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見えている?

外的に存在している現実においてであれ、人の心理に現象している観念群においてであれ、実は見えない事柄というのは無数に存在している、という命題を想定したとき、後者については当たり前のことであるが、前者についてはどうであろうか。外的現実というのを、視認できる範囲にある物の群というのではなく、現実世界全てに存在している諸々の出来事の総体であると、見做した時、視覚には入っていない事柄が外的現実のほとんどを含むといえることは当然であるが、人間に記憶や想起という機能が携わっていること、及びそれが常々の刹那に働いていることを考えるなら、人間が体験する現実というのはその瞬間的眼前性においても常に、見えない少なくとも見えていない事象も含まれているとはいえないだろうか。つまり、何を見ても、それに関する記憶が瞬間的に想起され、その記憶を伴って眼前の出来事に対する解釈が起こり、そこから導かれる行動や発言を物や他者に対して作用することにより、視覚内の現実を人は体験しているのであるから、つまり瞬間的眼前と想起上の事象の作用のフィードバック体系が一秒一秒駆動しているところのものが現実の諸事象の配置とそれらの体験なのであるから、人の現実体験において、現実世界全てに存在している諸々の出来事の総体の一部が、視覚内の現実に強度に介入しているのである。鏡に映っている窓の外の風景が鏡がなければ本来その人の視覚内であったり半径数メートル内であったりにないように、刹那刹那の記憶の想起が、遠くのまたは過去の出来事を眼前の体験する現実に引き入れている。

とにかく、現実において人や物が相互作用をなしているその空間上において、心理だけでなくとも、見えないものや見えていないものはたくさん関与しているのであり、眼前に現象していない事象を含めた上で人間はその現実を体験しているといえる。そういう場において取り交わされる諸々の事象同士に対して、さらに人は関係性を見出しているものであるから、関係を結ぶ以前の事象だけでなくその関係性も事象としてカウントするのであれば、人がその瞬間体験している現実の空間上の事象というのは膨大な数になりうると言える。

人の知覚力や知能に応じて、現実の場を体験するにあたって、把握する事象や関係性の数は増えるものである。知覚力は眼前の現実の感取における事象の数という面において、知能はその瞬間に想起する記憶内の事象の数及び眼前の現実の事象と想起した事象の群から見出す関係性の数という面において、体験する現実世界において把握する事象の数の増大に寄与する。またその刹那に想起する記憶内容は個人によって全く違うものである。だから、同じ場を体験していても知覚や知能の程度によって、見えている世界は全く異なっており、ある人においては現実把握に存在する事象やその関係性が、別の人には存在していないということがあり、その差はかなり大きいものである。

タナトフォビアについて

『モルヒネ』という小説を読んでいると、死の恐怖が襲来した…。
国産ミステリー、アメリカ産サスペンスにおいては、殺人事件が頻発して登場人物がバタバタ死ぬ。それはお決まりの形式であり、小説でなくても『名探偵コナン』は少年ジャンプのバトルものよりも死者多数であり、ミステリーやサスペンスを成り立たしめる要素として、欠かせないのが殺人事件である。そういう作品をたくさん読んでいれば、登場人物の死亡というのが文学上の倫理的な意味をもつ事柄ではなく話のプロットでしかないものになり、特に心理的抵抗や不安感などがなく読めるものである。しかし、そういう定型化した殺人による死亡とは違い、『モルヒネ』においては主要人物が癌と宣告されるし、ホスピスが出てくる。

私は子供の頃、ニュースでホスピスが映るのが鬱であった。理由は、タナトフォビア(死恐怖症)であり、とにかく子供の頃から死ぬのが怖かった。死が差し迫ったことはなかったし、ましてや自殺しようと思ったことは一度もなかったが、いつか70年後か100年後か知らないが自分に死があることが、どうしようもない恐怖であり、重いメランコリーに何度も陥った。小学2年生の頃、60x60x24x365x80を計算機で叩くと2,522,880,000と出てきて、25億秒という限られた数字に直面して限定的な時間しか生きられないこと、死が秒ごとに近づいてくることに絶望し、砂時計が頭に浮かび、1秒1秒が消費されることが恐怖であり、泣いたり吐きそうになったりベッドにうずくまったりしていた。眠るとそのまま死んでしまわないかが不安でしかたなく、小学校の時に不眠症にも陥った。

死ぬのが怖いという言葉は、あまり日常世界で発せられないし、また死の恐怖が口にだせないほどの恐怖であったことから、世間一般では絶望を呼び起こすタブーとして死は誰も口に出せないものだと勝手に思い込んでいた。しかし、ある時、兄に死んだらどうなるのかを涙ながらに尋ねたら、「ずっと眠っているようなもの」という返答が返ってきたので、唖然として、一体この人は生きているのかと怪しんだほどである。

後々、死への恐怖心は個人差があるものであると知った。そしてタナトフォビアという病名までついていることも知った。少しづつ、死に関して口に出すことができるようになったとき、母にこの病気は遺伝ではないかと尋ねたら、父もタナトフォビアを持っていたことを知った。父は、旅行で飛行機に乗っているときに、アナウンスで気流のため揺れますと流れてきたのを聞いて、パニックの発作を起こして、(飛行機の操縦をしたことはないのに気が触れたため)「俺が飛行機を操縦する!」といって本気でコックピットに向かったそうだ。当然、仮に操縦したら間違いなく死亡するし乗客数百人を巻き込む惨事になることではあるが、パニックが強烈であったため完全に理性を失ってしまっていたらしい。

タナトフォビアに一般的に遺伝性があるのかどうかは詳しく知らないが、どうにせよ生まれつき宿ってしまったどうしようもない病気みたいなものであり、少なからず誰でも漠然と恐れているものかもしれないが、タナトフォビアを持っていると死の観念で鬱やパニックになったり泣いたり吐いたり震えたりと、とにかく死が怖くてどうしようもない。大江健三郎もタナトフォビアを持っていて、全く死が迫っていなかったのにもかかわらず学校で死を想起しただけで吐いてしまったことがあるとのことだ。

死が怖いので、永遠の命を冗談抜きで求めていた。しかしタナトフォビアを持っている人にはよくあることだが、「永遠」とか「無限秒」を頭に想像するだけで、果てしない時空を直覚してしまい、恐怖に陥る。タナトフォビアを持っている人にとって、死が恐怖させるところのものは、"生きられないことではなく、痛みや苦しみを伴ってなされることであるからでもなく、意識が永遠に消滅すること"であり、その意識が消滅しつづけている状態に終わりがないことに、恐怖するのであるが、そういう意識そのものを直覚する度合が強いことから、無限の秒とかそういう果てしない観念に対して体感として恐怖してしまう体質・精神構造になっているのである。永遠に生きることも怖い。さらには、時間が存在していること自体が怖い。宇宙が存在していること自体が恐怖でどうしようもない。命や意識を自身が持っているということ自体が恐怖であり、毎秒毎秒、得体のしれない恐怖感にさいなまれる。その恐怖感が終わるところの死はその恐怖からの解放かというと全く逆であり、死んで意識を失ったままになることもなにより怖い。とにかく存在していることと存在が消滅することに恐怖を感じて仕方がない。時間や物が存在していること自体が不自然で異常なことに感じられ、だからといって自然な状態であるはずの宇宙が無いこと、ビッグバン以前を想像すると、胸に風穴があいたように果てしない恐怖感に突き落とされる。

