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2023夏 京大模試 AAA

夏の京大模試3つの結果です。
京大プレ 代ゼミ
京大オープン 河合塾
京大実戦 駿台






 


3つともで京都大学文学部A判定を取りました!


必ず今年度で合格決めます!




駿台全国模試A判定!

 


駿台全国模試で志望校A判定取りました!
京都大学文学部、必ず次の春には居てたい。
 
学芸員か評論家になる夢を、歳不相応にも持っています。
そのためにはまず受かること。早く受からないと歳とっていく。フルタイムで働きながら毎日2時間ほど勉強してるのは、なかなかキツイ生活ではあるが、夢のため。
 
学芸員がたとえ実現するほど甘い夢でなくとも、京大で文学を学べるのが楽しみすぎる。




 
それにしても駿台全国模試は難しい。京大本試とあんまり変わらないぐらい。ハイレベル模試でA判定は嬉しい。




京都大学 2023年2次試験結果

 


もう1か月近くたちますが、京大入試の結果が返ってきました。

 

文学部

国語  61/150

数学  44/100

世界史 66/100

英語  108/150

共通テスト 191.62/250

合計  470.62/700


合格最低点 512.28


約42点差で落ちました。

42点というと大差だけれども、パーセントでいうと5.6%。

68点で受かるところを62点で落ちたみたいな感じです。


なかなか厳しいものです。働きながらで1年で合格は無理なようでした。

42点は大学受験の世界でいうと5.6%といってもだいぶ大きい大差ではありますが、1年前に受けたら数学と世界史は0点だろうし国語も英語も1割か2割しか取れなかったであろうことを考えると、1年でなんとか戦えるところまではいけたかなという所感です。


この42点を1年で埋める……ではなく、合格平均点以上を目指したいところです。余裕を持って本試験に挑めるところまで学力を上げたい。


労働しながらではなかなか厳しいですが、志望校は変えずにがんばりたいと思います。去年度は800時間未満しか勉強できず、一日平均にすると2時間ちょっと。今年度5月は、平均3~4時間勉強できてはいます。去年よりいっぱい勉強したら学力上がるはずだと信じ、精進。早く文学その他人文系を大学で学びたいし、せっかくなら京大ぐらいいいところがいいし、とにかく次の2月で決めたいと思います。

Where is Memory?

24歳のときに書いた英作文であるため、考え方や文法に間違いが存在する可能性が高いです。


 (The following is not based on firm evidences but a result of my intuition.)

(And I'm sorry my English is sometimes wrong or too poor to describe abstract affairs such as the following.)
(Here I mean by the word Memory not memorizing but memorized contents.)

Generally, scientists and modern people under their theories think of Memories as being stored in a Brain, but I don't think that. I think, though a brain have the function of taking in the images of things which the nervous system perceived and the function of recalling these images, it don't have the function of a storehouse. Likening memories into water, a brain have roles of watercourses and valves but don't have the function of a water tank.


Well then, Where are memories stored. But there is a nonsense in this question. That is the fact that we apply memories to the concept "where" Naturally, and Actually memories have no places in the sense of our ordinary thinking. And our tendency to allot memories to Place, Brain the firm material realm, is involuntary wrong application due to the fact that we live experiencing the three-dimensional space ordinarily, that is our unconsciously confusing spirit with matter, I suspect.

Fundamentally speaking, regarding three-dimensional space, it have not been varified perfectly as actual existence, or some people say that it is no more than a tool or a concept through which we human beings feel the outer world. Adopting this theory here, three-dimensional space is the concept which spirit invented for life to live in this world conveniently. By the way, Memory is a such thing that is more fundamental and essential than a tool to live, I think. That is to say, memory is not a thing that spirit have invented but the tracks of spirit itself, process of life. Then returning to the earlier problem, applying perfectly the concept, that is no more than a tool to grasp, to memory, that is essential movement and tracks of spirit itself, is obviously false if we think that way. To say, memories don't exist in a brain that is physical and three-dimensional space. Spatial places don't correspond to memory, but memory exist at a Place which we are hard to call as Place. Boldly speaking, even if a brain vanish, it can be possible for memories to exist Somewhere. Merely, it is difficult to indicate the Somewhere by a clear concept of Place, which is often haunted by three-dimensional space. Anyway, if only we separate memory from the physical concept, three-dimensional space, it is obvious to us that memory exist somewhere but the brain.



