革命的表現に出くわすことの功罪

私の知る限りにおいて、個人的な見解ではあるが、世界史・思想史・音楽史・美術史のあらゆる有名な人物のなかで、キリスト以外の中で最も純粋な人物は尾崎豊であり、最も誠実な人物はニーチェであると思っている。

イエス・キリストはキリスト教の開祖となったが、同時に革命家でもあった。色々な伝記があり、不遜極まる非実在説の類もあれば、聖書に書かれているその通りであるという説もあり、ドストエフスキーの『白痴』の穢れなきムイシュキン侯爵のような人物ではないかという説もあるが、個人的にはルナン伝と呼ばれることもあるエルネスト・ルナン著の『イエスの生涯』が史実に近いのではないかと思っている。ドストエフスキーの小説に出てくるキャラクターの中では、あまりに世間知らずでその人間離れした純情と無垢で周りを翻弄すると同時にまわりに翻弄され続けるムイシュキン侯爵よりは、家族の諍いだけでなく周囲の人の混沌を正し導こうとする意志をもつ人格者であり、続編では革命家または反政府主義者が想定されていたアリョーシャに近いのではないかと思う。

ルナンの描いたキリストは、愛の精神や民族救済の理想に燃えた情熱的な革命家である。政治には疎い田舎町の大工であるが、身近に実際にみる世界において、人々がローマ帝国にへつらうヘロデ王の圧政に苦しみ、また、権威を持ったパリサイ派の堅い律法の形式に生活を縛られ、人々が救世主を求めていた風潮の中で、愛を説くと同時に、世界を変革させたいという革命精神に突き動かされ、自身の愛の神の思想を口述の形で旅をしながら語っていた人物。個人的には聖書の記述そのままの出来事が起こったとは限らないと思っている。確固たる権威に属さずに各地に風来に現れてカリスマを得た人物というものは往々にして、その偉大な精神に直面した人の見聞、その口伝、噂で、諸々の偉業に尾ひれがつけられ、やがて伝説となり、神話となっていくものであるし、新約聖書が執筆されたのは後の時代である。

しかしキリストの生涯が実際にどうであったかに関わらず、地球上で最も読まれている書物である新約聖書に神懸かった偉大な人物として書かれ、後の文献学者から革命家であると史実として記述され、実際に歴史上最も人類世界に影響を与えた人物であり、2020年はキリストの存命期を基準にした年号である(近年はB.C/A.Dの定義付けが改訂されつつあるが)し、キリスト生誕の日とされることもあるクリスマスが祝われるなど、キリスト教圏以外にも多大な影響を残している。イエスが存命の間には、イスラエルの地の貧困な人、病人、圧政に苦しむ人に絶大な支持を得、後には世界を変えるほどの宗教になった。私は特に特定の宗教を持っておらず、宗教と言えばお墓が仏教のお墓に入ることになるだろうというくらいにしか身近な生活には宗教が関係していないものであり、信仰心は持っていないが、イエス・キリストの生涯・教え・思想が書かれた聖書やその他、キリスト教関係の文献に多感な時期に出会えたことは、一生の財産であると思っている。実存としての思想の面だけでなく、文学・哲学さらには西洋のロックなどに、文化的な興味関心を深く持つことができたのは、聖書を手にしたからであると思っているし、また、人格の面でも中学生のときまでは人に冷たかったが少しは他者に対して愛情を持てるようになり優しくなれたと思う。

私にとって聖書に出会えたことはいいことだらけであった。宗教には属していないがイエス・キリストは最も尊敬する人物の一人であり、とくにそのときの貧しい人や病に苦しむ人などを救おうとする愛、神の意志を事実伝えた精神性、圧政に対する革命への意志を尊敬している。

