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クアラルンプールでの出来事


 

業務初日、朝、予めスマホに挿入していたマレーシア用SIMの通信が障害を起こし、所属企業があるビルにて、研修室まで案内してくれる予定の研修担当の方と連絡が取れず、いったんホテルの部屋に帰る。Wi-Fiを繋いで連絡し、事情を説明。その後、待ち合わせ場所を決めてもらって再度出社。


研修室でのオリエンテーション中、頭痛がして意識が朦朧。英語が聞き取れず、また頭が痛いのでホテルの部屋へ。



休養しても治らず、その日は譫言が溢れてきて苦しかった。



次の日以降も休暇をもらい、ホテルの部屋の中で意識の障害に苦しめられる。食べ物を買いに外へ出て、街並みを眺め写真を撮って気分転換。



数日間、ホテル内でぼんやりしたりクアラルンプールを散歩して、退職で帰国かな……と嘆きつつ白昼夢。


ホテルの部屋で自分のパソコンで、生態系について書いたり、世界のニュースについて考えたりしていると、神秘体験。内容は、地獄と未来について。詳しくは秘密。


さらに意識朦朧や白昼夢は酷くなり、何日も休むわけにはいかず、帰国を決める。そんな落胆の中、所属企業の方がホテルまで来てくれて、退職と帰国の手配を提案してくださる。迷惑をかけて申し訳ないです。

明日、帰国予定。アジアの大都市で会社員として何年か働きたいという目標は叶わなかったけれど、雇ってくれた会社には本当に感謝。



閉鎖病棟脱走から現在まで

[画像は入院していた精神科閉鎖病棟から(脱走後)送ってもらった私物 ]




5月~8月、ベトナムを無一文でさまよいました。飢餓で30キロ痩せました。財布、スマホ、パスポートの入ったバッグをベンチで仮眠してるときに盗難されてカードは不正利用され、着衣以外まったく何もなく、ホーチミンから少し外れた辺鄙な地帯の酷暑を歩き回って栄養失調で苦しい日々の中で、いろいろな人に助けられなんとか生存していました。なかでも英語を流暢に話す現地人女性のお世話になり、総領事館からパスポートの代わりの渡航書を発行してもらい、兄に航空券代を送金してもらい、なんとか帰国。この4か月はほんとにいろんなことがありましたが、内容が濃く長くなるので別の機会に記事にするかもしれません。


日本に8月末に帰国したものの、まったく無一文で大阪を彷徨してたら、いろいろあって警察のお世話になり……この顛末は私に非があるわけでも病気の症状などでもなく、機密にかかわるややこしい事態が起こってそうなったのですが、インターネットに公開はできない内容なので割愛します。とにかく警察署で色々ときかれ、お金が底をついていてどうしようもないことと、家賃滞納してて強制退去間近であることと、過去に精神科入院歴があることを正直に話すと、栄養が明らかに足りてないガリガリの体型で憔悴していたこともあり、精神科への入院ということになりました。


精神科閉鎖病棟へ入院。拘束帯で全身をベッドに縛り付けられるといったことにはなりませんでしたが、保護室という名の狭い部屋にほぼ監禁状態の数日が続きました。栄養状態は悪かったのですが精神状態は正常だったので、数日で保護室からは出ることができ、閉鎖病棟の通常の病室、4人部屋へ移動。仕事するわけでもなくすごい暇な生活でしたが、カラオケやPC利用や手工芸などのレクリエーション・作業療法が充実していたのと、病棟内の他の患者さんがアクティヴな方が多くひたすら話すことが楽しかったので、それなりの刺激はある日々ではありました。


患者さんは主に3タイプに分けられます。1つ目が、明らかに様子がおかしくコミュニケーションが難しいほど症状の重い患者さん。2つ目が、見た感じ普通の人ですが大人しすぎるか鬱の症状でずっと部屋にこもっているタイプの患者さん。3つ目が、病気を抱えつつも通常の社会生活をしていそうで元気で話好きの患者さん。この3つ目のタイプの方が多かったので、4人~8人ほどでひたすら話をすることが多く、皆仲良くやっていて、ときには10時間ほど食事以外休みなく話し続けることも。社会生活してそうな普通の人っぽい雰囲気とはいえ、精神科閉鎖病棟には犯罪歴や麻薬歴のある方も会社や趣味やその他社会活動などのコミュニティと比べると多く、犯罪の話や麻薬の話については個人的には好きではないのですが、犯罪ではない程度のアグレッシヴな行為や逸脱した出来事の話は刺激的で面白かったです。また仲良くなった50歳ぐらいの女性患者さんとお互いピアスを作業療法で作ってプレゼントしあったり、ロック好きの男性患者さんとカラオケで盛り上がったりと、入院生活はそこそこ楽しい面もありました。