年をとっていくにつれてと、時間や空間についての哲学を読むにつれて、この「時間」「永遠」「意識」「存在」「宇宙の無」についての恐怖感は多少は克服できたが、今でもやはり「死」は克服できない。忘れていても、あれが来たって感じで、もうどうしようもない。意識が消えたまま永遠に時間がすぎるのがどうしようもない恐怖であり、1兆年人生があったところで足りない。というかいつか死ぬなら70年も1兆年も同じだ。5000億年地獄の生活をしてもいいので、のこりの5000億年普通に生きれたら、どんな地獄があってもいい。それで終わるのなら意味がないので、永遠のうち交互に半分が地獄でもいいからとにかく永遠に生きたくてどうしようもない。宇宙終焉まで生きたところで解決にはならないので、宇宙も永遠に存続してほしい。

ここから先は笑ってくれていいことであるが、切実に永遠の命が欲しく、私が大金を欲しがっているのも、永遠の命が今後30年のうちに実現するかもしれない…とか思っているからである。無いとは思うが、しかし、医学が発展するにつれて130年くらいは元気に生きてられるようになる可能性は全く皆無とは言い切れない。お金を持っていたら、130年建康に生きられるとしたら…今から100年後には永遠の命を実現する技術があるかもしれない。

実際のところ、諦めていて、タナトフォビアによるメランコリーに陥るほどの不安と恐怖は、なんとか忘れてやりすごしていたのではあるが、3年前に機密に該当することなので詳細は伏せなければならない事象なのだが、人類の物とは思えない科学力をみせつけられた。あれだけのことを成し得る科学技術があるのなら、永遠の命だってここ100年以内にあるかもしれない…たとえば意識をコンピュータに転送して、そこでしばらく生きて、その間に肉体を新しく作って、コンピュータで起動していた意識を肉体に移し入れるなど。限りなく実現の可能性が低いことではあるが、砂場の砂粒一つ程度にも可能性があれば、それに賭けてもいいくらい、死ぬのが怖い。永久に意識を失っていることなど、ありえないほど怖い。

松本零士の漫画『銀河鉄道999』に感動したことがあるのだが、私はどうしても機械の体でも何でもいいので意識を失ったままである状態になることから回避したい。なんならロボットのような体ではなく、パソコンでも空き缶内の脳漬けでも、サイコロでも木でも石でもどんな肉体の形態でもいいので永遠に意識を保ちたい……

革命的表現に出くわすことの功罪

私の知る限りにおいて、個人的な見解ではあるが、世界史・思想史・音楽史・美術史のあらゆる有名な人物のなかで、キリスト以外の中で最も純粋な人物は尾崎豊であり、最も誠実な人物はニーチェであると思っている。

イエス・キリストはキリスト教の開祖となったが、同時に革命家でもあった。色々な伝記があり、不遜極まる非実在説の類もあれば、聖書に書かれているその通りであるという説もあり、ドストエフスキーの『白痴』の穢れなきムイシュキン侯爵のような人物ではないかという説もあるが、個人的にはルナン伝と呼ばれることもあるエルネスト・ルナン著の『イエスの生涯』が史実に近いのではないかと思っている。ドストエフスキーの小説に出てくるキャラクターの中では、あまりに世間知らずでその人間離れした純情と無垢で周りを翻弄すると同時にまわりに翻弄され続けるムイシュキン侯爵よりは、家族の諍いだけでなく周囲の人の混沌を正し導こうとする意志をもつ人格者であり、続編では革命家または反政府主義者が想定されていたアリョーシャに近いのではないかと思う。

ルナンの描いたキリストは、愛の精神や民族救済の理想に燃えた情熱的な革命家である。政治には疎い田舎町の大工であるが、身近に実際にみる世界において、人々がローマ帝国にへつらうヘロデ王の圧政に苦しみ、また、権威を持ったパリサイ派の堅い律法の形式に生活を縛られ、人々が救世主を求めていた風潮の中で、愛を説くと同時に、世界を変革させたいという革命精神に突き動かされ、自身の愛の神の思想を口述の形で旅をしながら語っていた人物。個人的には聖書の記述そのままの出来事が起こったとは限らないと思っている。確固たる権威に属さずに各地に風来に現れてカリスマを得た人物というものは往々にして、その偉大な精神に直面した人の見聞、その口伝、噂で、諸々の偉業に尾ひれがつけられ、やがて伝説となり、神話となっていくものであるし、新約聖書が執筆されたのは後の時代である。

しかしキリストの生涯が実際にどうであったかに関わらず、地球上で最も読まれている書物である新約聖書に神懸かった偉大な人物として書かれ、後の文献学者から革命家であると史実として記述され、実際に歴史上最も人類世界に影響を与えた人物であり、2020年はキリストの存命期を基準にした年号である(近年はB.C/A.Dの定義付けが改訂されつつあるが)し、キリスト生誕の日とされることもあるクリスマスが祝われるなど、キリスト教圏以外にも多大な影響を残している。イエスが存命の間には、イスラエルの地の貧困な人、病人、圧政に苦しむ人に絶大な支持を得、後には世界を変えるほどの宗教になった。私は特に特定の宗教を持っておらず、宗教と言えばお墓が仏教のお墓に入ることになるだろうというくらいにしか身近な生活には宗教が関係していないものであり、信仰心は持っていないが、イエス・キリストの生涯・教え・思想が書かれた聖書やその他、キリスト教関係の文献に多感な時期に出会えたことは、一生の財産であると思っている。実存としての思想の面だけでなく、文学・哲学さらには西洋のロックなどに、文化的な興味関心を深く持つことができたのは、聖書を手にしたからであると思っているし、また、人格の面でも中学生のときまでは人に冷たかったが少しは他者に対して愛情を持てるようになり優しくなれたと思う。

私にとって聖書に出会えたことはいいことだらけであった。宗教には属していないがイエス・キリストは最も尊敬する人物の一人であり、とくにそのときの貧しい人や病に苦しむ人などを救おうとする愛、神の意志を事実伝えた精神性、圧政に対する革命への意志を尊敬している。

