閉鎖病棟脱走から現在まで

5月~8月、ベトナムを無一文でさまよいました。飢餓で30キロ痩せました。財布、スマホ、パスポートの入ったバッグをベンチで仮眠してるときに盗難されてカードは不正利用され、着衣以外まったく何もなく、ホーチミンから少し外れた辺鄙な地帯の酷暑を歩き回って栄養失調で苦しい日々の中で、いろいろな人に助けられなんとか生存していました。なかでも英語を流暢に話す現地人女性のお世話になり、総領事館からパスポートの代わりの渡航書を発行してもらい、兄に航空券代を送金してもらい、なんとか帰国。この4か月はほんとにいろんなことがありましたが、内容が濃く長くなるので別の機会に記事にするかもしれません。


日本に8月末に帰国したものの、まったく無一文で大阪を彷徨してたら、いろいろあって警察のお世話になり……この顛末は私に非があるわけでも病気の症状などでもなく、機密にかかわるややこしい事態が起こってそうなったのですが、インターネットに公開はできない内容なので割愛します。とにかく警察署で色々ときかれ、お金が底をついていてどうしようもないことと、家賃滞納してて強制退去間近であることと、過去に精神科入院歴があることを正直に話すと、栄養が明らかに足りてないガリガリの体型で憔悴していたこともあり、精神科への入院ということになりました。


精神科閉鎖病棟へ入院。拘束帯で全身をベッドに縛り付けられるといったことにはなりませんでしたが、保護室という名の狭い部屋にほぼ監禁状態の数日が続きました。栄養状態は悪かったのですが精神状態は正常だったので、数日で保護室からは出ることができ、閉鎖病棟の通常の病室、4人部屋へ移動。仕事するわけでもなくすごい暇な生活でしたが、カラオケやPC利用や手工芸などのレクリエーション・作業療法が充実していたのと、病棟内の他の患者さんがアクティヴな方が多くひたすら話すことが楽しかったので、それなりの刺激はある日々ではありました。


患者さんは主に3タイプに分けられます。1つ目が、明らかに様子がおかしくコミュニケーションが難しいほど症状の重い患者さん。2つ目が、見た感じ普通の人ですが大人しすぎるか鬱の症状でずっと部屋にこもっているタイプの患者さん。3つ目が、病気を抱えつつも通常の社会生活をしていそうで元気で話好きの患者さん。この3つ目のタイプの方が多かったので、4人~8人ほどでひたすら話をすることが多く、皆仲良くやっていて、ときには10時間ほど食事以外休みなく話し続けることも。社会生活してそうな普通の人っぽい雰囲気とはいえ、精神科閉鎖病棟には犯罪歴や麻薬歴のある方も会社や趣味やその他社会活動などのコミュニティと比べると多く、犯罪の話や麻薬の話については個人的には好きではないのですが、犯罪ではない程度のアグレッシヴな行為や逸脱した出来事の話は刺激的で面白かったです。また仲良くなった50歳ぐらいの女性患者さんとお互いピアスを作業療法で作ってプレゼントしあったり、ロック好きの男性患者さんとカラオケで盛り上がったりと、入院生活はそこそこ楽しい面もありました。


そんな感じで割と平和に過ごしていましたが、診察で主治医が私への治療を厳しめにするとのことを言い、入院中は外出禁止、期間は半年以上、薬は多め、そして退院後はグループホームへ入所を宣告。私が過去に飛び降りて背骨2か所骨折の意識不明の重体になったことがあったのと、20代前半の一時期アルコール漬けだったり街で荒れてたり散財癖がすごかったりした過去があったのと、よく不運や災難などに見舞われ飢餓に陥るほどお金がなくなったりと、そういう歴があるからか社会生活は不可能と判断したようです。生活保護で施設へ入所をすすめられ、私はかたくなに拒絶したのですが、説き伏せてきて、ほぼ強要といっていい態度に出ました。断り続けると病識なしとか症状がどうこうとか言われそうなので退院のために入所を受け入れる旨の返答をしました。