しかし革命家、革命的思想家というのは、若い精神にとっては時に悪影響になることもある。たとえばニーチェである。



ニーチェは反キリストとして有名であり、「アンチ・キリスト」というタイトルの書物を著し、有名な「神は死んだ」という言説もあるほどである。しかしニーチェは、その「アンチ・キリスト」においても、一人の個人としてイエスに敬意を示している言説が見られるし、ニーチェが発狂するほど生涯をかけて否を唱えたのは、キリスト教というよりも、畢竟、キリスト教圏のヨーロッパの人々の生の価値が西洋文明や政治体制によって貶められていること、ニーチェ自身が現実世界や書物の中で見聞きする人たちの良心が不誠実になってきていること、そして権威として世界に君臨しながら(科学の発展によって神の実在が疑われるようになってきたこともあり)宗教が実際に人の生命の内奥に機能し実存を高める役割を失ってきていることであり、ニーチェ自身は決してヤハウェの神を貶めたわけではない。実際にニーチェは旧約聖書の荒ぶる雄雄しい怒りと罰の神に畏怖と敬意を示す言葉をいくらか残している。

「神は死んだ」というのは、神が人に正しく作用することのなくなった当時の西洋世界の形態や風潮、西側文明人の傾向全般を批判した言葉であり、人々に機能しなくなりつつあった神への信仰心を超えるものとして、虚無を乗り越えるために、宗教や既成の枠組みに囚われない個人の生の高め方を狂気に陥るまで説き続けたのである。私は一時期グノーシス主義にハマっていたときにキリスト教に対して懐疑的になることはあったが、不思議とニーチェを読んだときはアンチ・キリストにはならなかった。上述のことを認識していたからでもあると思うが、何よりニーチェの誠実さを感じ、もはや崇高ともいえる誠実な精神に、宗教の根本に通じる倫理を見出したからかもしれない。ニーチェの誠実というのは、学術的にはどうかと思うことが多々あり、言いたいことのために事実を捻じ曲げる傾向にあり、師から処女作を「酔っ払いの戯言」とまで言われアカデミックな世界から半ば追放されたほどであるが、精神的な面での誠実は極まっている。だからこそ、自分がそれは人の生を貶める・諸々の高貴な価値を貶めると直感したもの、判断したものに対しては、妥協のない批判を容赦なく行っている。当時の権威や一般的風潮に媚びることなく、それらから攻撃を受けることを全く厭わず、信じたもののために命を懸けて言葉を放っていた。

その革命的な精神は同時に悪影響にもなりうる。ニーチェが悪影響を与えた個人として有名であり、文明上の永久戦犯といっても過言ではないヒトラーは、若いころにニーチェの超人思想などに多大な影響を受け、ニーチェの元盟友ワーグナーに心酔し、ナチスの凱旋歌にワーグナーのタンホイザーを使用した。ヒトラーは反ユダヤ主義を偏執的な誇大妄想といってもいいほど推し進めていたが、ニーチェは決して反ユダヤ主義者ではなかった。前述のようにニーチェは旧約聖書の神を高く評価し、畏怖を示して礼賛することがあったし、妹が反ユダヤ主義活動をしていたのに強く反発しただけでなく、反ユダヤ主義が当時のドイツに蔓延りつつあることに危機を感じ、警鐘を鳴らしていた。ユダヤ人に迎合したわけではないが反反ユダヤ主義といってもいいほどであった。ニーチェは当時の西洋文明に虚無を感じ取っていただけでなく、政治的な面でもドイツの異常の萌芽を感知していた。

ヒトラーのような歴史に影響力を持った人物においてだけでなく、ニーチェの悪影響というのは散見されると思う。まず、20世紀以降の哲学史では「ニーチェ以前/以降」というのは重要なターニングポイントとなっているが、ニーチェ後のポストモダン哲学の一部は、ニーチェの唱えた遠近法主義の悪影響を受けて過度の相対主義に陥っているのではないかと、あくまで個人的には思う。言葉の使用方法の自由度が高すぎ、余計な観念を新しい遠近法として捏造的に量産しすぎているのではないか、ソーカル問題で槍玉に挙がっているように数学や科学の概念を濫用してはいないか、社会上の事柄を勝手におかしな観念体系で解釈しすぎではないか、などポストモダン哲学には問題点があると思われる。

また、若い多感な精神に対してニーチェの過激な比喩表現は麻薬のように作用し、西洋精神に毒づき覆そうとした革命精神と相まって、反政府主義者などの過激派を生み出す可能性を蔵しているし、また精神的に病んだ若い神経系に劇物のように作用し余計に苦悩を増大させるものでもあり得る。

