ベトナム紙幣を見て泣いた話


入院していた閉鎖病棟から病院に預かってもらっていた私物が届いた。昨日12/29に宅配員から受け取り、大きい段ボールにつまった大量の物品を開封した。ベトナムから帰国したのは8月末だったが、そのあと色々あって自宅にほとんど入ることができず、貴重品だけでなく役に立つものやゲーム機や書類や書籍などを大きいバッグに入れて大阪のインターネットカフェや安いホテルなどに泊まり歩いて過ごしていて、その流れで入院になったため、とにかく大量に病院預かりの私物があって、いろいろとこの1年を思い出しながら開封した。


その中に、ベトナム紙幣があった。140,000 VND。日本円にして900円弱。余ったお金。そのお金を私にくださった主である、命の恩人、ホーチミンのハイスクールで英語の先生をしている現地人女性Tさんのことを思い出して、泣いてしまった。その助けられたときのことは記事後半に書きます。



ベトナムではほんとに、いろいろなことがあった。5/5に単身で渡航してから約2週間は割と普通に観光していたが、私は徒歩が好きで10キロぐらいであれば即断で歩こうと思って目的地へ行く。観光スポット以外の市街地やその周辺の徒歩をひたすら、それもなかなか面白く、たとえば店の形とか外装とか売り出しているモノとか、建物の色とか位置とか、道や設置物の特徴とか、看板の文字や言語とか、空気、空の色、鳥、植物、人の服装や乗り物の特徴、そういったものをじかに長時間たくさん体験できる。ベトナムの東南アジアの春~初夏の綺麗な空を背景に、やや南国風の植物群や独特の色合いのカラフルな建物を見て歩いているだけでも楽しい気分。黄色とか赤とかではなく、レモン色、リンゴ色、南国の海の色、とか言いたくなるような色合いで新鮮。


ホーチミンの空港で入国して最初は主に市街地を徒歩で巡っていたが、しばらくすると冒険心から市街地から離れたところまで歩くようになっていた。郊外あるいはとなりの市?の辺鄙なところのそれほど人もいない地帯のベンチで仮眠しているときに、パスポートと財布とiPhoneの入った小さなバッグを盗難されてしまった。ショルダー式だが片側の肩にしかかけてなかった。着替えや日用品その他旅行の必需品などが入った旅行鞄は2日前後前に泊まったところに預けていた。もう一つショルダー式のノートパソコンが入ったバッグがあってそれは斜めに肩にかけていて盗難されなかったが、そこには異国で生きるにはパソコン以外には役に立たない小物や周辺機器ぐらいしかなかった。


ホーチミンから数十キロ~100キロ離れた辺境で持ち物はインターネットに接続できないパソコンだけ。貴重品なにもなく、役に立つのは着ている服と履いてる靴だけ。飲み物も食べ物もお金もクレジットカードも身分証明書も何もない。途方に暮れてとにかく市街地へ行こうと思って歩き続けていた。しかし、地図がなく時計もない。


北緯10度のホーチミン周辺は、夏に近づくにつれ昼は太陽が東→南ほぼ真上→北ほぼ真上→西と動くようになる、つまり真昼に太陽が北へ突入することがあるので、歩いていて方角がわかりにくい。10時ぐらいだと南真上付近だけど、12時だと北真上付近。時計がないので、地図もないうえに日中は方角がわからない。そのため、ホーチミン市街地と全く違う方向へ歩いていた。数十キロ北西でやっとバス停に遭遇してそこの地図でやっと居場所がわかるなど。あと月が欠けていたら円周の一部の方角が西なのでそれは少し役には立った。


現地人はホーチミン市街地は大都会もあり英語を話せる人もある程度はいるが、街から離れた郊外~辺境あたりには英語を話せる人はめったにいない。たまに片言の英語とジェスチャーでスマホの地図を見せてくれる人がいるものの、それだけではやはり市街地へ行けなかった。