そんな感じで割と平和に過ごしていましたが、診察で主治医が私への治療を厳しめにするとのことを言い、入院中は外出禁止、期間は半年以上、薬は多め、そして退院後はグループホームへ入所を宣告。私が過去に飛び降りて背骨2か所骨折の意識不明の重体になったことがあったのと、20代前半の一時期アルコール漬けだったり街で荒れてたり散財癖がすごかったりした過去があったのと、よく不運や災難などに見舞われ飢餓に陥るほどお金がなくなったりと、そういう歴があるからか社会生活は不可能と判断したようです。生活保護で施設へ入所をすすめられ、私はかたくなに拒絶したのですが、説き伏せてきて、ほぼ強要といっていい態度に出ました。断り続けると病識なしとか症状がどうこうとか言われそうなので退院のために入所を受け入れる旨の返答をしました。


この先はずっと障碍者として施設へ入り、作業所などで働きつつも通常の社会生活はできず、生活保護で国のお世話になるのか……と思うとやはりそんな未来は絶対にイヤだと思えてきて、さらに自分は精神科へ入院することはあっても健常者と何ら変わらない人間的機能、コミュニケーション力や労働力はあるので、生活保護で施設はありえない、絶対にそんな境遇には踏み入れない、この状況から抜け出す、と強く心に決めました。そして、入院治療というのは仕方なくても(もとより私の今回の場合は精神症状があったわけではなく、お金と住むところがなく栄養失調だったからというものでしたが)、患者の人生まで医師が決定しようとしてきて、社会生活をして趣味や交友などを楽しみたい一般市民の未来を壊すような行く先を指定する現在の精神医療には納得できませんでした。


色々と考えあぐねた結果、「脱走」しかない。そうやって最初は漠然と、徐々に現実的に脱走計画を考えている時期に、ロック好きでカラオケ一緒に盛り上がった男性患者Aさんと喧嘩する事態になりました。Aさんとは最初から仲が良く、CD聴けるところで一緒に主にロックたとえばツェッペリンとかリンキンとかニルヴァーナなどを聴いて、お互いバンド経験あったことから詳細な感想であったり、ギターがどうこうとかバンド音楽的なことであったりを、いっぱい話しあうことがあって二人とも退院したらバンドやりたいな~って話もしていました。看護師さんに隠れてジュースをおごりあい、看護師さんの誰誰が可愛いとか話したりと、非常に仲が良かったのですが、ある日、私の服をAさんが一回着てみたいと言ったので、少しの間なら…と思って貸したのですが、Aさんがこれくれへんかな?いいよな?みたいに言い出しました。Aさんにならいいかな…そんな高いものではないし…と思いつつやはり手放したくないような、どっちつかずの返答をしていたら、Aさんがあたりまえに俺にくれるんやろ的な、もはやこれは俺のもの、みたいなそんな感じの態度になったので、さすがに頭にきて私は怒って、そこから言い合いになって、だんだん私がかなりキツめのことを言って、それで大喧嘩。お互い叫ぶぐらいの…。


そして私も彼も保護室行。施設入所の話にもどりますが、噂によると病院内での素行が悪すぎると退院後のグループホームのランクが上がる。つまり、外出可でほぼワンルームマンションみたいなグループホーム→自由な外出は不可の共同生活の一軒家みたいなグループホーム→精神病院ぐらいの拘束のあるような本格的な障碍者施設、といったように、退院後入所先の施設がより拘束的になっていく。私は大喧嘩して保護室へ入れられたことからそうなるんではないかという危機感を感じ、保護室から出ることができた日に、本当に絶対に「脱走」すると決心しました。


完全に決心して脱走当日までは2日間でした。


この閉鎖病棟の精神病院は2つの棟になっていて、西棟←→東棟の連絡路は硬い金網が壁と天井になっているような通路なのですが、その通路の扉で外の庭や駐車場になっている地帯へ抜ける扉が一つあり、それは掃除の時間に鍵どころか扉が開いてることがある。この金網の通路は、病室のある西棟→お菓子など売ってる売店のある東棟とつないでいるのですが、お菓子など買いにへ行くときだけ、患者さん2人と看護師1人の3人組で、通ることができる。たまにその売店へ(遠足か何かみたいに看護師に連れられて…)行くときに、金網通路の扉は開いていることがある。そこを狙うしかない。


脱走を決心してからすぐに、手書きですが「退院希望」「住むところとお金のあてはある」「警察には届けないでください」「迷惑をかけることとなって申し訳ありません」「私物は~郵便局に送ってください」「入院費は必ず払います」といったことを書いた紙を入念に書き、脱走時の所持品や服装を考えて売店へ行くときにすぐに装備できるように準備し、頭で脱走時をシュミレート。


その決心から2回目の売店で、金網の通路の扉が開いていました。もちろん看護師さんは絶対に患者が逃げないように扉あたりでは位置取りをしっかり行って引率します。私は財布にあった10円玉15枚ほど(事前に自販機でジュース買って用意していた)をうっかり落とした振りして散乱させ、拾う動作をすると、その時の可愛らしい女性看護師さん(ここ重要・男性看護師であれば体力や筋力があるので手を掴まれると高確率で取り押さえられる→保護室で拘束&薬漬け)が一緒に拾ってくれようとしました。そしてもう一人の患者さんとその看護師さんが拾ってくれているスキをついて、開いてた扉から脱走。駐車場から正門までダッシュ。門を乗り越え、脱走。