しかし革命家、革命的思想家というのは、若い精神にとっては時に悪影響になることもある。たとえばニーチェである。



ニーチェは反キリストとして有名であり、「アンチ・キリスト」というタイトルの書物を著し、有名な「神は死んだ」という言説もあるほどである。しかしニーチェは、その「アンチ・キリスト」においても、一人の個人としてイエスに敬意を示している言説が見られるし、ニーチェが発狂するほど生涯をかけて否を唱えたのは、キリスト教というよりも、畢竟、キリスト教圏のヨーロッパの人々の生の価値が西洋文明や政治体制によって貶められていること、ニーチェ自身が現実世界や書物の中で見聞きする人たちの良心が不誠実になってきていること、そして権威として世界に君臨しながら(科学の発展によって神の実在が疑われるようになってきたこともあり)宗教が実際に人の生命の内奥に機能し実存を高める役割を失ってきていることであり、ニーチェ自身は決してヤハウェの神を貶めたわけではない。実際にニーチェは旧約聖書の荒ぶる雄雄しい怒りと罰の神に畏怖と敬意を示す言葉をいくらか残している。

「神は死んだ」というのは、神が人に正しく作用することのなくなった当時の西洋世界の形態や風潮、西側文明人の傾向全般を批判した言葉であり、人々に機能しなくなりつつあった神への信仰心を超えるものとして、虚無を乗り越えるために、宗教や既成の枠組みに囚われない個人の生の高め方を狂気に陥るまで説き続けたのである。私は一時期グノーシス主義にハマっていたときにキリスト教に対して懐疑的になることはあったが、不思議とニーチェを読んだときはアンチ・キリストにはならなかった。上述のことを認識していたからでもあると思うが、何よりニーチェの誠実さを感じ、もはや崇高ともいえる誠実な精神に、宗教の根本に通じる倫理を見出したからかもしれない。ニーチェの誠実というのは、学術的にはどうかと思うことが多々あり、言いたいことのために事実を捻じ曲げる傾向にあり、師から処女作を「酔っ払いの戯言」とまで言われアカデミックな世界から半ば追放されたほどであるが、精神的な面での誠実は極まっている。だからこそ、自分がそれは人の生を貶める・諸々の高貴な価値を貶めると直感したもの、判断したものに対しては、妥協のない批判を容赦なく行っている。当時の権威や一般的風潮に媚びることなく、それらから攻撃を受けることを全く厭わず、信じたもののために命を懸けて言葉を放っていた。

その革命的な精神は同時に悪影響にもなりうる。ニーチェが悪影響を与えた個人として有名であり、文明上の永久戦犯といっても過言ではないヒトラーは、若いころにニーチェの超人思想などに多大な影響を受け、ニーチェの元盟友ワーグナーに心酔し、ナチスの凱旋歌にワーグナーのタンホイザーを使用した。ヒトラーは反ユダヤ主義を偏執的な誇大妄想といってもいいほど推し進めていたが、ニーチェは決して反ユダヤ主義者ではなかった。前述のようにニーチェは旧約聖書の神を高く評価し、畏怖を示して礼賛することがあったし、妹が反ユダヤ主義活動をしていたのに強く反発しただけでなく、反ユダヤ主義が当時のドイツに蔓延りつつあることに危機を感じ、警鐘を鳴らしていた。ユダヤ人に迎合したわけではないが反反ユダヤ主義といってもいいほどであった。ニーチェは当時の西洋文明に虚無を感じ取っていただけでなく、政治的な面でもドイツの異常の萌芽を感知していた。

ヒトラーのような歴史に影響力を持った人物においてだけでなく、ニーチェの悪影響というのは散見されると思う。まず、20世紀以降の哲学史では「ニーチェ以前/以降」というのは重要なターニングポイントとなっているが、ニーチェ後のポストモダン哲学の一部は、ニーチェの唱えた遠近法主義の悪影響を受けて過度の相対主義に陥っているのではないかと、あくまで個人的には思う。言葉の使用方法の自由度が高すぎ、余計な観念を新しい遠近法として捏造的に量産しすぎているのではないか、ソーカル問題で槍玉に挙がっているように数学や科学の概念を濫用してはいないか、社会上の事柄を勝手におかしな観念体系で解釈しすぎではないか、などポストモダン哲学には問題点があると思われる。

また、若い多感な精神に対してニーチェの過激な比喩表現は麻薬のように作用し、西洋精神に毒づき覆そうとした革命精神と相まって、反政府主義者などの過激派を生み出す可能性を蔵しているし、また精神的に病んだ若い神経系に劇物のように作用し余計に苦悩を増大させるものでもあり得る。

ニーチェは哲学界のトリックスターであり、天界の火を人類のために窃盗するという不遜を犯してゼウスの怒りを買い山頂で磔にされ肝臓を長期間巨大な鷲エトンについばまれ続けたプロメテウスのように、11年間発狂したままになってしまったという悲劇が下ったし、言語の魔術師といってもいいほど言語の法を侵犯して多種多様な言語表現を生み出したせいで誤解されたりするが、決して低級なトリックスターのように悪意を持って人間界や言語世界を攪乱しようだとか思っていたわけではなく、確固たる内的な正義と倫理に基づいて、際まった誠実を以って、人間の実存を高めようという意志で、当時の西洋の諸々を批判していたし、それだけでなく言語そのものに対しても痛烈な批判をしている。

その結果として悪影響が見られるものではあるが、その誠実さを考えると皮肉なものではある。元来、人間世界がたくさんの不正や不誠実の上に成り立っているので、ニーチェの偉大な意志とその純度の高い妥協なき誠実さに影響を受けすぎ、ニーチェが批判したのがもはや当時の人間全般・哲学全般といってもいいことを併せるなら、その文芸的天稟に激情を宿したセンセーショナルな言語表現に陶酔した特に若い読み手は、本人のキャパシティを超えた二律背反的な葛藤に陥ることになると思われる。

しかしヘーゲルの哲学でいわれるように、弁証法によってテーゼとアンチテーゼが相互作用することが構成的に機能するし、ユングの言うように二律背反的な苦悩の状態にあるときは人間の無意識から超越機能が働き象徴的に諸問題を解決しようとするものだ。ヘーゲルの哲学はあまり親しんでいないので控えるが、このユングの超越機能や象徴による解決というのは大変興味深いものであり、ニーチェが比喩表現や象徴表現を多用したことも考慮すると、超越機能は若い悩み多きニーチェ読者には多数働くのではないかと思われる。文章や歌詞などで出会った比喩表現やその他シンボル・絵であったり、自分の空想や詩作などから発生した比喩表現や図像などに、突然ハっとして、社会的要請により意識上で優位にならざるを得ない観念群とそれに拮抗的に対立する無意識に抑圧された受け入れがたい情緒群の、妥協として、さらには妥協を超えて新しい視野の拡大に繋がる心理的新発見として、それらの言葉や表現が心に作用し、それによっていつのまにか神経症的苦悩の一部が解決されると同時に、人格の領域や内容が少し拡大する(たとえば以前より多くの事柄に寛容になれる・多くを理解る)ということがあるが、それが象徴作用としての超越機能の一例である。