とにかく、日付もわからず何週間歩いたかわからないが、食べるものもなく、ひどいときは水道にも出会わず2~3日なにも飲まず、37度ぐらいの酷暑の中、異国の全くどこかわからない村や町や道路だけがある地帯を歩き続けた。草を食べたくなるぐらいの空腹で……


そのおそらく1か月前後の間、何度も現地人に助けられた。栄養失調のやつれた状態で露店のある道あたりの路地裏でうずくまっていると、露店の人や通行人が、英語は話せなかったみたいだけどジェスチャーをして食べる動作で「食べものは要るか?」と語りかけてくれ、遠慮して断ったり意識混濁で反応できずにいたりすると、買ってくれたり店主が無償で食べ物をくれたり。


村で助けられたこともあった。おそらく10日以上、何も食べていないなか、特に暑い日の昼前に、車道だけがある地帯→山か森に囲まれた村がいくつかある地帯と歩いていたとき、村の近くの歩道で暑さと飢えで倒れてしまった。何時間意識なかったかわからないけど、17ぐらいの青年に助け起こされた。彼はベトナム人だが英語がとても流暢で、見た目もハリーと呼びたくなるぐらいイギリス人っぽい感じで、他の村人と一緒にリンゴとインスタントヌードルを用意してくれ私に出してくれて、事情を聴いてくれた。彼以外にも英語を話せる人がもう一人いて、その村では食べ物や飲み物などいろいろとお世話になった。


村人たちで集合写真を撮り、メールで送ってくれた画像↓


他にも、そこからはもう少し離れたホーチミンにやや近いところで熱中症で動けずにいるときに、男性4人組が声をかけてくれて、古い漆喰の民家に招いてくれたことがあった。どういう流れかは英語が全く話されていなかったからわからなかったけど、小さなパーティということになって、炒め物やフルーツやビールなどが出されてそれを皆で食べ、口頭では全く言葉が通じないがジェスチャーや表情と彼らのスマホの文字翻訳だけで色々コミュニケーションを取り、楽しい2~3時間を過ごすことができた。


そんなことが何度かあり、おそらく1か月ほど全く何も所持品もお金やカードもなく(パソコンは栄養失調と熱中症の限界のフラフラで長距離歩くには重くて手放した)、着衣のみで生存をすることができたが、その期間に1度だけ自殺しかけたことがあった。栄養失調と喉の渇きと疲労があまりにつらく、つらいというか全身苦しくて内蔵が痛く、足が筋肉疲労のためだけでなくよくわからない肉が骨から離れるような痛みが走り、とにかく呼吸しているだけで苦しすぎたとき、苦痛に耐えることができず死にたくなった。そこはやや町っぽくコンクリートの民家が並んでいた道で、駐車スペースのようなところに私用の小型バス?または何らかの法人の送迎車?みたいな赤いバスがあり、そのバスのドアミラーが2メートルちょっとぐらいのところにあった。10メートルぐらい離れたところにうち捨てられた電気コードがあった。それで首を吊ろうと思った。深夜でコンクリートの民家の外用の照明だけが少しあるなかプラスチックの椅子を見つけたので、それをミラーの下において、つるしたコードを首にひっかけて、意識朦朧であまりに苦しかったため人生思い返すとか思いとどまるとかもせず、椅子をけり倒すその瞬間、その赤いバスの奥のほうで持ち主らしき人が眠っていたみたいで、彼は私に気づいたあとフロントガラスをノックし、それに気づいた私にノーノーとジェスチャーをしてくれて、それで自殺遂行は止まった。


そのあとも生命の限界のなかホーチミン市街地を目指して、バス停の地図と朝や夕の太陽の東西と月の満ち欠けをたよりに歩き回り、なんとかホーチミン付近にたどり着いた。しかし、たまに歩いている途中で意識を失うのでどういう状況だったが鮮明には視聴覚していないのだが、意識失いながらよろけているときに倒壊し放置された廃墟の民家の戸のガラスにぶつかったようで、ガラスが日本でいうと昭和にあるような割れやすいガラスだったので脚で割ってしまい、くるぶしあたりにガラス片が肉を強く抉るぐらい深く突き刺さってしまった。血がどばどば流れてコンクリートを染めた。