そして最寄り駅の隣の駅(最寄り駅は病院の目の前のため)まで走って逃げようとしたところ……精神的に緊張度が高かったためか息が切れて肺が痛く、それ以上走れないといった肉体の状態に。このまま止まると、追手が来る。一か八か、病院のすぐ前の最寄り駅に駆け込み(ホームに入った瞬間に電車が来ることを願って)、すぐ切符買えるように切符代を分けてあったポケットに手を突っ込みなんとか切符を買う間に看護師に捕まることはなかったが、焦りの中あたまが真っ白。ホームにたどり着くと運が悪く、次の電車まで10分以上……絶対絶命。追手は階段からくるだろうと予測し、エレベータでいったん改札階へ戻り、反対側のホームへ。すると今度はちょうど電車がきたので、ドアに駆け込み、ドアが閉まった! その電車でとにかく遠くへ。色々乗り換えてとにかく遠くへ。


そして何時間も時間が経って夜中が近づいたころに、土地勘のある大阪市へ。駅から出るとき持ってた切符では電車賃足りなかったので、財布を探していると…どこかで落としたことが発覚…。なんとか駅員さんには「財布を駅か電車で落とした」というと検索してくれた上に足りない切符で改札から出してくれたものの、大阪市の地下の駅で全くの無一文。


逃走力を考慮して所持品はほぼなし。大阪市の真夜中に放りだされて、役に立つのは着衣のみだが、その着衣も薄い病院着に私服のロンTの2枚のみ。ボトムスはデニムを上から履いてたので寒くはなかったけど、上半身は凍り付きそう。11月末でまだ真冬ではなかったけれど、たまたま特に寒い期間で凍えそう。地下の暖房少し効いたところも終電後しばらくたつと閉まり、1時台の夜の大阪で薄着しかなく、なによりお金がない。


そこから約1週間、スマホもないので何も調べることができず、とにかくどこに行って何をすればいいのかわからないまま、凍える中、図書館へ行けばずっと居られると思いついて図書館へ行ったものの、夜は寒くて寒くてガタガタ震え続け、少しでも体があったかくなるように歩いたり走ったりしつづけ…しかし食べるものがなく栄養失調気味になったのと、足が疲れてきたのとで、歩くのが困難になっていき、夜は止まっていると骨まで凍り付くような寒さの苦痛に耐え、寝たら凍死するのではないかという不安のなか薄着で震え続け……昔の女友達の家の場所をはっきり覚えていたのでそこへ行こうかと思ったが相手は女性なので突然訪れ泊まらせてとか言うわけにもいかず、急に助けてというのも相手に迷惑だろうし、行かないことにして、男友達で現在の家の場所を知ってるのは奈良県の人だけで一か八かそこまで歩いて行っても明確な場所を思い出せず道に迷ったら野垂れ死ぬかもしれず、ほんとにどうしようか迷っていました。


夜は飢えと寒さの中、自分が人間社会から完全に離れつつも人間社会の存在する街を彷徨っているということを嘆き、ふと、野良猫って食べ物がなかったらこんな感じで苦しい思いをしているのかな……と思いつつ、あらゆる野良猫に同情して涙が出てきました。


病院と役所と警察は連携することがあるので役所は捕縛されるにつながる危険性があるので避けていましたが、なすすべがないので慎重に警戒しつつ話だけでも聞きに行くことに。するとあまりに衰弱していたのと寒いなか夏か初秋みたいな服きてたのとで、役所の方がカップラーメンとおにぎりと飲み物を出してくれました。ほんとに感謝。1週間以上も何も食べてなかったから、命の食料。その上、ダウンコートまで無償でいただきました。生活保護はどうかと勧められたものの、受給まで3週間ほどかかるのと、もとより生活保護と施設が嫌なので脱走したのもあり、生活保護は不要だと言いました。すると社会福祉法人に相談してみてはいかがというこで、困窮者が困っているときに助けてくれるような社会法人を教えてくれ、スマホがなかったので、電話をかけてくれるまでしてくれた。


そしてなんと、その社会福祉法人が所有している解体間近の元社員寮の部屋を無償で貸してくれることになりました。病院から脱走したということはもちろん隠していたので(閉鎖病棟入院の期間のことを省いてベトナムで無一文になりなんとか帰還したものの大阪で路頭に迷っていると話した)、脱走した上にお世話になることを後ろ暗く思いつつも、お世話になることに。そういう幸運と優しい方の好意でなんとか、住むところは確保し、夜に凍えなくていいことになりました。


しかし、あいかわらず1円もない。何もできない。まずは情報収集、といっても、スマホがない。相変わらず着衣しかない。ネットカフェはお金がないので入れない。図書館へ行き、無料で検索ができるパソコンを使えるコーナーがあったので、そこでとにかくあれこれ調べました。