この先はずっと障碍者として施設へ入り、作業所などで働きつつも通常の社会生活はできず、生活保護で国のお世話になるのか……と思うとやはりそんな未来は絶対にイヤだと思えてきて、さらに自分は精神科へ入院することはあっても健常者と何ら変わらない人間的機能、コミュニケーション力や労働力はあるので、生活保護で施設はありえない、絶対にそんな境遇には踏み入れない、この状況から抜け出す、と強く心に決めました。そして、入院治療というのは仕方なくても(もとより私の今回の場合は精神症状があったわけではなく、お金と住むところがなく栄養失調だったからというものでしたが)、患者の人生まで医師が決定しようとしてきて、社会生活をして趣味や交友などを楽しみたい一般市民の未来を壊すような行く先を指定する現在の精神医療には納得できませんでした。


色々と考えあぐねた結果、「脱走」しかない。そうやって最初は漠然と、徐々に現実的に脱走計画を考えている時期に、ロック好きでカラオケ一緒に盛り上がった男性患者Aさんと喧嘩する事態になりました。Aさんとは最初から仲が良く、CD聴けるところで一緒に主にロックたとえばツェッペリンとかリンキンとかニルヴァーナなどを聴いて、お互いバンド経験あったことから詳細な感想であったり、ギターがどうこうとかバンド音楽的なことであったりを、いっぱい話しあうことがあって二人とも退院したらバンドやりたいな~って話もしていました。看護師さんに隠れてジュースをおごりあい、看護師さんの誰誰が可愛いとか話したりと、非常に仲が良かったのですが、ある日、私の服をAさんが一回着てみたいと言ったので、少しの間なら…と思って貸したのですが、Aさんがこれくれへんかな?いいよな?みたいに言い出しました。Aさんにならいいかな…そんな高いものではないし…と思いつつやはり手放したくないような、どっちつかずの返答をしていたら、Aさんがあたりまえに俺にくれるんやろ的な、もはやこれは俺のもの、みたいなそんな感じの態度になったので、さすがに頭にきて私は怒って、そこから言い合いになって、だんだん私がかなりキツめのことを言って、それで大喧嘩。お互い叫ぶぐらいの…。


そして私も彼も保護室行。施設入所の話にもどりますが、噂によると病院内での素行が悪すぎると退院後のグループホームのランクが上がる。つまり、外出可でほぼワンルームマンションみたいなグループホーム→自由な外出は不可の共同生活の一軒家みたいなグループホーム→精神病院ぐらいの拘束のあるような本格的な障碍者施設、といったように、退院後入所先の施設がより拘束的になっていく。私は大喧嘩して保護室へ入れられたことからそうなるんではないかという危機感を感じ、保護室から出ることができた日に、本当に絶対に「脱走」すると決心しました。


完全に決心して脱走当日までは2日間でした。


この閉鎖病棟の精神病院は2つの棟になっていて、西棟←→東棟の連絡路は硬い金網が壁と天井になっているような通路なのですが、その通路の扉で外の庭や駐車場になっている地帯へ抜ける扉が一つあり、それは掃除の時間に鍵どころか扉が開いてることがある。この金網の通路は、病室のある西棟→お菓子など売ってる売店のある東棟とつないでいるのですが、お菓子など買いにへ行くときだけ、患者さん2人と看護師1人の3人組で、通ることができる。たまにその売店へ(遠足か何かみたいに看護師に連れられて…)行くときに、金網通路の扉は開いていることがある。そこを狙うしかない。


脱走を決心してからすぐに、手書きですが「退院希望」「住むところとお金のあてはある」「警察には届けないでください」「迷惑をかけることとなって申し訳ありません」「私物は~郵便局に送ってください」「入院費は必ず払います」といったことを書いた紙を入念に書き、脱走時の所持品や服装を考えて売店へ行くときにすぐに装備できるように準備し、頭で脱走時をシュミレート。


その決心から2回目の売店で、金網の通路の扉が開いていました。もちろん看護師さんは絶対に患者が逃げないように扉あたりでは位置取りをしっかり行って引率します。私は財布にあった10円玉15枚ほど(事前に自販機でジュース買って用意していた)をうっかり落とした振りして散乱させ、拾う動作をすると、その時の可愛らしい女性看護師さん(ここ重要・男性看護師であれば体力や筋力があるので手を掴まれると高確率で取り押さえられる→保護室で拘束&薬漬け)が一緒に拾ってくれようとしました。そしてもう一人の患者さんとその看護師さんが拾ってくれているスキをついて、開いてた扉から脱走。駐車場から正門までダッシュ。門を乗り越え、脱走。


