ニーチェのペルソナと殉教

ニーチェはまさに「高貴」という形容に相応しい人格者であり、実際的にニーチェに接したことのある人の色々な文献から、ニーチェの気高くて誠実で礼儀をわきまえた優しい人柄が伺える。ところが文書の上ではニーチェは人の暗面や毒を辛辣に、胸を抉るほど克明に描き、とくに復讐心などをその血さえ半透明になるほど鮮烈に表現している。

このギャップは一体なんであろうか。23歳で大学教授となったエリートであるニーチェは、実のところは人格者なのではなく病んだ人間なのかと、ニーチェの書物に出会ったばかりの人は感じることもよくあろうと思われる。しかしその実態は、ニーチェが他人を、それも卑近な位置にいる人だけでなく、数百年以上離れた作家や哲学者も含めた他者を、生身を以て体験しているというところにあり、しかもその他人が体験している心理をその当事者よりも切実に認識し、それを自分の言葉で暴き出し文章として記録に残さずにはいられないという、熱烈な批評欲がニーチェにあったのだろう。

青年時代から音楽や文学や哲学に精通していたニーチェは、当然のことながら決して他の人と比べて劣るような人格を持っていたのではなく、他人の暗面を自らその得体のしれない好奇心を以て体験し、文章上で岩をも砕く閃光のように演出してみせたのだろう。そういうニーチェの文章というのは表現形式もパフォーマティヴだが、表現内容も多くがパフォーマンスで成されていて、といっても真剣な態度であるのだが、人間の闇を語るときも、ある病んだ一類型であったり人類普遍の病であったりを自ら体現して演出しているという、その深刻な、あまりに深刻な演劇の地点に、ニーチェの余裕を見ざるを得ない。

決して太宰治のように自身の実存自体が本当に苦悩の限界にあり人格が破綻して悲しみや苦しみを文章の一語一語に仮託しているわけではない。引き合いに出すとすればドストエフスキーが、生活と神経病に苦しむ道化を小説内に登場させたのと同じように、ダイヤモンドさえ傷つけることを辞さないその寸鉄の断章のなかで、疑いや毒などを対象化して扱い、いわば料理し、苦悩を演出的に描いてみせたのだろう。時には血を以て。そうやって求道の山道は高きところからの認識欲により、自ら吐き気極まる人間性の闇を己の強さで以って体験してつくしてきたこと、その病人どもに対する愛で、ニーチェの外面的人格はペルソナとして形成されている。尤も、文章上ではそのようなパフォーマンスとしてのペルソナであったが、実生活では真面目で誠実な人間として礼儀正しいペルソナを形成していたに違いない。

文章上で毒を描くニーチェはある意味では読者より一枚上手な演出者なのであるが、しかし、ニーチェの人間性に対する認識欲はとどまるところを知らなすぎたことから、発狂前のニーチェは人類の普遍的な悪や罪にまで直観や認識がとどいてしまい、そこには余裕や演出性はみられなくなる。なぜなら、集合的無意識の最深点は全人類の死であるからだ……。

『この人を見よ』は決してペルソナによる遊戯なのではなく、あのころの文章や手紙においては、前代未聞の能動性による人類諸々の心理の認識と洞察の果てに見た、普遍的な対立、「キリスト対ディオニュソス」を、自らの心臓に宿してしまった苦悩者として、文章上で吐血し、死へ向かっていること、自らの魂に殉教しようとしているのが感じられる。

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