色々調べてると何度か「西成」という言葉が出てきたので、そういえば西成には路上生活者がいたなとか、あいりん地区では日雇い労働が盛んだなとか思い出し、西成を重点的に調べると「西成労働福祉センター」という福祉法人を発見。電話はできないので、とにかく向かう。徒歩で。電車はお金が0なので乗れない。とにかく歩く以外の移動手段がない。疲れの中たどり着くと、ガリガリになっていて憔悴していたことから職員さんが心配してくれ、事情をきいてくれて、すぐに求人に応募できるようなシステムの登録が完了。さらに、作業服と安全靴とベルトと簡素なバッグとヘルメットまで無償で支給してくれることになりました。


この労働福祉センターでは、主に建設現場や解体現場の作業員の仕事をあっせんしている。日雇い現金日払いのところが多い。そして朝6時までに行けば、その日の求人に応募して多くの場合は即日出勤可能。早速次の日、解体現場の仕事に応募して、出勤。


とにかく、初日からきつい。まず、失礼かもしれませんが土工の肉体労働の作業員の方は粗野な方が多く、敬語がほとんどなく、初日からこわい感じで話してこられることが多い。作業の指示も、この辺のガラスてきとーに全部割れ、バールで床はがせ、コンクリートそのドリルみたいなんで砕け、てきとうにやって覚えろ、など。そしてなにより筋力や体力を酷使する。食べるものがなく栄養足りてない自分はふらふら。そして轟音や爆音が鳴り響く。土や砂やコンクリート片だらけ。作業中の場所では落下物が多い。2階3階の半壊しているところでも柵がないので、自身の落下の危険性がある。とにかく過酷な労働環境と作業内容と、厳しく怖い中年男性の大声といった中で、初日なんとか作業遂行して、念願の1万円札。うれしかった。最初から厳しい仕事ではあったけど、10日間ほど無一文でさまよって食べるものが役所の方がくれたカップラーメンとおにぎり1食のみだったのが終わり、500円以上のごはんが食べられる……。


きつい仕事ではあったもののなんとか慣れ、あんまり食べてないので筋肉は見た目ではついてなかったけど筋力は増してきて、このまましばらく続けようか迷ったけれど、とにかく落下による大けがなどの危険性が高いのと、尋常じゃない筋肉痛で家帰ってから動けないほど疲れてるのとで、続けるのは難しいかなと思い、日払い現金支給で少し貯めたお金がある程度いったころ、月給制のオフィスワークをしようと決意。


データ入力、プログラミング、コールセンターの面接へ。1日でその3件。コールセンターに即日採用されて、即入社を決めました。月給制ですが週払いも可能な会社なので、まだそれに頼ってはいますが、そして社会福祉法人から無料で住ませてもらってる部屋のお世話になってますが、なんとか現在は通常に近い社会生活をできています。


自分が脱走した閉鎖病棟がある病院については、私物返送の件で何度か連絡をしました。退院は意外とすっと成立したみたいで特に警察による捜査などはなく、電話の相手の職員さんは「みんな心配してましたよ」と心遣いのある口調で話してくれるなど、なんとか平和的な解決になったみたいです。脱走は病院には迷惑をかける逸脱行為ではありますが、どうしても施設への入所はしたくない、人生は自分で決めて自分で生きたい、生活保護にならずに働いて社会的責務を果たしてお金を得てそのお金で好きなことをしたい。そういう強い願いから脱走をしましたが、なんとかその願いは果たせそうです。まだ十全な安定の生活へは至っていませんが、病院への迷惑を心中で詫びつつ、社会人として正常な暮らしをできるようにがんばっていきたいです。

近況

 


実は、生活保護を3月と4月受給していた。2ヶ月合計8万円くらいだったが、そのおかげでなんとか野垂れ死なずに済んだ。5月もいくらかは出ると思っていたのだが、打ち切りになって出なかった。結構やばい。給料は3月分が4月末に出て、3月は数日しか出勤していなかったのでそれだけでは少額。5月末に給料が満額入り、一気に生活に余裕ができるのだが、それまでの18日ほどはぎりぎりかもしれない。今の手持ちや預金はごくわずかで、携帯代は今月は期日に引き落とされるように口座に残しておくのは見送って、請求書払いで来月に払うしかないくらいだ。そうしたとしても、食費が1日400円ほどしか使えない。生活保護ちょっとだけ出ると思ってたので(収入報告は10日で受給が6日あたりなので)それが出なかった分、5月は4月に比べてお金に苦しくなりそうだ。


そんな中、料理を作って持ってきてくれる方がいて、心から感謝しています。いつもスーパーの安い総菜の中の一番安いやつか、カップヌードルとかでなんとか食いつないでいる中、美味しい料理を作って持ってきてくださるのはほんとに嬉しい。食べものの大事さ、人同士の助け合いの大事さをひしひしと感じます。