キリスト教世界の詩人や音楽家には、たとえばマリリン・マンソンやジム・モリソンなどニーチェの影響を受け、明るく楽しく平和な世界と相反する思想や表現の傾向を持ちつつも、素晴らしい詩句や歌でカリスマ的影響力を持った人物がたくさんいるし、シュールレアリズムやダダイズムなど20世紀の美術においてもニーチェの現実を超越したような芸術表現や反現世界性に影響を受ける人がいくらかいた。

とにかく、ニーチェに限らず表現が巧みな革命的な思想家・表現者の読むことにおいては、下手をすると反社会的反人間的な思想に陥ってしまう可能性があると同時に、表現側が広範な事柄群を思考対象に表現していることから読み手が思想的感化を受けた際に実存に関する関心事としてそれらが精神上に現象するので、その革命性・反骨性とそれに相反する既成の社会の枠組みを同時に生きることになるので(その二律背反性を思考や読書や鑑賞などによって解決できる意志と努力がありさえすればだが)、人間世界上の諸々の事柄を内包する者として、人格の内容を拡大することに繋がるのではないだろうか。

もちろん思想や人格の面だけでなく、学説などにおいてもそれは言えるだろうと思う。ドイツ観念論を打ち立てたカントと、その伝統的哲学を破壊しようとしたニーチェを比較する事で、何らかの弁証法的解決によって新しい学説が生まれることはあるだろうし、カントを信望したあとにニーチェに心酔したとしたら、なおさら面白い言葉が生まれるのではないだろうかと思われる。

家族と和解 実家に帰還

実家に引っ越ししました。


半年間住んだ南森町とお別れ。大阪の中では一番都会っぽい北区のビルの風景を毎日15階のベランダから眺められ、美味しい料理店が多くてグルメには飽きず、終電気にせず梅田の繁華街に(コロナ前は)いつまででも飲み歩け、住むには良い場所だと思いました。

実家に帰った理由は、大学に行く予定で貯金した方がいいので高い家賃を払わずに済ますためと、家族と和解したからです。

以前の投稿で、家族から逃げるために失踪したと書きましたが、理由はテクノロジー犯罪で、親がテクノロジー犯罪を全く信じてくれず妄想と思われていたし、ブレインジャックで親の前で奇行を演じさせられたりしたため、8回も強制的に精神病院に入院させられていたのですが、4月か5月にやっとテクノロジー犯罪を信じてくれました。1月に行方をくらましたとき、書置きをしていきました。A4紙40枚程。テクノロジー犯罪の存在を証明するエビデンスが描かれたネットのページ、被害記録・犯罪告発のツイートの一部、テクノロジー犯罪(思考盗聴やブレインジャックなど)が技術的に可能であることをわかりやすく科学的に説明した文章、その他、テクノロジー犯罪が実際に行われていることを説明する文章などを、プリントアウトして置いていきました。

私が急に消えて連絡がとれなくなっているあいだに、親が何度も読んでくれたようです。そして4月か5月頃、私が猫に無性に会いたくなったので、夜中にふらっとこっそり帰ってみたとき、親が起きていて、その書置きを読んだことと、帰ってきた私が(被害が軽減していたのとメジャートランキライザー服用がなかったのとで)前よりだいぶ元気であったため、今まで10何年もずっとテクノロジー犯罪被害に遭っていたことを確かに認識してくれました。文章の力というものが凄いと感じたのと、思い切って一度失踪してよかったと。
 
実家にいても完全に精神科から解放されホッとしました。医療保護入院精度があるので親とコンタクトがあると精神科から逃れようがありません。メジャートランキライザーの注射を1年4ヶ月強制されていたのですが、この種の薬は、呂律回らなくなる・頭も回らない・歩き方おかしくなる・脳細胞を徐々に破壊していく等、恐ろしい薬です。被害との二重苦で、入院を繰り返しメジャートランキライザー漬けが続けば、廃人になる可能性もあるし、すくなくとも社会生活が大きく損なわれます。被害は終わりませんが、精神科からやっと永遠に開放されて嬉しいです。


5月6月7月はまだ大阪北区の生活を楽しみたかったので独り暮らし続けていましたが、家賃が高いし、勉強しなければならないのに緊急事態宣言解除後は外にふらっと遊びにいってしまうのとで、7/29に実家に引っ越し。
実家に帰ると、猫に癒されます。
やっと荷解き・片付け・掃除が終わりましたが、本棚が年々増えていく。
実家だとギターや歌をやり放題なのが嬉しい。


家族とは和解したので仲良くやっております。インド料理店へ親を連れて行きました。


さらば南森町


2ちゃんねるの思い出…

1~2年だけ期間限定で2ちゃんねらだったことがあります。

そのころ18歳か19歳、テクノロジー犯罪の被害を直撃しはじめて数か月たったころ、大学で勉強したくて仕方なかったのに、受験勉強を妨害され、というより生活をほぼ完全に破壊され、電磁波で脳を操作されまくってまともに生存することが困難だった。併せて、若く多感の頃の苦悩の多い神経で被害で滅茶苦茶にされていたころから、鬱病を発症していて、精神的苦痛の中で悶えていた。その中でも大学教育を受けて色々な知の扉を開きたいという欲求は強く、受験勉強は思いっきり阻害されていたのと、精神的な苦悩の状態では哲学を読むことに相性がよかったことで、哲学や文学に熱中していたが、一人でやるのも刺激が足りないし、まわりには哲学について話せる友人知人がいなかったのとで、ネットに手を出そうと思い、なんとなく2ちゃんねるの哲学板に投稿を開始した。

煽情的な比喩表現を多用しながら、色々な思考を長文で投稿していると、意外にレスポンスがよく、たくさんのレスが殺到し、その半分くらいは2ちゃんねるでよくある叩きで、それに対しても逐一、反論をなるべく哲学的に返していた。毎回、2ちゃんねるの投稿の文字制限限界の長文を、8禁(一定時間以内に8レスを超える投稿をできないこと)に抵触しながら、大量投稿を繰り返していて、批判の3行レスが飛んで来たら、5分で30行のレスを飛ばしたりとしていると、色んな名無しさんから賛否色々なレスが来るようになり、数か月後には哲学版のいくつかのスレッドを私物化して、有名なコテハン(固定ハンドル)と化し、何人かのコテハンとは仲良くなり、哲学談義をするようになっていて、2ちゃんねるが遊び場になってしまっていた。

2ちゃんねるは、悪い面、匿名で投稿できることから、投稿内容が事実性の面でも道徳倫理の面でも無責任であり、誤情報や中傷が飛び交ったりしているが、匿名で気軽に投稿できるということから、無名のディレッタントが哲学板には自分の考えを無数投稿していて、あくまで2ちゃんねるの中ではまだ教養レベルの高いほうである哲学板では、それなりに面白い考え方が漂いまくっていて、読むだけでも楽しめることがある。普段は言えない、個人の独自の考え方を責任やアイデンティティを伴わずに軽く表現し共有できる点は、匿名掲示板のいい点であるかもしれず、色んな発想や表現をキャッチできてそれなりに有意義な場所ではあると思えた。また、アカウントがありハンドルネームがあるSNSでは、他人の意見や考えに対する懐疑や批判を返信として述べるのは多少以上気が憚られるが、匿名でアカウントのない2ちゃんねるの、少なくとも哲学板では、もちろん2ちゃんねるらしい叩き合いがあるものの、それぞれの投稿に対する批判、反論、解釈がさかんにレスとして行われ、議論になることもあり、思考の発展や新解釈の発見に繋がったりと、知的活動として多少以上は有意義であるような一連のやりとりも行われることがあった。