一般的に、科学者やその理論の影響下にある現代人にとって、記憶は脳に保存されていると見なされているが、私はそうではないと思っている。思うに、脳は神経系が知覚した事象の印象を取り込む機能や、その印象を思い出す機能は持っているが、記憶の保存庫としての機能は持っていない。記憶を水に喩えるなら、脳は水路やバルブの役割を持っていても、貯水の機能は持っていない。

では記憶は何処に保存されているのか。しかしこの問いには一つのナンセンスが含まれている。すなわち、記憶に「何処」という概念をあたりまえに当てはめてしまっているということであり、実際のところは記憶には私たちが一般に思っている様な意味での場所など存在しなく、私たちが記憶に対して、場所、脳という確固たる物質的領域をあてがいたくなるのは、私たちが日常で三次元空間を体験しながら生きていることに依る無意識の間違った適用であり、精神と物質の無意識的な混同なのではないのだろうか。

もともと、三次元空間だって、それが確固たる実在として完璧には立証されていない、いわば人間が外界を感じるときのための道具や概念でしかないという説もよく見受けられる。その説を採用して、三次元空間も生命が世界を便利に生きるために精神が開発したものでしかないとしよう。ところで、記憶というのは、生存のための道具というよりも、もっと根源的で本質的なものではないだろうか、すなわち精神が開発したものではなく、精神の軌跡そのものなの、生命の過程そのものなのだ。そこでさっきの問題に立ち返ってみると、精神の本質的運動そのものとその過程である記憶に、精神が生み出した単に生存のための一種の捉え方でしかない三次元空間という概念を、ぴったり当てはめることは、こう考えてみると明らかな誤謬になる。すなわち記憶は脳という物的三次元空間には存在しない。空間的な場所が対応しているのではなく、場所とは呼びにくい場所に存在している。大胆に言ってしまえば、脳が消滅したとしても、記憶は何処かにある可能性がある。ただ、その何処かというのが、はっきりとした場所という概念で示しにくい。場所という概念には三次元空間という概念が普通はよくつきまとっているから。とにかく、記憶を三次元空間という物的概念から引き離せば、その場所は脳ではない何処かだということは明らかだろう。

SCA

英語勉強Webアプリつくりました!
今の職場は恐ろしく自由です。忙しい時間帯と暇な時間帯の差が非常に大きく、暇なときはネット自由で、YouTubeを見てもいいことになっています。ネットはログイン必要なのもプライベートウィンドウ等であれば自由で、夜9時からはみな喋ってるかネットサーフィンしているかです。
文庫本や参考書や漫画を持ち込んで読むのはいけませんが、業務パソコンや個人スマホは暇なとき完全に自由なので、仕事中に英語の勉強しようと思い、仕事中にGoogle上でプログラミングできるサービスGoogle Apps Scriptで英語勉強アプリつくりました。 結構時間かかりましたが、これで仕事中に英語勉強し放題になりました 笑 英語の選択問題の演習ができます。
↓にアップロードしているのは著作権の関係上、著作権のない問題30問だけを載せてますが、自分用のは延々と問題を追加できるようにしました。問題の追加が楽なように、スプレッドシート上からデータを参照する方式にしました。
それにしてもGoogleには有用なサービスがたくさんあります。スプレッドシートはサーバ上で動くエクセルとしてどこでもアクセスできるからデータ使う作業に凄い便利! スプレッドシート上では簡易アプリケーションをすぐ簡単につくれるし。
またGoogle Apps Scriptは、スプレッドシートやそのほか、Google Mapなどと連携してアプリケーションをプログラミングできるので、ネット上で動く多機能なページやアプリ開発には非常に有効に使えます。