仕事の方は、最初は難しいなと感じていて嫌になっていたくらいだったけどなんとか慣れて、業務内容の理解度テストみたいなのがあってそれも同期では一番点数を取れたので、たぶん順調かなと思う。仕事の困難さを感じなくなってからは、仕事に行くのが嫌ではなくなった。しかし、長年コールセンターで働いているけど、この仕事にあんまりやりがいを感じない。なんとなく極めようがないというか、仕事に打ち込むという感覚がないというか、ある程度できるようになれば適当に適切に喋っていればいいだけなので、面白みがないというか。管理者になっていく道を選んだら、それなりに仕事にのめり込めるのだろうけど、自分は性格上絶対に管理者は向いていないし。嫌な仕事ではなくなったが、なんとなくつまらない。


貯金がある程度できたら、勉強と転職活動し、またプログラマ始めようかな。あの仕事は難しくて、きつくて、残業もたくさんあるけれど、スキルアップしていって仕事力が上がって行ったり、プログラミングの世界に入り込んで面白くなったりと、良い感じに仕事に入り込めればだいぶやりがいのある仕事のように思える。ただ、若い明晰な頭脳を求められるので、30代で今までちょっとだけやったことあるだけでそんなにスキルない状態で再開するのは、遅いかもしれない。でも30代で経験浅くて雇ってくれるところあったらありかもしれない。せっかく仕事するのであればやりがいがあって仕事極めるのが面白い職種がいいな。


とりあえず今は金銭的にぎりぎりなので、あんまり投機的にならず、無難に遂行できるコールセンターの仕事をしておこうと思うけど。あとテクノロジー犯罪被害がいつ酷くなるか、集団ストーカーが始まってしまわないかも恐れているところ。以前、正社員でプログラマに就けたとき、研修の時はハイテク被害そんなになく難なく研修を終えれたけれど、実務に入ってから激化して、仕事中に脳の活動をストップされて何もできず数時間意味もなくクリックしかできない状態にされて、それで退職を余儀なくされた。それなりに高給な仕事をすると、妨害が酷くなる傾向にあるから、不安ではある。でも最近の被害の緩和が続いたら、プログラマやりたいな。仕事に打ち込んで充実していたいし、お金貯めれたら大学いける経済的余裕もできるかもしれない。なんにせよ、老後まで30年ほどあるのだから、人生をある程度有意義に進んでいきたいものだ。


趣味の方は恐ろしく低調である。脳の機能が低下させられている被害、意欲や気力を低下させられている被害が一定量今もあって、仕事はなんとかこなせる程度だけど、趣味にエネルギーを使ったり、いいメロディを作ったりする力がなく、読書もたまにミステリー小説読む程度で、音楽は全く曲が出来なくなってしまっている。なので、仕事終わって何するでもなく、壁や天井を眺めている時間が多くなり、そうすると色んなことが頭をよぎると同時に、虚無感に囚われてしまう。感情をテクノロジー犯罪被害で剥奪された期間が長いから、長期間の間、人間として大事なことを奪われていたという喪失感や、このまま無気力で何にも取り組めなかったらどうしようという虚無感で、虚しくなる。生き生きとしていたし、悩みが多かったけれど色んなこと感じたり考えたりしていた20歳までのころと比べたら、自分は残骸になってなんとなく現世を漂っているだけのような気がしてしまう。


虚しさに囚われたり、金銭的に苦しかったりするけど、とりあえずは金銭的に余裕のできる5月31日までがんばろ。お金に余裕ができたら、精神的にも楽になって何か新しいことやれるかもしれないし、音楽も順調になるかもしれないし。

新しい生活

 金欠だ! 飢える。

と、危惧していましたが、なんとかなりそうです。新しい職場になんとか馴染むことが出来てやっていけそうです。慣れたコールセンターの仕事です。初給料日までお金もつか危ういですが、色々とお金あつめて飢えて野垂れることはなさそうで、遊ぶこともちょっとはできそうです。


職場はミナミあたりにあり、帰りに飲んで帰りたい誘惑が帰路のたびによぎります。心斎橋の商店街、アメ村、道頓堀、人が多くて賑わっていて、オフィス街の職場での仕事も含め、街で生きている感がしています。入院しているときは閉塞感に窒息しそうでしたが、解放されて街に毎日出られているのが幸せで、仕事早く見つかってよかったなと思います。


音楽のほうは、バンドする予定が立って、いつもボーカロイドで曲を作っていましたが、最近は自分で歌う曲を作っていました。歌の練習のために一人でカラオケとか行って、喉を傷めるか心配なくらい必死で練習しています。


曲をいっぱい作りためたいのですが、作曲の方はちょっと低調気味で、ボツになる曲ばっか作ってるような気がします。いいサビメロがなかなか出てこない。自分はメロディに合わせて色々な音を入れることが多いのであとでメロディを差し替えられないので、いいサビメロが浮かぶまではひたすらメロディ作りに苦闘しています。「新しい扉」という曲は突然降って湧いたようにいいメロディが舞い降りたのですが、この頃はそういうことがなく、何度も何度もいい音符を取捨選択することに時間を費やしています。