そして最寄り駅の隣の駅(最寄り駅は病院の目の前のため)まで走って逃げようとしたところ……精神的に緊張度が高かったためか息が切れて肺が痛く、それ以上走れないといった肉体の状態に。このまま止まると、追手が来る。一か八か、病院のすぐ前の最寄り駅に駆け込み(ホームに入った瞬間に電車が来ることを願って)、すぐ切符買えるように切符代を分けてあったポケットに手を突っ込みなんとか切符を買う間に看護師に捕まることはなかったが、焦りの中あたまが真っ白。ホームにたどり着くと運が悪く、次の電車まで10分以上……絶対絶命。追手は階段からくるだろうと予測し、エレベータでいったん改札階へ戻り、反対側のホームへ。すると今度はちょうど電車がきたので、ドアに駆け込み、ドアが閉まった! その電車でとにかく遠くへ。色々乗り換えてとにかく遠くへ。


そして何時間も時間が経って夜中が近づいたころに、土地勘のある大阪市へ。駅から出るとき持ってた切符では電車賃足りなかったので、財布を探していると…どこかで落としたことが発覚…。なんとか駅員さんには「財布を駅か電車で落とした」というと検索してくれた上に足りない切符で改札から出してくれたものの、大阪市の地下の駅で全くの無一文。


逃走力を考慮して所持品はほぼなし。大阪市の真夜中に放りだされて、役に立つのは着衣のみだが、その着衣も薄い病院着に私服のロンTの2枚のみ。ボトムスはデニムを上から履いてたので寒くはなかったけど、上半身は凍り付きそう。11月末でまだ真冬ではなかったけれど、たまたま特に寒い期間で凍えそう。地下の暖房少し効いたところも終電後しばらくたつと閉まり、1時台の夜の大阪で薄着しかなく、なによりお金がない。


そこから約1週間、スマホもないので何も調べることができず、とにかくどこに行って何をすればいいのかわからないまま、凍える中、図書館へ行けばずっと居られると思いついて図書館へ行ったものの、夜は寒くて寒くてガタガタ震え続け、少しでも体があったかくなるように歩いたり走ったりしつづけ…しかし食べるものがなく栄養失調気味になったのと、足が疲れてきたのとで、歩くのが困難になっていき、夜は止まっていると骨まで凍り付くような寒さの苦痛に耐え、寝たら凍死するのではないかという不安のなか薄着で震え続け……昔の女友達の家の場所をはっきり覚えていたのでそこへ行こうかと思ったが相手は女性なので突然訪れ泊まらせてとか言うわけにもいかず、急に助けてというのも相手に迷惑だろうし、行かないことにして、男友達で現在の家の場所を知ってるのは奈良県の人だけで一か八かそこまで歩いて行っても明確な場所を思い出せず道に迷ったら野垂れ死ぬかもしれず、ほんとにどうしようか迷っていました。


夜は飢えと寒さの中、自分が人間社会から完全に離れつつも人間社会の存在する街を彷徨っているということを嘆き、ふと、野良猫って食べ物がなかったらこんな感じで苦しい思いをしているのかな……と思いつつ、あらゆる野良猫に同情して涙が出てきました。


病院と役所と警察は連携することがあるので役所は捕縛されるにつながる危険性があるので避けていましたが、なすすべがないので慎重に警戒しつつ話だけでも聞きに行くことに。するとあまりに衰弱していたのと寒いなか夏か初秋みたいな服きてたのとで、役所の方がカップラーメンとおにぎりと飲み物を出してくれました。ほんとに感謝。1週間以上も何も食べてなかったから、命の食料。その上、ダウンコートまで無償でいただきました。生活保護はどうかと勧められたものの、受給まで3週間ほどかかるのと、もとより生活保護と施設が嫌なので脱走したのもあり、生活保護は不要だと言いました。すると社会福祉法人に相談してみてはいかがというこで、困窮者が困っているときに助けてくれるような社会法人を教えてくれ、スマホがなかったので、電話をかけてくれるまでしてくれた。


そしてなんと、その社会福祉法人が所有している解体間近の元社員寮の部屋を無償で貸してくれることになりました。病院から脱走したということはもちろん隠していたので(閉鎖病棟入院の期間のことを省いてベトナムで無一文になりなんとか帰還したものの大阪で路頭に迷っていると話した)、脱走した上にお世話になることを後ろ暗く思いつつも、お世話になることに。そういう幸運と優しい方の好意でなんとか、住むところは確保し、夜に凍えなくていいことになりました。