エクセルはできないことがないくらい便利なもので、学習のためにも研究のためにも非常に便利なものだと思いますが、それをサーバー上で行えるスプレッドシートはスマホ・タブレットでどこからでもITに接続する時代にとって有用性は計り知れない気がします。
Googleは自分が生きているうちはおそらくサービス終了しないだろうから、安心してデータ預けられるし、なによりどのサービスも動く速度がすごい速いので素晴らしい。
↓の英語勉強アプリは簡単なつくりですが即席でつくって思ったのは、これからプログラミングが小中学生の義務教育の必須科目となり常用的なリテラシーとしてできる人が増えることから、サービス提供する側もユーザがプログラミングできることによって有用に利用できるサービスを今後色々と展開していくかもしれません。色々と利用者がカスタマイズできたり、ネット上のアプリケーションと連携して開発できたり等。プログラマ辞めて3年以上たちますが、忘れてしまわないようこれからのITに備えようと思うこの頃です。 さて↓のアプリに英語の問題等を数千題導入して、仕事の時間は勉強しまくろう……。
https://script.google.com/macros/s/AKfycbwh0puNGC6_kGQliwJbR1JeelKlUozv1vN0FzFkU_ah5zmJ2Vdy/exec


最近は英語を勉強中


緊急事態宣言もどうやら延長しそうであるし、自粛期間をせめて少しでも有意義に過ごそうと、英語の勉強を4月から本格的に始めています。



4月だけで購入した英語の参考書…
さすがに買いすぎたけれど、1/3ほど消化しました。

ゲーテの格言に、
外国語を知らないものは、自分の国語についても何も知らない.
英訳:Those who know nothing of foreign languages know nothing of their own
(『格言と反省』より)
というものがあります。最近の研究でも、外国語の学習は母国語の国語力を大きく向上させるという結果があります。

私は今更の夢ですが物を書いて印税収入で生活したいという目標をもっているのと、もし経済的余裕がでたら海外に住みたいというのもあるので、英語を勉強をしすぎても損はないと思っていて、英語を総合的に勉強することにしました。

英語の勉強というのは、結構勉強量に比例して成果として英語力が実感できるほど上がっていくものなので、なかなかに楽しいです。

以前20歳くらいのころ、TOEIC700点程度の英語力でしたがちょっと背伸びしてペーパーバックを読み始めて、英語で小説を読むことにハマっていたことがあります。とくによかったのが、エドガー・アラン・ポーの小説。原文での読本は、日本語版では色あせてしまった芸術性が強く感じられて凄く感動しました。エドガー・アラン・ポーといえば江戸川乱歩が愛読していて、推理小説のさきがけ的なものを書いたことでも有名ですが、あの至高の背徳詩人ボードレールもまた、エドガー・アラン・ポーを敬愛し、いくつかの秀逸な評論を残していて、ポーの芸術性に言及しています。『アッシャー家の崩壊』は、ゴシックで暗くも耽美で綺麗な印象でした。

海外文学の中でも特に詩や芸術の側面を愛するのであれば、是非とも外国語を学習するのは意義のあることで、原文で読むと文章や詩句の美しさというものがより強く伝わってきます。シェイクスピアとかを読んでみたいなと憧れてます。

原語ではありませんが、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を英語で読み始めました。前にも一度読みました。この小説は比較的難解な長い文章が多く出てきますが、日本語で7回ほど読んだ小説である程度記憶していたので、なんとか読破することができました。しかし、世界で1~2番目に好きな小説なので、また英語で読みたくなり、再読しています。前は流すように読んでいましたが、今回は精読しようと思い、1日数ページずつゆっくり意味をたしかめながら読んでいます。