最近は一緒に出掛けてくれる方が居て、話し相手になってくださって、友達等を一気に失った去年終わりの後の孤独感が癒えてきています。感謝です。


徐々に生活を取り戻していきたい。被害で失った友人関係、入院で空費した時間など、まともな生活から離れていた3月まででありましたが、復帰し、新しい生活をがんばっていきたいです。



身体も心も飢餓

お金がない。2000円しかない。今日は家にあったカップラーメンを食べただけだ。


とりあえず、ほぼ就職は決まったっぽい? 電話面接のみでそれは通って、あとは職場見学会に行くだけ。よほどのことがない限り落とされないだろうと思う。日払いOKとあって、その日の給料の分のうち5000円は毎日受け取れるので、餓死とか孤独死とかは防げそうではあるので一安心か…。時給1500円なのでまあまあぼちぼちの給料にはなりそうなので、生活を立て直せたらなんとか安定しそうである。


それにしても悩みがたくさんある。押し潰されそうでけっこうやばい。心が人を求めている。切実に。去年の5月あたりまでテクノロジー犯罪で感情を抹消されていたのであるが、それが5月に止んで感情が復活している状態が続いている。女が欲しいと思ってガールズバーに行って、なかなかタイプの人ではあったが、そうかんたんにプライベートに持ち込めそうではない。今まで彼女をガールズバーで作ったことはないが、プライベートの遊び相手であれば作ったことがある。その経験を活かし、なけなしの金で友達を求めて行ってみたが駄目だったっぽい。脳の状態が正常であればそれなりにコミュ力はあるが男としての魅力がないからな。無理っぽい。


入院中にできた友達はいつ退院になるかわからないし、グループホームで暮らすことになりそうだし、コロナだし、いつ遊べるかわからない。この悩みや重い要請が多く、とても貧しい日々の中で、切実に友達を求めている。テク犯による脳の遠隔操作で金も人との縁も尽きてしまったような感じだ。孤独。ヘルプ。





近況と雑感

東京へ旅行に行って、色々なことがあったが、とにかくなんとか家に落ち着くことはできた。

しかし思い煩うことが2~3個はあり、なかなか大変な10月であり、センター試験の出願が完全に頭から忘却されてしまっていて、期日中に出願するということをすっぽかしてしまい、今年度は大学入試を受けることが出来ない状況になってしまった。といっても、1年目は経済的な理由から休学する予定であったし、海外留学のための奨学金が欲しいことからなるべく主席に近い入学で、入学後は主席を狙っていこうと思っていて、1年目休学するとそれが困難になることから、今年度大学受験できなくなったことは幸いかもしれないと思った。

やりたいことが多すぎるが、それを阻止する事象がまた、多すぎる。スマホを無くしてしまった。盗難に近い方法で失ったのだが、詳細は省くとして、LINEなどができないのは不便極まりないし、ある事情からPCでLINEにどうしてもログインできないという状況のため、友人たちと連絡がつかないのがもどかしい。

やっとauの補償サービスのiPhone交換機を手にしたが、今度はapple IDでアカウントにログインすることができないため、まだスマホは電話はできるがアプリは使用できない状況。人とのアクセスが色々と断たれてしまい、孤立して、また自分も母も借金しかないので、このまま孤独死でもするんじゃないかとまで思った。この時代に文明の利器を失うことがどれだけ深刻な問題かを痛感した。

幸い、仕事を失うことはなかった。来年の冬あたりまでは割と暇なので、受験勉強とかに縛られず、色々な本を読んだり科学の興味の分野を勉強したりして、教養を高めていこうと思った。それと交友関係がある程度仲のいい知人と呼べる人は割といるものの、友達と呼べる人が少ないので、今から受験勉強が必要な来年の冬までは、知己を得ることを心がけ、仲の良い友達を何人かつくろうと思う。

Twitterのどこかのアカウントに今年の抱負を書いていたが、思ったより達成できているのではないかと思った。8割達成を厳守しようと思ったが、あわよくば8割であればいけそうだ。アメリカとインドに行くという目標があったが、1月時点では新型コロナウィルスが日本で深刻化していなかったので楽観していたが、コロナは予想外に深刻な問題らしい。何故コロナという現象が起こっているかはある程度は解明しているが、ここでその詳細は書かないとして、とにかくワクチンや医療体制がどうこうというより、人類学として非常に興味深い分野なのではないかと思い始めている。