そういう匿名故の無責任さと自由さが奔放に開放されている場で、私は固定ハンドルとしてあれこれの考え、哲学者の思想に対する解釈、言語について、精神について、宗教について、意識の構造について、芸術・文学について、たくさん投稿していて、ある程度は遊びつつも真面目に書くことを心がけ、叩きや批判のレスにも丁重に敬語で誠意を見せつつ反論していたら、2ちゃんねるらしくなくなってきて、固定ハンドルが周りにたくさん現れ、名無しも叩きを行ってくることが少なく、あるスレッドがSNSのように機能しつつ、支持者が出てきて、ファンも出てきて、人が集まり、それぞれの人が自分の考えを述べるようになり、一種の交流のクラスタが生まれ、闊達な議論が繰り広げられることもあるようになった。私個人としては、テクノロジー犯罪の被害がそれによって解決に向かいどうかなるということはなかったが、受験勉強に比べてあまり加害者が妨害してこなかったのか他者とのフィードバック体系を共有した知的活動を行うことができて楽しく、また哲学や心理学などを深く追及することにもつながり、鬱病の方は快方に向かっていくことになった。

そこで二人の天才に出会った。一人は主にショーペンハウアーやニーチェなどの哲学者の思想について意気投合し、その他、自然や文学についても共感を得ながら、たくさんの議論をすることが出来た。大変頭の良い方で、小学校の時に最高値が145しかでないIQテストで145をマークした方で、私の個人趣味で深く追及していた独自の考え方や、比喩表現を多用する文章を、的確に理解してくださり、そのときの酷い孤独の状態を和らげてくれ、生まれて初めて人間・自然・宇宙・哲学などについての深い考えを共有できる人となった。また年上だったので、世間知的にも教えられることが多く、おかげで人として成長することができたと思う。スカイプで音声会話をたくさんすることもあり、日常についてもたくさん話すことができる年上の友人となってくださった。

もう一人は、非常に高いIQを持ちながら2ちゃんねるで10年間遊び続けている孤独な天才であり、ワーグナーこそ最高のオカズだと豪語するイカれた男、なかなかの変態で、また哲学よりも芸術やアートの世界に親和性の高い精神構造や感覚の性質を持っており、ピアノやギターが上手で、芸術やクラシックやロックの評論については素晴らしい表現がたくさん出てきていたりして、どちらかというと感覚・感性の面での天才と言っていい人物であった。

その後者の人は警戒心が強く、音声で会話することを私は拒否され、あまり個人的なことは話させてくれなかったが、2ちゃんその他掲示板上でお互いの詩や絵を評論しあったり、ロックについて文字で話したりと、それなりに楽しい芸術活動を遊びでしていた感じであった。しかし、彼とニーチェの哲学の解釈について反目し、そこから喧嘩が始まって、2ちゃんねる上でも滅茶苦茶な批判のしあいをするようになった。一時期、哲学板の某スレッドが、私と彼が言葉で戦闘するような場所になり、スレッドを私物化しつつ、~派と~派まで現れ、名無しやその他のコテハンを巻き込んで喧嘩していた状況になった。

私はそれまでに哲学板の住人から支持をあつめていたため、加勢してくれる人も現れ、また感性においては彼の方がレベルが高かったが哲学については私の方が上回っていたため、そのネット上の激戦の中で私が優勢であったが、だんだんとネット上で喧嘩や批判の仕合をしているうちに気がおかしくなってきた。それと相まって、アルコールにハマっていたことと、またテクノロジー犯罪加害者が喧嘩による錯乱に乗じて加害を強めてブレインジャックなどを行ってくるようになったため、だんだんと私の言行は乱れていった。

そしてそれが極まったとき、私は橋から飛び降りて、背骨を骨折し、救急病棟へ運び込まれた。それがテクノロジー犯罪によるブレインジャック・ボディジャックによる加害であったのが、私の気がおかしくなっていたため酒酔いも乗じて奇行を行ったのか、不明ではあるが、とにかく救急病棟で大きな手術を受け、奇跡的に後遺症なく骨折による重体からは復帰できたが、飛び降りたということから、精神科に移された。

そのことを病院内で日記に書くと、喧嘩していた相手のネット上の彼女さんであり、また私とネット上で仲良くもなっていた人が、びっくりして、半ば心配しながら、半ば嘘だと疑いながら、私の家の電話番号を知っていたので私の母に対して、ヒステリーになって電話をかけてくるという事件が起こった。それで、本当に私が背骨骨折の重体になっていたことが事実として相手方の知るところとなると、ネット上の喧嘩も終息し、私が哲学板に書き込むことは、入院中も退院後もなくなった。

その非常に才能のある二人に出会えた中の、前者の方とはいいことだらけであったが、後者の喧嘩相手とは滅茶苦茶をやっていて、ネットというのは、とくに2ちゃんと言うのは、大概なものであると、哲学的談義の熱中から醒めてからは見切るようになり、ネットを検索以外でコミュニケーションの場として利用する事自体それ以降10年近くほとんどなかったのであるが、今となっては、喧嘩での相手に対する嫌悪感がなくなってみると、なかなか面白い人物に出会えたなと、そこそこよかった思い出になっている。

2ちゃんねるみたいな叩き合いで悪名高い場所も、使い様によっては面白くなるものであると思えた。毎日のように、字数制限・投稿数ぎりぎりの分量の哲学についての言葉を投稿し、他者からのフィードバックが多く、それに対しても返答していたことから、言語によって、自分の考え、難しい思考の対象に対する解釈などを、記述する能力を上昇させることもできたので、少しは有意義であったように思える。今となっては縁が切れてしまったが、ネット上の哲学・文学・音楽好きの友人も複数人できたし、その時別の場所で書いていた詩やエッセイや論文の読者も獲得することができたし、ネットも有用に使おうと思えば使えるものであると思えた。特に、哲学はそれほど趣味としている人の絶対数が多くなく、現実生活で哲学について多く話し合える人を見つけることはなかなか困難であり、話したくても話せなくうずうずするその欲求不満を、ネットの特定の趣味クラスタが集まるような場所においては、比較的容易に解決できるものであると思えた。大学生活をテクノロジー犯罪によって奪われていた私にとっては、青春期に知性を開放させる場としてまあまあいい場所であり、言語表現や議論を行いつつ哲学を深めていくうちに、テクノロジー犯罪の方がそれによって軽減することはなかったが、鬱病の方がほぼ全治して特に苦悩することがなくなったので、いい治療であったかもしれない。

