『モルヒネ』という小説を読んでいると、死の恐怖が襲来した…。
国産ミステリー、アメリカ産サスペンスにおいては、殺人事件が頻発して登場人物がバタバタ死ぬ。それはお決まりの形式であり、小説でなくても『名探偵コナン』は少年ジャンプのバトルものよりも死者多数であり、ミステリーやサスペンスを成り立たしめる要素として、欠かせないのが殺人事件である。そういう作品をたくさん読んでいれば、登場人物の死亡というのが文学上の倫理的な意味をもつ事柄ではなく話のプロットでしかないものになり、特に心理的抵抗や不安感などがなく読めるものである。しかし、そういう定型化した殺人による死亡とは違い、『モルヒネ』においては主要人物が癌と宣告されるし、ホスピスが出てくる。
私は子供の頃、ニュースでホスピスが映るのが鬱であった。理由は、タナトフォビア(死恐怖症)であり、とにかく子供の頃から死ぬのが怖かった。死が差し迫ったことはなかったし、ましてや自殺しようと思ったことは一度もなかったが、いつか70年後か100年後か知らないが自分に死があることが、どうしようもない恐怖であり、重いメランコリーに何度も陥った。小学2年生の頃、60x60x24x365x80を計算機で叩くと2,522,880,000と出てきて、25億秒という限られた数字に直面して限定的な時間しか生きられないこと、死が秒ごとに近づいてくることに絶望し、砂時計が頭に浮かび、1秒1秒が消費されることが恐怖であり、泣いたり吐きそうになったりベッドにうずくまったりしていた。眠るとそのまま死んでしまわないかが不安でしかたなく、小学校の時に不眠症にも陥った。
死ぬのが怖いという言葉は、あまり日常世界で発せられないし、また死の恐怖が口にだせないほどの恐怖であったことから、世間一般では絶望を呼び起こすタブーとして死は誰も口に出せないものだと勝手に思い込んでいた。しかし、ある時、兄に死んだらどうなるのかを涙ながらに尋ねたら、「ずっと眠っているようなもの」という返答が返ってきたので、唖然として、一体この人は生きているのかと怪しんだほどである。
後々、死への恐怖心は個人差があるものであると知った。そしてタナトフォビアという病名までついていることも知った。少しづつ、死に関して口に出すことができるようになったとき、母にこの病気は遺伝ではないかと尋ねたら、父もタナトフォビアを持っていたことを知った。父は、旅行で飛行機に乗っているときに、アナウンスで気流のため揺れますと流れてきたのを聞いて、パニックの発作を起こして、(飛行機の操縦をしたことはないのに気が触れたため)「俺が飛行機を操縦する!」といって本気でコックピットに向かったそうだ。当然、仮に操縦したら間違いなく死亡するし乗客数百人を巻き込む惨事になることではあるが、パニックが強烈であったため完全に理性を失ってしまっていたらしい。
タナトフォビアに一般的に遺伝性があるのかどうかは詳しく知らないが、どうにせよ生まれつき宿ってしまったどうしようもない病気みたいなものであり、少なからず誰でも漠然と恐れているものかもしれないが、タナトフォビアを持っていると死の観念で鬱やパニックになったり泣いたり吐いたり震えたりと、とにかく死が怖くてどうしようもない。大江健三郎もタナトフォビアを持っていて、全く死が迫っていなかったのにもかかわらず学校で死を想起しただけで吐いてしまったことがあるとのことだ。
死が怖いので、永遠の命を冗談抜きで求めていた。しかしタナトフォビアを持っている人にはよくあることだが、「永遠」とか「無限秒」を頭に想像するだけで、果てしない時空を直覚してしまい、恐怖に陥る。タナトフォビアを持っている人にとって、死が恐怖させるところのものは、"生きられないことではなく、痛みや苦しみを伴ってなされることであるからでもなく、意識が永遠に消滅すること"であり、その意識が消滅しつづけている状態に終わりがないことに、恐怖するのであるが、そういう意識そのものを直覚する度合が強いことから、無限の秒とかそういう果てしない観念に対して体感として恐怖してしまう体質・精神構造になっているのである。永遠に生きることも怖い。さらには、時間が存在していること自体が怖い。宇宙が存在していること自体が恐怖でどうしようもない。命や意識を自身が持っているということ自体が恐怖であり、毎秒毎秒、得体のしれない恐怖感にさいなまれる。その恐怖感が終わるところの死はその恐怖からの解放かというと全く逆であり、死んで意識を失ったままになることもなにより怖い。とにかく存在していることと存在が消滅することに恐怖を感じて仕方がない。時間や物が存在していること自体が不自然で異常なことに感じられ、だからといって自然な状態であるはずの宇宙が無いこと、ビッグバン以前を想像すると、胸に風穴があいたように果てしない恐怖感に突き落とされる。
年をとっていくにつれてと、時間や空間についての哲学を読むにつれて、この「時間」「永遠」「意識」「存在」「宇宙の無」についての恐怖感は多少は克服できたが、今でもやはり「死」は克服できない。忘れていても、あれが来たって感じで、もうどうしようもない。意識が消えたまま永遠に時間がすぎるのがどうしようもない恐怖であり、1兆年人生があったところで足りない。というかいつか死ぬなら70年も1兆年も同じだ。5000億年地獄の生活をしてもいいので、のこりの5000億年普通に生きれたら、どんな地獄があってもいい。それで終わるのなら意味がないので、永遠のうち交互に半分が地獄でもいいからとにかく永遠に生きたくてどうしようもない。宇宙終焉まで生きたところで解決にはならないので、宇宙も永遠に存続してほしい。
ここから先は笑ってくれていいことであるが、切実に永遠の命が欲しく、私が大金を欲しがっているのも、永遠の命が今後30年のうちに実現するかもしれない…とか思っているからである。無いとは思うが、しかし、医学が発展するにつれて130年くらいは元気に生きてられるようになる可能性は全く皆無とは言い切れない。お金を持っていたら、130年建康に生きられるとしたら…今から100年後には永遠の命を実現する技術があるかもしれない。
実際のところ、諦めていて、タナトフォビアによるメランコリーに陥るほどの不安と恐怖は、なんとか忘れてやりすごしていたのではあるが、3年前に機密に該当することなので詳細は伏せなければならない事象なのだが、人類の物とは思えない科学力をみせつけられた。あれだけのことを成し得る科学技術があるのなら、永遠の命だってここ100年以内にあるかもしれない…たとえば意識をコンピュータに転送して、そこでしばらく生きて、その間に肉体を新しく作って、コンピュータで起動していた意識を肉体に移し入れるなど。限りなく実現の可能性が低いことではあるが、砂場の砂粒一つ程度にも可能性があれば、それに賭けてもいいくらい、死ぬのが怖い。永久に意識を失っていることなど、ありえないほど怖い。
松本零士の漫画『銀河鉄道999』に感動したことがあるのだが、私はどうしても機械の体でも何でもいいので意識を失ったままである状態になることから回避したい。なんならロボットのような体ではなく、パソコンでも空き缶内の脳漬けでも、サイコロでも木でも石でもどんな肉体の形態でもいいので永遠に意識を保ちたい……
ラクガキ (※不気味・Sensitive/Nudity・グロ注意)
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