言語というより、文字からの影響ですが、アルファベットで読んでいるとより洋風の情景が浮かんできて、なんとなく違う面白みがあります。

自粛期間でずっと家にこもりっぱなしであると、気がおかしくなりそうにもなりますが、何か没頭できるものとして、英語学習はうってつけでした。私の会社は緊急事態宣言中も私の所属している課に限って毎日8時間出社している状態ですが、仕事が終わってから4~5時間は英語を勉強しているような気がします。取り組み甲斐があります。

人間という存在は、今はウィルスの流行に脅かされてますが、自宅内で一人であっても生産的な活動を行える強さがある種であると思います。経済活動がコロナウィルスに大きく阻害されていて屋外の活動全般はずいぶん低迷させられていますが、自宅内であっても色々と出来ることが多いので、なにか有意義なことを見つけられれば、精神的には負けることはないと思います。外で遊ぶこと、屋外の活動、人と対面して話すこと等が好きな人にとっては、辛い時期ですが、この時期も無駄にせず、なんらかの価値のある活動を多くの人が見つけられたらいいなと思います。

読書のすすめ

読書は人生を豊かにしてくれるとよく言われるが、まさにその通りであり、読書によって齎されるものの価値は大きく、効能も大きい。読書で得られるのは決して知識だけではなく、数えきれないほど得られるものがあることは、読書家の当たり前に知ることであり、科学者も脳機能の向上の観点から読書によって得られるメリットが多いとされている。

 人間は言葉を恒常的に使用する生き物であり、脳内には無数の言語に関する回路が根付いているのだから、その言語に関する無数の数の回路が言語全般に反応しうる可能的な量と言うのは膨大であり、人間には莫大な量の言語の総体が開かれていると言えよう。

日常から人間は言語を使用すると言っても、特に読書をしない場合というのは、使われる言語の体系というのは限定されたものであるのだが、読書などの言語的活動をすることで、膨大な量の言語の総体に開かれることになり、日常の限定された言語の体系から大きくはみ出した量の言語が人の精神を駆け巡り得ることになる。

人間の古来から今も続いている多様な言語活動において、あらゆる物、事柄、出来事、状況、感情、心理、イメージ、観念、概念が名付けられ、名辞が与えられているとともに、それらの相互関係が文法に則った一定数の言語で起き並べられ、意味が与えられている。普段の日常生活ではとくに気をとめないような心理やイメージであったり、日常では出会わない出来事であったり、社会生活では特に必要とされないアカデミックな事柄であったりも、作家や学者によって言葉のまとまりで表現され、形や意味が与えられている。つまり、人間には言語の総体が開かれていると同時に、未知の世界が、それに含まれる事象に対して人が言語で名付けと意味付けを行っているということから、どこまでも開かれているのである。

それらは時には、普段は遭遇しない事柄であるためにすっと入ってこなかったり、アカデミックすぎて理解するのが難しかったりすることもあるが、人間の脳に備わっている言語機能の可能性は大きいため、既に知っている言葉や文法、それらが叙述可能な事象の配列から、いくらでも発展して、新しい事象や知識に対して誰でも解釈を行うことができ、そうすることで言語を通し、世界はいくらでも広がっていく。

生き物の図鑑を読めば、掲載されている写真に添えられた言葉での説明により、生物と自然の森羅万象の営みが読む人の心の前に現前し、ありとあらゆる生き物の生態を、家に居ながら知ることができる。生物学の本を読めば、生き物の外観だけでなく内部の構造や機能であったり、生き物の行動の意味や目的を知ることができ、生き物についてより多くのことを、言葉と少数の絵だけで知ることができる。

伝記やノンフィクションを読めば、普段の交流する人との会話だけでは出くわさないような、色々な出来事を追体験することができ、人間世界についての新しい事柄がたくさん自分に開かれていくことになる。小説や文学を読めば、実際にないこと、人間が体験しうる様々な出来事、人間が思い得る色々な心理を体験することができ、現実の実存からはみでた様々なヴィジョンや真理を手にすることができる。