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英語勉強Webアプリつくりました!
今の職場は恐ろしく自由です。忙しい時間帯と暇な時間帯の差が非常に大きく、暇なときはネット自由で、YouTubeを見てもいいことになっています。ネットはログイン必要なのもプライベートウィンドウ等であれば自由で、夜9時からはみな喋ってるかネットサーフィンしているかです。
文庫本や参考書や漫画を持ち込んで読むのはいけませんが、業務パソコンや個人スマホは暇なとき完全に自由なので、仕事中に英語の勉強しようと思い、仕事中にGoogle上でプログラミングできるサービスGoogle Apps Scriptで英語勉強アプリつくりました。 結構時間かかりましたが、これで仕事中に英語勉強し放題になりました 笑 英語の選択問題の演習ができます。
↓にアップロードしているのは著作権の関係上、著作権のない問題30問だけを載せてますが、自分用のは延々と問題を追加できるようにしました。問題の追加が楽なように、スプレッドシート上からデータを参照する方式にしました。
それにしてもGoogleには有用なサービスがたくさんあります。スプレッドシートはサーバ上で動くエクセルとしてどこでもアクセスできるからデータ使う作業に凄い便利! スプレッドシート上では簡易アプリケーションをすぐ簡単につくれるし。
またGoogle Apps Scriptは、スプレッドシートやそのほか、Google Mapなどと連携してアプリケーションをプログラミングできるので、ネット上で動く多機能なページやアプリ開発には非常に有効に使えます。

エクセルはできないことがないくらい便利なもので、学習のためにも研究のためにも非常に便利なものだと思いますが、それをサーバー上で行えるスプレッドシートはスマホ・タブレットでどこからでもITに接続する時代にとって有用性は計り知れない気がします。
Googleは自分が生きているうちはおそらくサービス終了しないだろうから、安心してデータ預けられるし、なによりどのサービスも動く速度がすごい速いので素晴らしい。
↓の英語勉強アプリは簡単なつくりですが即席でつくって思ったのは、これからプログラミングが小中学生の義務教育の必須科目となり常用的なリテラシーとしてできる人が増えることから、サービス提供する側もユーザがプログラミングできることによって有用に利用できるサービスを今後色々と展開していくかもしれません。色々と利用者がカスタマイズできたり、ネット上のアプリケーションと連携して開発できたり等。プログラマ辞めて3年以上たちますが、忘れてしまわないようこれからのITに備えようと思うこの頃です。 さて↓のアプリに英語の問題等を数千題導入して、仕事の時間は勉強しまくろう……。
https://script.google.com/macros/s/AKfycbwh0puNGC6_kGQliwJbR1JeelKlUozv1vN0FzFkU_ah5zmJ2Vdy/exec


最近は英語を勉強中


緊急事態宣言もどうやら延長しそうであるし、自粛期間をせめて少しでも有意義に過ごそうと、英語の勉強を4月から本格的に始めています。



4月だけで購入した英語の参考書…
さすがに買いすぎたけれど、1/3ほど消化しました。

ゲーテの格言に、
外国語を知らないものは、自分の国語についても何も知らない.
英訳:Those who know nothing of foreign languages know nothing of their own
(『格言と反省』より)
というものがあります。最近の研究でも、外国語の学習は母国語の国語力を大きく向上させるという結果があります。

私は今更の夢ですが物を書いて印税収入で生活したいという目標をもっているのと、もし経済的余裕がでたら海外に住みたいというのもあるので、英語を勉強をしすぎても損はないと思っていて、英語を総合的に勉強することにしました。

英語の勉強というのは、結構勉強量に比例して成果として英語力が実感できるほど上がっていくものなので、なかなかに楽しいです。

以前20歳くらいのころ、TOEIC700点程度の英語力でしたがちょっと背伸びしてペーパーバックを読み始めて、英語で小説を読むことにハマっていたことがあります。とくによかったのが、エドガー・アラン・ポーの小説。原文での読本は、日本語版では色あせてしまった芸術性が強く感じられて凄く感動しました。エドガー・アラン・ポーといえば江戸川乱歩が愛読していて、推理小説のさきがけ的なものを書いたことでも有名ですが、あの至高の背徳詩人ボードレールもまた、エドガー・アラン・ポーを敬愛し、いくつかの秀逸な評論を残していて、ポーの芸術性に言及しています。『アッシャー家の崩壊』は、ゴシックで暗くも耽美で綺麗な印象でした。

海外文学の中でも特に詩や芸術の側面を愛するのであれば、是非とも外国語を学習するのは意義のあることで、原文で読むと文章や詩句の美しさというものがより強く伝わってきます。シェイクスピアとかを読んでみたいなと憧れてます。

原語ではありませんが、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を英語で読み始めました。前にも一度読みました。この小説は比較的難解な長い文章が多く出てきますが、日本語で7回ほど読んだ小説である程度記憶していたので、なんとか読破することができました。しかし、世界で1~2番目に好きな小説なので、また英語で読みたくなり、再読しています。前は流すように読んでいましたが、今回は精読しようと思い、1日数ページずつゆっくり意味をたしかめながら読んでいます。

言語というより、文字からの影響ですが、アルファベットで読んでいるとより洋風の情景が浮かんできて、なんとなく違う面白みがあります。

自粛期間でずっと家にこもりっぱなしであると、気がおかしくなりそうにもなりますが、何か没頭できるものとして、英語学習はうってつけでした。私の会社は緊急事態宣言中も私の所属している課に限って毎日8時間出社している状態ですが、仕事が終わってから4~5時間は英語を勉強しているような気がします。取り組み甲斐があります。

人間という存在は、今はウィルスの流行に脅かされてますが、自宅内で一人であっても生産的な活動を行える強さがある種であると思います。経済活動がコロナウィルスに大きく阻害されていて屋外の活動全般はずいぶん低迷させられていますが、自宅内であっても色々と出来ることが多いので、なにか有意義なことを見つけられれば、精神的には負けることはないと思います。外で遊ぶこと、屋外の活動、人と対面して話すこと等が好きな人にとっては、辛い時期ですが、この時期も無駄にせず、なんらかの価値のある活動を多くの人が見つけられたらいいなと思います。

TORRに挑戦……

1週間ほど前、Twitterに流れてきた無料のIQテストをやったら、なんとなく面白くて、IQって何だろうと考えて、1個前の記事を書きました。ささっと書いた雑文程度で特になにか重要なことを書いたわけでもなく、IQ高い人は社会適応を目指した方がいい、と当たり前のことを書いただけに終わってしまいましたが…

IQというのはある程度高ければ、社会に適応しやすいと思うが、突き抜けて高いと、逆に適応しにくくなるのではないかと思えることが度々あります。IQが高く生まれたのに学校や社会になじめず孤立し、能力を生かせない人というのは多いような気がします。