最近の世界を沸かす騒動が、一体人類の歴史にどのように位置づけられ、あとでどう解釈されるのか、よい未来のために現状の惨事をどう記述し報道し、その履歴や言論を保全するべきなのか、これは大きな課題であり、一人ひとりが個人的な体験から俯瞰的な解釈までそれぞれの裁量と現状に合わせて責任を伴う意見として人と流通させるべきではあると思う。とくに日本では、国際社会で行われている色々な危機が風潮的にも報道的にも伝わりにくくなっていることがうかがえるのであるが、それでは国力を失い、実際には激動している21世紀を体外関係上、国として成立することを難しくするのではないかとまで危惧することができるのではないか。もしそうであれば、日本はもはや先進国でなくなってしまい、世界からとりのこされた遅れた島国にでもなってしまうだろう。国力を維持するには、国の成員全員が事実であったり風潮であったりを問題として取り上げることが必要だろうと思う。

最近は去年よりもだいぶ元気で頭も少し働くようになったが、まだ神経の調子が思わしくないなか、頭を悩ませることが多い。変えなければいけないことが多い。飛躍することになるが、生きにくい世界であると感じているのであれば、自分を変えればいいという人もいるが、それには反対で、世界を変えればいい。1人1人がそうしていくことにより、1人1人全員が生きやすい環境と秩序が出来上がっていくだろうと思われる。

8月と9月

 7/31で派遣会社を通して勤務していた、不動産関係でありながら自動車関係である会社を退職した。1つ目の理由は、職場すぐ100メートル以内にある自宅マンションの家賃が高かったため予定している学業の資金を貯蓄することが困難であり、実家に帰るとその職場での勤務で得られる益が減るため。2つ目の理由は、東大文学部(文Ⅲ)に入学するための受験勉強にある程度は時間を当てないと合格できないだろうという、悲観的な予測のため。といっても、6月と7月で高校3年間の文系の教育課程の4割ほどを復習していたので、不合格の見込みは特になかったのだが、入試の成績がいいと学費免除になる可能性が高いなどのアドバンテージがたくさんあるため、高得点を狙うという意図もあった。

7月、気分は全くわるくなかったが気力が低下していたため、退職の手続きと引っ越し作業は困難であった。しかし、実家に帰ると猫と戯れることができることと、漫画やフィギュアの類がたくさんあって、楽園のようになるかもしれないという楽観的な想いで、引っ越し作業を行うことができた。

無事、引越。

※人力引越社(株式会社キョウトプラス)の引っ越し用ダンボール

8月に入ると、Twitterがやたらと面白くなってきた。ホームをみると、花火を見ているようだ。いや、戦闘機の遊泳というのかカラフルな煙を出しながらアクロバットするやつをか。それともピラニアやエンゼルフィッシュやグッピーやアロワナやメダカやタナゴの類か。とにかく、ホーム画面に出てくる言葉や画像などが面白くて仕方がない。

と、いうわけで、躁転? 軽くハイな感情の状態になり、また感情の潤いも蘇り、感覚の彩度も高校生の時のようにとはいわないまでも、年相応以上くらいには目まぐるしい光彩が絢爛するようにはなったと思う。薄めた洗剤でビー玉やおはじきの類を洗っているかのように、なんとなく楽しくなった。

それからというもの、1ヵ月で再就職してその1ヵ月の間は真面目に勉強して次席合格あたりを狙おうと企図していたものの、猶予期間が2倍、9/30日までになりそうなくらい、Twitterにハマってしまった。

ツイ魔

しかもあまりにもわくわくしすぎて、魔が差して悪心を発し、(もちろん私の興味の分野がネット上では)女性(比率が高いためでしかないが)アカウントと思しきに、挑発を試みてしまった。災いだ。以下略。

災いは災いでしかないものではあるが、しかしなかなか興味深い交流をできていたのではないかと思われる。

一応プライバシーに配慮して幅をもたせておくが、Twitterを通して知り合った方1~5名とお会いすることができ、以前は交友していたが疎遠になっていた1~5名とお会いしたり通話をしたりすることができたので、有意義ではあったと思う。しかしまあ「七夕ごっこ」と称した1ヵ月ほど遅れた1~5行の半分以上は宛名なしの飛ばし合いはやはり、災いを呼ぶ。星が日本に落下しなくてよかったというところであったが、私の実家近くの上空に何度も雷が轟いた訳は一体全体、コロナ下での花火大会より危険であったかなかったか。

リプライや空リプがやたらカラフルであっただけでなく、Twitterで知り合った方や縁を戻した方と、ファミレスに行ったり、セッションしたり、通話を長時間したり、カラオケへ行ったり、本などを郵送しあったりと、楽しいことがいくつかあった。

それにしても、戯けすぎである。仕事はほぼ決まったが、遊び過ぎたツケは大きい。明日から東京へ旅行に行くつもりではあるが、あんまりはしゃがないでおこうと思う。元バンドメンバーやその周辺の知己に再開することができたらいいなと思うのもあり、また昨日4年振りに人とアンサンブルを行ったので楽器練習に本気で昨日目覚めてしまったこともあって、音楽や読書をがんばろう。仕事はじまるまでは芸術の秋と読書の秋を極めてみたいものだ。