激痛と出血で歩けない。食べ物がない。飲み物もない。お金もスマホも時計も地図もない。酷暑。このまま死ぬのか? 柵や欄干があるときはなんとかそれで歩けたものの、ないときは四つ這いになって移動するしかない。そんな状態で、ホーチミンのはずれのバス停までたどり着き、その背もたれのないベンチの脇の地べたに壁を背にして座り込み、死にそうな状態で、おそらく生きてるかわからない顔で、ただどうすればいいのかわからずに居た。そのバス停には他に人はおらず、救急車の呼びようもなかったのだが、半日ぐらい経ったとき警察の半トラックみたいな形のパトカーが通りかかり、荷台に乗せてくれて警察署で一時保護してくれた。そこでインスタントヌードルと飲み物をいただき、医師ではなさそうな医療技術を持った職員の方が、くるぶしあたりの傷を縫ってくれた。しかし、麻酔なしの荒治療。消毒液だけ大量にかけられ、傷は深く皮膚の厚み5ミリありそうなのを裁縫の糸と針を太く大きくしたような糸で直接4針縫う。激痛だったが、もともと怪我自体激痛だったのと飢餓の苦しさと比べれば全然マシだったので、声を上げず耐えることができ、なんとか傷口はある程度ふさがった。それでも糸と糸の間からは血が流れる。しばらくすると少量の出血で澄むようになったので、警察で事情を聴かれ、盗難届をだして、顛末を話すと、総領事館のすぐそばまで連れて行ってくれることに。なぜか領事館へ直接取り次ぐといったことにはならなかったし病院にも連れて行ってくれることにはならなかったが、領事館のすぐ側のバス停まで送ってくれた。


なんとか助かるかな……と思ったものの、縫って消毒しただけでは傷はあまり回復していないみたいで、少量の出血と、歩こうと地面を踏んだときの激痛は続いていて、歩けない……。壁づたいにも歩けないほど痛く、欄干や手すりがないと歩けない……ホーチミン市街地で四つ這いになって歩くわけにもいかず、領事館までの数十メートルが遠い……結局、またバス停でうずくまることになってしまった。荒治療とはいえ傷の縫合はほんとに助かったので警察には感謝だけれども。しかし、歩けない。そして食べ物もお金も何もない。痛む足と着衣だけがある。途方に暮れて、バス停のベンチに座っていて、また死にそうな顔をしていたと思う。




そんなとき、

"What's the matter? Do you need help?"


発音の良い英語の女声が聞こえた。私は疲労と途方に暮れた様子で呆然としていて耳に入ってくる続きのやや早口の英語もあんまり聞き取れず、その声の主のほうを見る気力もなく、意識を失いそうになっていた。その様子を見て、彼女は心配してくれて足の傷と出血に気づき、また栄養が足りていなく熱中症であることにも気づいてくれた。そして自分でも何言ってるかわからない英語で私は返答すると、彼女は私の手をとり、救急車呼ぶほどでもないかバスで病院に行ったほうがよいのか判断したのか来たバスに身を少し支えてくれながら乗せてくれ、そこから数分の小さな病院に連れて行ってくれた。病院の受付に私の足の治療をするように言ってくれたあと、すぐホテルに電話して部屋を予約してくれていた。病院で足を治療してもらい、患部の薬と抗生物質などの内服薬を貰い松葉杖を借りたあと、すぐに予約してくれたホテルに連れて行ってくれた。