評論文や批評文を読めば、社会上のあるいは学問や芸術の世界の色々な事柄に対して、学のある人が持った意見、それについての思考を、共有することができる上に、様々な意見や思考を取り入れることによって、本の外で現実的に体験する事柄についても、色々と思いめぐらせ深い洞察を持てるようになる。哲学書を読めば、時代と場所を超え、偉大な精神が人間や世界について見抜いた真理に触れることができ、読む人の精神は成長していく。

言語というのは、人間を特徴づける伝達方法であり、単なる視覚や聴覚の直接的な情報とは違って、五感によって感知できない遠くの事象を交通させることができる点で、人間を動物と大きく引き離しているものである。人間に生まれたからには、見たこともない生き物の羽の構造を知ることもできれば、3000年前の哲学者が抱いた思考を共有することもでき、宇宙の果ての星の営みを知ることもでき、フィクション上の冒険や景色を体験できるのである。体験しうるであろう社会上の事柄についても、全く知らない他人の経験を言語を通して追体験することで、社会生活上で自分の物として起こしうる行動や思考の可能性も増していき、行動の指針であったり出来事に対する解釈であったりが増大していくことから、実際に社会生活を行動面でも精神面でも豊かにしていくだろう。

映像や音声での情報とは違い、単語が文法によって羅列されている言語においては、無数の情報が抽象された形で一語に集約されているので、言語一語そのものが五感に関する脳の領域に与える一次的情報は少なくとも、それを解釈する思考というのはどこまでも広がり得り、解釈の結果として脳内を駆け巡る情報量というのは、映像や音声を上回ることが多い。本には夥しい量の言葉がコンパクトにぎっしりと詰まっていて、言語そのものは五感がそぎ落とされた抽象の結果の記号であるが、それをしっかりと解釈し、脳の中で具体化、イメージすることによって、一冊の本は一本の映画よりも遥かに多くの情報を人間に齎し得るものである。

映像での表現に触れることとの決定的な違いは、読書などで言葉の並び、文章を解釈する過程で、精神活動がより強度に発動することだろう。映像においては五感の情報がほとんどそのまま解釈されるだけであるが、文章を解釈するプロセスにおいて、言葉に意味を見出そうとするとき、人は意識的であれ無意識的にであれ、過去に体験した出来事、過去に思考した内容を想起し、それらを素材として言葉の並びに想像しながらあるいは考えながら解釈を下すということを行う。つまりその過程で、今までその人が体験した色々な出来事の意味するところが組み合わされたり、今まで思考してきて精神が諸々の事象に見出してきた意味が意識上に浮上して新たな解釈が構成されたりと、とにかく精神が機能することによって文章解釈において意味付けがなされる。五感が体験すること、見ている映像の内容に比べて、読書などで文章を読んでいるときというのは、そのように精神が機能している度合が大きい分だけ、それまでの思考や体験の軌跡から蓄積された様々な意味や価値、それらから導き得る色々な思考が意識に登ること、そして現前している未知の文章から新たな意味や価値や思考を能動的に構成していくことから、非常に意義深い活動であると言える。

上記までは読書の意義の一般論や、当たり前の事を抽象化しつつ詳しく書いてみたが、具体的にはどのような効能があるのだろうか。読書の効能を並べてみよう。

・新しいことを知ることができる
・語彙が増える
・思考力がつく
・想像力がつく
・文章力が上がる
・コミュニケーション力が上がる
・人と話すときの話題が増える
・興味や関心を手軽にいくらでも広げることができる
・社会および人間世界全般の把握が広がることで行動の指針や可能性が増える
・日常では体験しえない遠くの事柄やフィクション上の出来事を疑似的に体験できる
・様々なことに対して色々な見解や意見を持つことができる
・脳機能が全体的に向上する