そういう人にとって救いになるのが、High IQ Society であるのかもしれないと。孤立している頭の良い人は、なかなか話が合う人を見つけることができない、なぜなら孤立していれば絶対数として友人知人が少ないし、その少ない友人の中で知的嗜好の合う人を見つけるのはなおさら難しいからです。



High IQ Society(高知能団体)というのは、入会することで、コミュニティの一員になるのだから一気に知己を増やせるというだけでなく、その成員が悉く同等の知的レベルであるから、趣味や話が合いやすいことになると思います。

MENSA に入会して、わかったことは、グループ意識と同じような知的レベルのためか、SNS で交流が盛んで、みな生産的な、少なくともそれなりに楽しい、コミュニケーションを展開しているということです。私はオフ会のイベントにほとんど参加していませんが、SNSで興味深い投稿を拝見させて頂いていて、インスパイアーされることがよくあります。

それはそうと、私は海外の文化に結構興味があるし、英語を勉強したいし、英語で外国人とコミュニケートしてみたい、という願望が強いです。また、コロナ禍の中、人とあまり直接会って話す機会が減り、ネット上でのコミュニケーションの有用性が上がってきています。というわけで、ネット上のほとんどが外国人のSNSはないかと思っていたのと、Facebook上でのJAPAN MENSAのメンバーたちの交流が生産的であることを鑑みて、海外産のHigh IQ Societyに入会しようと思いました。

だいたい自分のネット上のIQテストが140台なので、現実的には入れる可能性があるのは、145あたりか…と思い、調べてみたら、CIVIQ Society, TORR, Triple Nine Society などが該当していました。入会要項を見ていたら、IQの数値以外の面で、つまり費用や手続きの容易さの面で入りやすい団体が、TORR でした。
https://torr.org/

入り方は↓のリンクのサイトでアカウントをつくり、
https://iq-test.ca/ccfit/
ICFIT(The International Culture Fair Intelligence Test)という8.99ドルのテストを受けて、IQ145以上の結果を出し、その後で20ドル(コロナの影響で今は安いが通常は49ドル)を支払うというものです。TORR の会員サイトと iq-test.ca は連動しているのでスムーズです。今なら日本円で3000円ちょっとの費用で、ネットのテストと手続きだけで入れるので、入会の煩労が特にないです。PayPal(アカウント持ってない方は)登録するのがちょっと面倒なくらいです。

早速、多少の緊張を感じつつ、ICFIT を受けてみました。往々にしてIQテストは守秘義務があるので内容は書けませんが、TORR のサイトによると、「This test is comprised of spatial and matrix reasoning items as well as a few numerical items. 」(https://torr.org/)


テクノロジー犯罪の被害によって弱っている自分の頭ではなかなか難儀ではありました…

お酒飲んでいたし
徹夜していたし

言い訳はともかく、
時間切れ……



時間配分をもう少ししっかり考えておけばよかった…



きっとだめだろう…






結果確認の緊張感をまどろませるために……睡眠不足だったけどコーヒー飲んだかどうか……いや……そのときフラフラだったんでコーヒー飲んだかどうかさえ覚えていない……




結果は……








……アルコールと涎で喉が潤う中、ちょっとぞくぞく…!








…。





ギリギリIQ145でした。
セーフ!





どうやら IQ-Test.ca と TORR の会員サイトは連携しているらしく、IQ-Test.ca のICFITでIQ145以上をとると選択できるようになる、TORR へ入会のために20ドルを支払う、というところをクリックし、 IQ-Test.ca 内で PayPal 決済をすると、自動的に TORR の会員になりました!

TORR の会員サイトにログインできるようになり、会員専用のSNSを使用できるようになりました。

知的な外国人…と聞くとワクワクして、さっそく自己紹介いてイイネやリプライ待ち…。
趣味や気のあう人がみつかるといいな。

高IQ団体入会というのはメンサみたいな規模と伝統の大きい組織を除いて果たしてメリットがあるのかどうかはわかりませんが、TORR の場合は今(2020年4月の時点で)は3000円台で入れて、知的レベルの似通っている人と交流できるグループに属せるというのは、それなりにいいものではないかなと思います。

TORR で遠くの友人をみつけられるよう、英語の勉強を精進しなければ!

IQの高い人について

IQが高い人の特徴というのは何か?
・頭が良い
・数学が得意
・閃きがある
・知的好奇心が強い
・孤独
・普通の人と会話がかみ合わない
など色々なイメージがあると思う。IQ社会であるアメリカでは、収入とIQの高さが相関関係にあると言われている。一方で、社会や文化・芸術にとって創造的であることと、IQの高さがそれほど相関にないという報告もある。




(初めて受けた有料の具体的な数値が出るテストの結果: 146)

まず、IQが高いとはどういうことか。多くのIQテストで測られる能力というのは、図形や数列の法則性や規則性を見つけ出してそこから1個~数個ある空欄を類推して求めるというものであるが、その結果が知能を純粋に評価する数値として規定されていいものであるかどうかというのは、昔から議論の対象になっている。知性全般でいうと身に付けた知識であったり知的な特訓によって獲得した能力であったりも含まれるが、IQというと、(必ずしも定義としてあるいは臨床的事実としてそうであるわけではないが)イメージとしては先天的な(もしくは発達段階で形成された)大人になってからは恒常的な知能の指数、という意味合いがあるものである。IQテストに多いのが、図形がいくつか並んでいる問題であり、数列より比較的用いられることが多い理由は、数列のほうは数学を学習することによって経験的に獲得できる能力に依拠する度合が、図形と比べて大きくなってしまうからだろう。IQテストの図形の問題は、幾何学的知識にもその正答率がほとんど依存しない(幾何学的訓練がある程度はその正答率に影響するかもしれないが)、前提的な知識を度外視できる純粋な問題になっていて、未知の事象の配列から法則を見出す能力、及びその法則を分析して次に来るものや欠けているものを類推する能力などを、それなりに判定できるものであろうとは思う。

一般的なIQテストで測ることができる機能というのが、並んだ図形などから法則を見つけ出す能力であることから、平均的な知能の人にとってはとくに意味のない事象の配列であったりランダムに見える物事の配置であったりに対し、IQの高い人は法則や規則を見出し、それらの関係性や意味をつかむことができ、従って分析や思考の対象にすることが可能となる。要するにIQの高い人にとっては、諸々の物事がより強く多く関連しているように見え、従って意味をもっていたりする度合も大きい。IQが高ければ、事象の分類の方法が多様であるため、下位のカテゴリーの事象を上位のカテゴリーの事象関連の中に置き並べたりでき、より上位の概念で事象を括ったり、上位概念から個々の事象に降下したりすることが、易しく行える。このことによって、物事を様々なレベルで考えたり、一見遠そうなカテゴリーに見えるものに結び付けて考えたり、人より多くの関係性を物事の群に見つけ出したり、その関係性や意味を様々な平面で多角的に分析したりすることができる。