最初は私は、いったいこの一連の流れが何なのか正常に把握できないぐらい、その救助に感謝しつつも、彼女の人を助ける行動力にただ感心していた。気づけばホーチミンの都心からすぐ近くの小さな建物ではあるものの内装が綺麗なホテルの一室に居た。彼女の名前はTさん、ホーチミンのハイスクールで英語の教師をしている。英語の発音が綺麗で、英会話力もプロフェッショナル。ホテルの一室で食事をいただき飲み物をたくさん飲んでいるうちに少し意識がはっきりしてきて、英語で事情を話した。


Tさんは困った人をみかけたらすぐ助ける優しさを持ちつつも、いい意味で気の強いしっかりした方で、英語でのコミュニケーション力というかコミュニケーション力全般が非常に高いので、私のその1か月あまりの顛末と今のお金も食べ物も寝るところもなく途方にくれている顛末を詳しく聞いてくださった。すると本気で心配してくれただけでなく深く同情してくれ、話しているうちにだんだんと打ち解けてきたこともあり、帰国までサポートすると言ってくれた。


とても嬉しかったが私は、そんな初対面で全面的に助けてくれるということを今まで一度も体験したことなかったし、驚くばかりの病院→ホテルまでの手配にどう適切に感謝をしてよいかもわからない状態だったので、帰国までお世話になって良いのか遠慮するべきなのか戸惑っていたが、とにかくTさんは語気を強めながら助けてくれると言ってくれる。Tさんは人助けの心に満ちているだけでなく異変があればそれに対処するよう物事を素早く遂行する行動力のようなもの持ち合わせていて、私がその救援の提案に感謝しうなずくようになると、すぐホテルを1週間取ってくれた。領事館の住所のメモ書きも手渡してくれてご自身と領事館の電話番号も教えてくれ、ホテルの電話から私が領事館に電話をかけてもいいように取り次いでくれた。


そしてなんとか松葉杖で一人で歩けるようになった私が領事館に電話したり貰ったバス代で領事館に赴いたりしていたその1週間、そのホテルは食事付ではなかったので、Tさんは毎晩、手料理を持ってきてくれた。そこまでしてくれるなんて畏れ多いような、感心するような気持ちになりながらも、心から感謝した。英語表現で感謝を表すいろんな言いかえを元気を取り戻した脳を総動員させ思い出し、謝辞を述べた。晩御飯を一緒に食べているとき、日常会話や旅行のこと、ベトナムや日本のこと、お互いのことなども話すようになった。


Tさんはベトナムで、日本でいう小中高・大学とすべての教育機関で教師や非常勤講師の経験がある方で、英語力は非常に高く、厳しめの指導をするとご自身でも言う方で、私が間違った英語で話すと訂正してくれることも。教育に身を捧げていて熱心に教育活動をしていらっしゃる。また、敬虔な仏教徒であり、信仰の仏教の教えがどのようにご自身に息づいているかなど、思想や信条に関してのことも話してくださった。1週間のあいだ私はある程度、食べることができたものの、やはり慢性的な栄養失調の症状がみられたので、漢方の内科にまで連れて行ってくれた。朝鮮人参やその他アジア系の薬草を錠剤や粉末にしたものをたくさん処方されたが、これが思いのほか栄養状態の悪い五臓六腑には効いたらしく、脳までだんだん冴えを取り戻し、東洋医学に感心した。そしてなにより、Tさんに感謝した。


帰国への手続きはというと、領事館に行ったらなんとか1週間ぐらいで帰国できるかなという見込みは甘かったらしく、パスポート滞在期限が過ぎたための書類手続きと罰金、パスポート紛失のため代わりになる書類の発行手続き、航空券の用意、それらをするために日本の役所と戸籍謄本などのやりとりもしなければならないので、1ヶ月近くかかるということになった。


領事館の日本人オフィサーSさんが、元日本の警察官で仕事のできる快活なイケメンで、久しぶりに聞いた日本語で人と話すことができた。感じのいい少しくだけた雰囲気と話し方をする方のSさんとは、事務的でしかない関係というより友達とはいかない程度の知人みたいな感じで話すようになっていった。信頼できる方で、仕事もできそうな感じで、それは安心だったものの、1ヶ月の予定は長く、どうやってお金も何もないなか、Tさんにしか生活を頼れないなかどうやって過ごそうか不安。