家族と和解 実家に帰還

実家に引っ越ししました。


半年間住んだ南森町とお別れ。大阪の中では一番都会っぽい北区のビルの風景を毎日15階のベランダから眺められ、美味しい料理店が多くてグルメには飽きず、終電気にせず梅田の繁華街に(コロナ前は)いつまででも飲み歩け、住むには良い場所だと思いました。

実家に帰った理由は、大学に行く予定で貯金した方がいいので高い家賃を払わずに済ますためと、家族と和解したからです。

以前の投稿で、家族から逃げるために失踪したと書きましたが、理由はテクノロジー犯罪で、親がテクノロジー犯罪を全く信じてくれず妄想と思われていたし、ブレインジャックで親の前で奇行を演じさせられたりしたため、8回も強制的に精神病院に入院させられていたのですが、4月か5月にやっとテクノロジー犯罪を信じてくれました。1月に行方をくらましたとき、書置きをしていきました。A4紙40枚程。テクノロジー犯罪の存在を証明するエビデンスが描かれたネットのページ、被害記録・犯罪告発のツイートの一部、テクノロジー犯罪(思考盗聴やブレインジャックなど)が技術的に可能であることをわかりやすく科学的に説明した文章、その他、テクノロジー犯罪が実際に行われていることを説明する文章などを、プリントアウトして置いていきました。

私が急に消えて連絡がとれなくなっているあいだに、親が何度も読んでくれたようです。そして4月か5月頃、私が猫に無性に会いたくなったので、夜中にふらっとこっそり帰ってみたとき、親が起きていて、その書置きを読んだことと、帰ってきた私が(被害が軽減していたのとメジャートランキライザー服用がなかったのとで)前よりだいぶ元気であったため、今まで10何年もずっとテクノロジー犯罪被害に遭っていたことを確かに認識してくれました。文章の力というものが凄いと感じたのと、思い切って一度失踪してよかったと。
 
実家にいても完全に精神科から解放されホッとしました。医療保護入院精度があるので親とコンタクトがあると精神科から逃れようがありません。メジャートランキライザーの注射を1年4ヶ月強制されていたのですが、この種の薬は、呂律回らなくなる・頭も回らない・歩き方おかしくなる・脳細胞を徐々に破壊していく等、恐ろしい薬です。被害との二重苦で、入院を繰り返しメジャートランキライザー漬けが続けば、廃人になる可能性もあるし、すくなくとも社会生活が大きく損なわれます。被害は終わりませんが、精神科からやっと永遠に開放されて嬉しいです。


5月6月7月はまだ大阪北区の生活を楽しみたかったので独り暮らし続けていましたが、家賃が高いし、勉強しなければならないのに緊急事態宣言解除後は外にふらっと遊びにいってしまうのとで、7/29に実家に引っ越し。
実家に帰ると、猫に癒されます。
やっと荷解き・片付け・掃除が終わりましたが、本棚が年々増えていく。
実家だとギターや歌をやり放題なのが嬉しい。


家族とは和解したので仲良くやっております。インド料理店へ親を連れて行きました。


さらば南森町


携帯会社退職

楽しいひとときだった…

大手携帯会社のコールセンターで働いていたのですが、数日前、退職いたしました。

その原因となった事柄は、通年の私の地獄に関わる犯罪被害で、あまり頻繁にはここに投稿したくないのですが、共通の犯罪被害の方の日が8/29で、みな周知活動をする日なのでその日には詳細を投稿すると思います。プロフィールに「I'm a TI」と書いてますが、そのことです。

悪夢についてはさておき、コールセンターのお仕事はとても楽しかったです。業務内容がやりがいや面白みがあっただけではなく、職場の同期がみんな仲良く、ほんと学校みたいでした。研修中は中学校、実務にはいると高校みたいな。毎日のようにゲーセン、カラオケ、映画、飲み屋など行ってました。7歳下あたりが多い若者の中で、寡黙な自分でしたが、仲良くしてくれて楽しかったです。しまいには、みんな私にタメ語で気軽に話しかけてくれてるのに、自分はみんなに敬語のままで、ボケたジェントルマンみたいな立ち位置でした。

北新地で働いていたのですが、新地はグルメがいっぱい。毎日おいしい昼ご飯でした。

同期の方、ひとときでも楽しい日々をありがとう。

さて就活するか…サテライト・ドゥーム、デストロイ。

携帯会社へ

大手携帯会社のコールセンターで採用されました!
 
入院していて退院後、就活しながら1か月ほど休みがあったので、だいぶ仕事が鈍ってそうですが、研修がんばります。

最近はずっと休みなので家で曲をつくっています。拙い曲ですがラクガキみたいに小品をたくさんつくっています。あんまり書くことがないので、一曲貼っておきます。


クアラルンプールでの出来事

  業務初日、朝、予めスマホに挿入していたマレーシア用SIMの通信が障害を起こし、所属企業があるビルにて、研修室まで案内してくれる予定の研修担当の方と連絡が取れず、いったんホテルの部屋に帰る。Wi-Fiを繋いで連絡し、事情を説明。その後、待ち合わせ場所を決めてもらって再度出社。 ...