すぐに思いついたものだけ並べてみたが、他にも色々な効能があり、とにかく人を賢くさせ、知っていることを増やし、人との相互関係を多様にする素養となり、社会生活上であれ精神的にであれ可能性を大きく拡大させ、生きることを有意義にするものであろうと思う。

最後に挙げた脳機能の向上について、実証されている事を以下に書いてみたい。

オックスフォード大学の神経学の教授であるジョン・ステイン氏によると、「読書は大脳のトレーニング」だそうだ。読書中の脳の状態を実際にMRIでスキャンしたところ、本の言葉で表記されている景色、音、味、香りなどを想像しただけで、それらに対応する大脳の各領域が活性化し、新しい神経回路が発生したとのこと。つまり、言語に関する脳の領域だけでなく、想像力によって本の中の五感情報をイメージに構成していく過程で、五感に関する脳の領域も活動して五感に関する神経回路も増えていくのである。

カナダのヨーク大学の心理学者、レイモンド・マー氏によると、読書によってストーリを理解して他人の考えや感情を理解しようと努めた脳において、脳の神経回路の重なりが増えていた、ということがMRIによる分析で‏明らかになった。このことから、読書することで他人の立場にたって考えたり他人に感情移入や共感を行う脳の機能が向上することがわかる。

エモリー大学の研究によると、ボランティアの学生に9夜連続で小説を読ませたところ、左の側頭葉の脳細胞の繋がりが増加していることが顕著にMRIの結果に表れた。興味深いことは、スキャンしたのは読書中ではなく読書後であったことから、左側頭葉の神経回路はたった9夜のことでその時だけでなく後に残るものとして増えたことになる、ということである。

他にも読書の効能を脳科学的に実証した実験というのはたくさんあり、脳の機能を向上させるうえで読書と言うのは非常に良いものであることが示されている。

読書をすることで、言語に関する脳の領域が強度に活動することはもちろんであるが、小説など五感情報に関わる事象が言語化されている表現を読むことにおいては脳の五感の領域が活動し、またストーリーにおいて人の思考や感情や人の状況が語られる表現を読むことで感情や状況や思考を理解する脳の領域が活動し、神経回路が増える。それも、読後もしっかりのこる増え方なのである。とにかく読書をすることで、脳のあちこちで神経細胞が繋がり、シナプスが形成され、飛躍的にシナプスを増やすことができる。たとえば音楽家は音に関するシナプスが普通の人に比べてはるかに多いため、音楽のワンフレーズを聞いただけで色々な感覚や感情が脳内を過り、それに対する論理的思考も発生したりするが、それと同じように、読書をすることで様々な事象に関するシナプスを増やすことで、同じ一つの出来事や言葉に対し、たくさんの思考や感慨やイメージを持つことができるようになり、日常に体験する情報に対しても脳内に駆け巡る印象や解釈が豊かになるだろう。


とにかく読書は、人を豊かにする。せっかくどんな人にも安価で手に入る本という媒体の上に、広大な世界が無数に広がっているのだから、人間に生まれたからには、人生を有意義にするために、読書を行わない手はない。幸い、書店や図書館に行けば、無数のジャンルの本が置いてあるので、普段読書をしない人もどれかには興味を持てるだろう。興味をもったタイトルの本、ふと目に入った本からでも、少しでも読んでいけば、興味や関心は広がっていき、新しい言葉、新しい出来事や物事、新しい五感、新しい考えなどを、体験することができ、心は豊かになっていくだろう。

クアラルンプールでのこと

  業務初日、朝、予めスマホに挿入していたマレーシア用SIMの通信が障害を起こし、所属企業があるビルにて、研修室まで案内してくれる予定の研修担当の方と連絡が取れず、いったんホテルの部屋に帰る。Wi-Fiを繋いで連絡し、事情を説明。その後、待ち合わせ場所を決めてもらって再度出社。 ...