そのことをTさんに話すと、マンスリーの住居を借りてくださるということになった。あいかわらず感謝することしかできずそのアパートへ。ここまでしてくれるなんて、日本では今まで困窮時に交際相手がごはん作ってもってきてくれたことぐらいで、初対面から1週間ほどで全面的に助けてくれるという流れになる一連の出来事が、まるで夢のように思えた。その数週間~2ヶ月前は飢えと暑さと一文なしで限界だった。今は住むところと食べ物がある。そして優しいTさんが毎日きてくれる。人間も哺乳類に属するが、おそらく哺乳類や鳥類の本能として、生存があやぶまれるときに助けてくれる他の個体・個人が懐く対象になるのかもしれない。いや、もっと人間的にTさんに心から感謝しその人格が好きになるのかもしれない。


それ以降のことはプライベートな内容なのでここには詳しく書けませんが、恋愛関係にはならなかったものの親密になっていき、観光や寺院巡りや教会巡り、お土産や服の買い物を一緒にすることもありました。しかしながら、私の人生で最も大きな過ちの一つになることなのかもしれませんが、Tさんと一時、喧嘩することになりました……


ほんとに自分、ひどすぎる。命の極限状態から何もかも助けてくれた人と口論するなんて、思い返せば信じられないぐらい酷い。Tさんは英語力だけでなく教養もある方で、思想、人格、社会などに関わることで話していたとき、人間観というか価値観というかそういうことのある一点についての意見が相反したことがきっかけで。今思えば人格者そのものみたいなTさんに、そして命を救ってくれた恩人に、なんてことを……と痛切に感じられるし、自分にもっと英語力があれば……そういうことにならなかったかもしれない。とにかく自分は最低かもしれない。その口論の果てに、私はそのマンスリーを1週間のこして家出しました。


そして約10日間、使ってよい水道の水以外また飲まず食わずで酷暑のなかさまようことに……いい加減、学習したらどうだと今となってはほんとに思う。ろくでなし。また栄養足りてないなか歩き回り、ホーチミン周縁→市街地・住宅地→都心部へと。とにかくホーチミンはバイクが多い。バイク密度がすごい。ヌーの大群みたい。そして暑い。



フラフラでホーチミン中心部へたどり着き、領事館へ。既定の日時に訪問し書類を書かなかったため、また少し帰国のための手続きが遅れると。食べ物どうしよう……寝るところがない……また途方に暮れていると、領事館の日本人オフィサーSさんがお湯しか必要としないレトルト食品や、パンなどを少し支援してくれることに。それでなんとか食いつなぐも、量は限られていて寝るところがない。またこれから1~2週間、途方に暮れて飢餓なのか……そして航空券代がどうしても手に入らない。帰国できるのか……また本格的な飢えと渇きと暑さで生死を彷徨うのか……そして一度はそういう状態から元気になるまで帰国への道が見えてくるまで助けてくれたTさんに自分はなんてことを……



まず最初にTさんが取ってくれたホテルまで徒歩で歩き続け、翌々日にたどり着く。しかしお金がない。お腹が空いて疲れのなか途方に暮れホテルの近くのコンビニ、ミニストップのベンチで長時間座っていると、警備員が"Are you okey?"と心配してくれた様子で話しかけてくれた。そして事情を軽く話していると……


なんと、Tさんに遭遇。


全くの偶然。ホーチミンは人口が大阪府より多く、都心部やその周辺の市街地の視界単位の人口密度は非常に高い。雑踏、東京のスクランブル交差点ぐらい人がひしめき合ってる中での、奇跡的な再開。彼女は少し怒りながらとても心配してくれた感じで私に言葉を投げかけ、ミニストップに入りイートインで一緒に食事をすることに。私は深く謝罪し、Tさんは"あなたはまた一人で歩き回ってふらふらになって目の前にあらわれる"と半ば呆れながらも話を聞いてくれ、そしてまた帰国までホテルを用意してくれるということになりました。和解できただけでなく、さらに手を差し伸べてくれるなんて。


