心は広がっていき、新しい言葉、新しい出来事や物事、新しい五感、新しい考えなどを、体験することができ、心は豊かになっていくだろう。

夢と希望が炸裂したきっかけは、ささやかな出来事

職場では、私は寡黙な方ではあるが、それなりに人間関係はうまくいっていると思う。とくに深く親しい間柄の同僚はまだいないけれども、とくに問題をかかえず、主に日常的な出来事についてはちょっとした会話をしたりしている。

その中で、1月のはじめあたりに趣味の話になったとき、(実際はそのとき全然本を読んでいなかったけれども、いくらか前にハマっていた作家として)私は東野圭吾が好きだといった。そうしたら、同僚の一人が、道尾秀介という作家が面白いと勧めてくれた。

その数日後、その同僚が道尾秀介の『カラスの親指』という長編と、『鬼の跫音』という短編集を貸してくれた。

正直なところ、そのころは一定量のテクノロジー犯罪被害があり、脳機能を著しく低下させられていたので、本を読むのが気が進まないというのが1年近くつづいて、読書に対する関心と情熱をほぼ失っている状態であり、本を借りても読めるか読めないか…、あまり気が進まなかった。

でも家に帰って、折角借りたのだから読まないと、という半ば義務感のようなもので『カラスの親指』を読んでいたら、だんだんと小説に引き込まれて、面白くなり、脳機能が低下しているなかでも、どんどん小説の世界に入り込んでいって、非常に楽しみの多い読書体験ができた。

失われた読書への情熱…もう本はしばらく読めないだろうという諦め…
読書に対してはネガティヴになっていたその頃であったが、借りた本を読んだことで、読書が非常に有意義で楽しい体験であることを思い出し、また脳機能が低下している中でも難しくない小説であればけっこう読んでいけるものだと気づき、『カラスの親指』を読了したあと、これから読書を再開しようと思い立った。

そして何冊か読んでいくうちに、今年は小説100冊は最低でも読もうという目標ができた。実際に目標を立ててみると、思ったよりも読書が進み、この3ヶ月半のペースでいくと100冊は年間読書冊数が軽く超えることになるくらい、読書に熱中している。

そして色々と本を読んでいると、はるか昔に眠ってしまった読書への情熱、ものを書くことへの情熱が、思い出されてきて、評論家や作家を目指して読書と勉強と文筆に励もうという意志が芽生えてきた。ここ1か月はテクノロジー犯罪被害がだいぶマシになっているので、毎日何時間も言語活動に取り組んでいて、目標を目指して有意義に過ごせている。

本を借りる前の去年からは考えられないくらい、熱中して取り組めるものを見つけられて、毎日が生き生きとしてきている。テクノロジー犯罪被害で絶望し半ば人生を諦め、精神活動も停滞していたのを、一気に破壊してくれ、評論家や作家になりたいという夢、読書や物を書くことの楽しみが多い希望にあふれた意義の深い生活を、呼び覚ましてくれたきっかけは、職場の同僚が道尾秀介の本を貸してくれたことだったと思う。

人の無意識には夢や希望や情熱が眠っている。若いころに持っていたもので忘れてしまっていたものであったり、本人さえ自覚せず生の底に芽生えて胎動しているものであったり、現実に抑圧され眠りについているがその人の本分であることを全うしようとする情熱であったりが、だれしもどこかにはあるかもしれない。日常世界の些細な事柄も含めて色々なことに心が開かれていたら、そういう夢や情熱を呼び覚ますトリガーとなるような出来事というのは舞い込んできて、それらが復活して、生を意義深いものへと変化させる可能性はある。

同僚が本を貸してくれたら読んでみよう。なにか頼みごとをされたら引き受けてみよう。誘われたら行ってみよう。仕事で新しいことにチャレンジできる状況になったらやってみよう。ふと昔の友達から連絡がきたら会ってみよう。忘れてしまった何かを彷彿とさせるような出来事に出くわしたら、そっちに少しでも寄ってみよう。そのように些細なことであれ、日常で起こったちょっとした出来事に対して心を開いて、それについてのことを実行することが、人の人生を大きく変えるきっかけになることがある。物事を好転させる機会や可能性は日常世界のあちこちに偏在しているから、開かれた姿勢でいることの重要さ。

私は本に関することの情熱を、その1月の本を貸してくれたという出来事によって、俄然とりもどした。借りたものを読むことを拒絶せず、読むことに取り組んで本当によかった。昔は読書や著作活動をライフワークにしようという意志をもっていた。それが復活した。職場で本を貸してくれたというささやかな出来事が、私の人生を変えることになるのかもしれないと思えるくらいに。

クアラルンプールでのこと

  業務初日、朝、予めスマホに挿入していたマレーシア用SIMの通信が障害を起こし、所属企業があるビルにて、研修室まで案内してくれる予定の研修担当の方と連絡が取れず、いったんホテルの部屋に帰る。Wi-Fiを繋いで連絡し、事情を説明。その後、待ち合わせ場所を決めてもらって再度出社。 ...