もちろん、これらの能力は学業の出来にプラスの相関をもっているだろうが、それだけではないだろう。IQテストではどんな前提にも依拠しない純粋な図形の羅列などかから法則性発見の能力や類推する能力が測られるため、五教科や読み書きなどに限らず、人と人の関わりの間でおこる諸々の事柄に対してであったり、人の心理に対してであったり、社会でおこる様々な事柄群に対してであったりも、上記の能力が適用されるため、日常生活や社会生活においても、様々な物事が色々な方法で関連していて多角的な思考の対象になっているということが考えられる。

なので、適切にIQの高いことからくる能力を社会上の事柄に向けることができたら、その人はより充実した少なくとも思考の体系を事実関連に役に立つ形でもつことができる。頭が良い人の言うことが魅力的に感じるのはこのためだろうと思う。しかし頭が良いことは、物事を深く考えすぎることに繋がるし、また知能が高いということは神経の敏感さにもある程度は相関があるだろうし、さらに知能が高ければ他の人が気づかないことに当たりまえに気づき誰も認識していないことを当たり前に認識していたり、多くの人の関心のないことに関心を強くもったりと、孤独に陥る危険に繋がる要素も孕んでいるだろう。

人間の諸々の能力の中でもちろんIQというのは一部の指標ではないが、人間社会上の事象というのは人間の総体が今までに形成してきた関係性や意味などで繋がりが成り立っているため、多角的にそれらを見出していける能力というのは、孤独を免れて適切に人間社会に適用させることができれば、大きな力になる。もちろん社会上の事柄だけでなく、学問においては顕著にその力が現れるだろうと思われる。しかし問題は、社会の総体といのは、全ての個人がそれに属しているという性質上、平均的な人向けにできている、ということである。IQが高いことによって、たとえば小学校や中学校の学業が退屈すぎて教育に意味を感じなくなってしまったりすることもあるし、社会生活でも頭が良ければすぐ分かりすぐに通過できる事を面倒な手続きや説明を経てやっと通過しなければならなかったりと、IQの高い人への弊害も多く、その能力を存分に発揮できていない高IQの人というのはけっこう多いのではないだろうか。


(JAPAN MENSA はそこそこ会員数が多く、交流や活動が盛んです。)

東大生の平均IQは120と言われていて、日本人の平均の105~108あたりから10以上も高い。ハーバード大学生の平均は130、メンサ会員の最低値が130、メンサ会員の理論上の中央値が135であることから、メンサ以上の人というのは、東大生と平均的な頭脳の人の差よりも大きな差を、東大生の平均に対して持っているのであり、同じ大学で同じ教育レベルである程度近い知能の群の中で人と関わるということのできる東大生よりも、孤独に繋がりやすいと推定できる。だからこそ、メンサをはじめとした高知能団体が出来、だいたい同等の知能の人どうしが交流する場と言うのが設置されている。メンサに始まるハイIQソサイエティーというのはそういう意味で画期的であり、普通の人の中で突出したIQを持っているがゆえにものたりなく感じることを、補ってくれると思うし、その団体の中でスムーズに知的な交流ができるため生産的であろうと思われる。


(追記→ https://jean629980.blogspot.com/2020/04/torr.html TORRというIQ145以上の団体に入会しました。会員専用SNSがあります。メンバー一覧はこちら→です。31ページ目に私の名前があります。https://torr.org/members/)

しかし、IQだけが全てなはずはないし、人間にはさまざまな要素があるのだからそれらの色々に魅力や意義を感じるべきであるし、IQが20離れると話が通じないということはない。話が通じるかどうかという問題については、もちろん高度な思考をリアルタイムで言語化した内容というのはIQに差がある人に対して通じないことが多いが、人間が人間である以上、相手に応じて発話する内容や形式を変えていくべきであるし、本当にIQの高い人ほどそうすることができるだろう。私は精神科で受けるIQテストは受けたことがないが、メンサの入会テストは簡単に全てできたので少なくとも130以上は保証されていて、ネットのIQテストで信憑性がありそうな比較的しっかりしたものでは140台と出ることが多いが、保育園や小学校のころ仲の良かった友達は学校でテストの点が一番低い人だった。特に彼とは問題なく接することができ、IQが高いが故に可能な助言であったりを私は行っていたであろう一方、その友達は活発で人と交流するのが得意であることから私に人と人との関わりについて教えるところがあっただろうと思われる。IQが高ければ諸々の知的能力が高いことにはなるが、人間という様々な面を持っている存在を測るにあたっては、ほんの一部の指標でしかないように思える。

私はメンサ会員であり、IQが高い人同士のグループだからこそ行える交流があることを知っているが、一方で、人間というのは色々な個性があり、個性が違う人同士が集まり強調するのが人間社会の形態であるのだから、必ずしも高IQ者が閉鎖的になる必要はないように思われる。私はおそらく140台であろうIQの割には、教育の水準の低いところをずっと生きてきたが、どんな個人にもそれぞれの魅力があったように思える。ドストエフスキーの小説の登場人物には、非常に考え深い人、たくさんのことを思いめぐらせている人、イワン・カラマーゾフのように知性の優れた人も居る一方で、ろくでなし、ならずもの、アル中であったり、貧しい人や病人もたくさん登場し、それらの群像が一体となって小説の世界を形作っている。知能の違いを受け入れて、それを排他に繋がる落差だと思わずに、人や社会に組み込まれていくことが重要であると思われる。

アメリカでは比較的高いIQを持つ人が成功しやすい社会の形態になってはいる一方で、その他の国では十分にそうなってはいないのが現状であり、IQの高い人が孤独に陥ったり能力を発揮することができなかったりするが、それを阻止するには、知能の差ということでアイデンティティを標準的な世界から分離させず、上手く人や社会に組み込まれていくようにするべきだ。IQが高ければ、そういう姿勢をもちさえすれば、それを実現することは容易であるはずである。高IQ者は社会に適切に組み込まれてこそ、彼は社会にとって生産的な活動をたくさん成すことができるだろう。もちろんメンサなど一定以上の高いIQを持つ人同士で「ソサイエティ」を作り交流することも意義のあることだが、社会と有意義に関係するためには、あくまでアイデンティティを標準から切り離さず、上手くその得意な知的活動を現実に組み入れることが求められると思う。もっている可能性は大きい。高IQ者に適した社会にはなっていない現状ではあるが、頭がいいのだから謙虚さを以って自身を社会に適応させればいいのであり、その方が本人も成功しやすいのはもちろん、幸福度もあがり、他者に対しても生産的になれるだろう。



クアラルンプールでの出来事

  業務初日、朝、予めスマホに挿入していたマレーシア用SIMの通信が障害を起こし、所属企業があるビルにて、研修室まで案内してくれる予定の研修担当の方と連絡が取れず、いったんホテルの部屋に帰る。Wi-Fiを繋いで連絡し、事情を説明。その後、待ち合わせ場所を決めてもらって再度出社。 ...