しかし、あいかわらず1円もない。何もできない。まずは情報収集、といっても、スマホがない。相変わらず着衣しかない。ネットカフェはお金がないので入れない。図書館へ行き、無料で検索ができるパソコンを使えるコーナーがあったので、そこでとにかくあれこれ調べました。


色々調べてると何度か「西成」という言葉が出てきたので、そういえば西成には路上生活者がいたなとか、あいりん地区では日雇い労働が盛んだなとか思い出し、西成を重点的に調べると「西成労働福祉センター」という福祉法人を発見。電話はできないので、とにかく向かう。徒歩で。電車はお金が0なので乗れない。とにかく歩く以外の移動手段がない。疲れの中たどり着くと、ガリガリになっていて憔悴していたことから職員さんが心配してくれ、事情をきいてくれて、すぐに求人に応募できるようなシステムの登録が完了。さらに、作業服と安全靴とベルトと簡素なバッグとヘルメットまで無償で支給してくれることになりました。


この労働福祉センターでは、主に建設現場や解体現場の作業員の仕事をあっせんしている。日雇い現金日払いのところが多い。そして朝6時までに行けば、その日の求人に応募して多くの場合は即日出勤可能。早速次の日、解体現場の仕事に応募して、出勤。


とにかく、初日からきつい。まず、失礼かもしれませんが土工の肉体労働の作業員の方は粗野な方が多く、敬語がほとんどなく、初日からこわい感じで話してこられることが多い。作業の指示も、この辺のガラスてきとーに全部割れ、バールで床はがせ、コンクリートそのドリルみたいなんで砕け、てきとうにやって覚えろ、など。そしてなにより筋力や体力を酷使する。食べるものがなく栄養足りてない自分はふらふら。そして轟音や爆音が鳴り響く。土や砂やコンクリート片だらけ。作業中の場所では落下物が多い。2階3階の半壊しているところでも柵がないので、自身の落下の危険性がある。とにかく過酷な労働環境と作業内容と、厳しく怖い中年男性の大声といった中で、初日なんとか作業遂行して、念願の1万円札。うれしかった。最初から厳しい仕事ではあったけど、10日間ほど無一文でさまよって食べるものが役所の方がくれたカップラーメンとおにぎり1食のみだったのが終わり、500円以上のごはんが食べられる……。


きつい仕事ではあったもののなんとか慣れ、あんまり食べてないので筋肉は見た目ではついてなかったけど筋力は増してきて、このまましばらく続けようか迷ったけれど、とにかく落下による大けがなどの危険性が高いのと、尋常じゃない筋肉痛で家帰ってから動けないほど疲れてるのとで、続けるのは難しいかなと思い、日払い現金支給で少し貯めたお金がある程度いったころ、月給制のオフィスワークをしようと決意。


データ入力、プログラミング、コールセンターの面接へ。1日でその3件。コールセンターに即日採用されて、即入社を決めました。月給制ですが週払いも可能な会社なので、まだそれに頼ってはいますが、そして社会福祉法人から無料で住ませてもらってる部屋のお世話になってますが、なんとか現在は通常に近い社会生活をできています。


自分が脱走した閉鎖病棟がある病院については、私物返送の件で何度か連絡をしました。退院は意外とすっと成立したみたいで特に警察による捜査などはなく、電話の相手の職員さんは「みんな心配してましたよ」と心遣いのある口調で話してくれるなど、なんとか平和的な解決になったみたいです。脱走は病院には迷惑をかける逸脱行為ではありますが、どうしても施設への入所はしたくない、人生は自分で決めて自分で生きたい、生活保護にならずに働いて社会的責務を果たしてお金を得てそのお金で好きなことをしたい。そういう強い願いから脱走をしましたが、なんとかその願いは果たせそうです。まだ十全な安定の生活へは至っていませんが、病院への迷惑を心中で詫びつつ、社会人として正常な暮らしをできるようにがんばっていきたいです。

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数年前~今日、描いた落書きたち。 ※センシティヴ・グロ・性的表現あるので注意です※  耐性ある方は、  ↓Click↓