ニーチェは哲学界のトリックスターであり、天界の火を人類のために窃盗するという不遜を犯してゼウスの怒りを買い山頂で磔にされ肝臓を長期間巨大な鷲エトンについばまれ続けたプロメテウスのように、11年間発狂したままになってしまったという悲劇が下ったし、言語の魔術師といってもいいほど言語の法を侵犯して多種多様な言語表現を生み出したせいで誤解されたりするが、決して低級なトリックスターのように悪意を持って人間界や言語世界を攪乱しようだとか思っていたわけではなく、確固たる内的な正義と倫理に基づいて、際まった誠実を以って、人間の実存を高めようという意志で、当時の西洋の諸々を批判していたし、それだけでなく言語そのものに対しても痛烈な批判をしている。

その結果として悪影響が見られるものではあるが、その誠実さを考えると皮肉なものではある。元来、人間世界がたくさんの不正や不誠実の上に成り立っているので、ニーチェの偉大な意志とその純度の高い妥協なき誠実さに影響を受けすぎ、ニーチェが批判したのがもはや当時の人間全般・哲学全般といってもいいことを併せるなら、その文芸的天稟に激情を宿したセンセーショナルな言語表現に陶酔した特に若い読み手は、本人のキャパシティを超えた二律背反的な葛藤に陥ることになると思われる。

しかしヘーゲルの哲学でいわれるように、弁証法によってテーゼとアンチテーゼが相互作用することが構成的に機能するし、ユングの言うように二律背反的な苦悩の状態にあるときは人間の無意識から超越機能が働き象徴的に諸問題を解決しようとするものだ。ヘーゲルの哲学はあまり親しんでいないので控えるが、このユングの超越機能や象徴による解決というのは大変興味深いものであり、ニーチェが比喩表現や象徴表現を多用したことも考慮すると、超越機能は若い悩み多きニーチェ読者には多数働くのではないかと思われる。文章や歌詞などで出会った比喩表現やその他シンボル・絵であったり、自分の空想や詩作などから発生した比喩表現や図像などに、突然ハっとして、社会的要請により意識上で優位にならざるを得ない観念群とそれに拮抗的に対立する無意識に抑圧された受け入れがたい情緒群の、妥協として、さらには妥協を超えて新しい視野の拡大に繋がる心理的新発見として、それらの言葉や表現が心に作用し、それによっていつのまにか神経症的苦悩の一部が解決されると同時に、人格の領域や内容が少し拡大する(たとえば以前より多くの事柄に寛容になれる・多くを理解る)ということがあるが、それが象徴作用としての超越機能の一例である。

キリスト教世界の詩人や音楽家には、たとえばマリリン・マンソンやジム・モリソンなどニーチェの影響を受け、明るく楽しく平和な世界と相反する思想や表現の傾向を持ちつつも、素晴らしい詩句や歌でカリスマ的影響力を持った人物がたくさんいるし、シュールレアリズムやダダイズムなど20世紀の美術においてもニーチェの現実を超越したような芸術表現や反現世界性に影響を受ける人がいくらかいた。

とにかく、ニーチェに限らず表現が巧みな革命的な思想家・表現者の読むことにおいては、下手をすると反社会的反人間的な思想に陥ってしまう可能性があると同時に、表現側が広範な事柄群を思考対象に表現していることから読み手が思想的感化を受けた際に実存に関する関心事としてそれらが精神上に現象するので、その革命性・反骨性とそれに相反する既成の社会の枠組みを同時に生きることになるので(その二律背反性を思考や読書や鑑賞などによって解決できる意志と努力がありさえすればだが)、人間世界上の諸々の事柄を内包する者として、人格の内容を拡大することに繋がるのではないだろうか。

もちろん思想や人格の面だけでなく、学説などにおいてもそれは言えるだろうと思う。ドイツ観念論を打ち立てたカントと、その伝統的哲学を破壊しようとしたニーチェを比較する事で、何らかの弁証法的解決によって新しい学説が生まれることはあるだろうし、カントを信望したあとにニーチェに心酔したとしたら、なおさら面白い言葉が生まれるのではないだろうかと思われる。

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