そしてまた毎晩、料理を作ってくれて持ってきてくれました。仲を取り戻し、帰国のために必要なことを話し合い、その他のことも色々と話しました。その中で私は感謝の念を何度も述べましたが、何度言っても言い足りない。こんな命の恩人に出会えるなんて、生死に関わる不幸中の至上の幸い。お姉さんとその娘と息子と一緒に住んでいるTさんは、お姉さんにも会わせてくれました。炎天下が過ぎ去った夜も近いテラスのカフェ、お姉さんはTさんと比べるとラフで常に楽しそうな感じの方で、この旅の顛末を話し驚きながらもほんとに助かって良かったねと労いの言葉をください、3人で長々と話しました。


領事館での手続きはいったんは私の家出?で滞っていたものの再開してからは順調に進み、兄の連絡先を日本の役所経由で確認してくれ、なんとか兄に電話がつながる。帰りの航空券代と滞在期間延長料金+1万円を領事館に送金してくれて航空券も手に入った。手続きを進めてくれて食べ物も少しくださった領事館の日本人オフィサーSさんにも感謝。


Tさんとの別れについては、領事館の人が兄のお金で買ってくれた航空券が翌日出向だったため、彼女としっかりお話をして感謝の辞、いつかお返ししたいという意志を表明することもできず、短時間の挨拶となってしまいました。自分はスマホもカメラも持っていなかったので、一緒に行った観光地や寺院の写真もなく、お互いの写真もなく、連絡先の電話番号のメモだけがポケットに残され、Tさん、領事館とSさん、そしてベトナムとの別れは一瞬のことでした。




生死の境をさまよって途方にくれたベトナム南部でしたが、ほんとに内容の濃い夏でした。飢え、渇き、暑さ、怪我、全くの一文無しで、生命の危機だったところをほんとに帰国できるまで助けてくれ支えてくれた命の恩人のTさんのことは、一生忘れません。帰ってから無事に帰国できたことを知らせたいと思っていたものの、そのあと大阪でも色々と大変で貰ったお金がすぐそこをついた上に盗まれたクレジットカードは不正利用されていて、住めるところがないまま大阪の街をあちこち移動しながらなんとか生活を立て直そうとしているときに連絡先のメモの入ったポーチを紛失してしまった……(そのとき大阪で厄介ごとに巻き込まれてしまっていろんな所持品を失ってしまった)。


Tさんには連絡する手段を失ってしまい、無事を知らせることも足りない謝辞を言うこともできず、もう会うことも話すこともないのかと思うと悲しい気持ちになる。恩返しができないもどかしさと、命の恩人に一生会うことのできない切なさ。



12/29、精神科から返ってきた私物の中のベトナム紙幣を眺めて涙が込み上げてくる。夜中長時間、ベトナムでのことを思い出していた。


そして一つ再コンタクトのための手がかりを思い出した。連絡先は失ったものの、YouTubeでTさんの働いているホーチミンの学校の紹介動画を一緒に見たからか、学校名ははっきり覚えていて間違いない。その学校となんとか連絡をとってTさんとコンタクトを取ることはできないか? 異国の常識やルールなどを知らないので、そういうことをすることがいけないことなのかよくわからないけど、検討している。恩返しをしたい。命を救ってくれ、帰国を助けてくれ、そして人間の優しさや助け合いの偉大さを教えてくれ、とにかく、こんな人には一生出会えないという大きな体験となりました。おかげさまで今現在ある自分の生で、いつかきっと恩返しできたら……。




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数年前~今日、描いた落書きたち。 ※センシティヴ・グロ・性的表現あるので注意です※  耐性ある方は、  ↓Click↓