インド旅行 2023年12月 (2/4) ヴァラナシ・ガンジス川
インド旅行 2023年12月 (4/4) コルカタ ←

インド旅行 2023年12月 (2/4) ヴァラナシ・ガンジス川
インド旅行 2023年12月 (4/4) コルカタ ←

インド旅行 2023年12月 (2/4) ヴァラナシ・ガンジス川
インド旅行 2023年12月 (3/4) ブッダガヤ ←
ガンジス川の次は、ブッダガヤに行きました。
ヴァラナシ→(電車)→ガヤ→(トゥクトゥク)→ブッダガヤ
というアクセスなのですが、ヴァラナシからガヤまでの電車がなんと8時間遅れ!
インドでは数時間、長距離列車が遅れることがあるので、余裕を見て旅程を組む必要があります。
インド旅行 2023年12月 (2/4) ヴァラナシ・ガンジス川 ←
3日目と4日目は、ガンジス川のあるヴァラナシに行きました。
凍らせた 溢れる愛に
未来の目 止まった心
虹色の カード散乱
向こう側 時のない愛
世界の出来事 全てが魚に
悲しい絵に
私は今まで 何をしていたの
壊れたグラス 飛び散った
歌も記憶も 氷結してく
愛も祭りも 金縛りの日
夜に集まる 無数の窓が
夢の結晶 虚無の館に
透明な 卵たちの目
錯乱の 水に流星
君との思い出 全てが魚に
悲しい絵に
私は今まで 何をしていたの
まだ見ぬ未来 輝いた
文字も数字も 分裂してく
声も視線も 切り裂かれた日
次に奏でる 無数の弦が
夢の結晶 線のアートに
私は今まで 何をしていたの
壊れた心 組み立ててよね
虹色の カード散乱
向こう側 時のない愛
歌も記憶も 氷結してく
愛も祭りも 金縛りの日
夜に集まる 無数の窓が
夢の結晶 虚無の館に
私は今まで 何をしていたの
壊れた心 組み立ててよね
愛してた 君のこと
そして今でも 思い出す
君は今 何見てる
遠い夜空に 流れ星
2人が今も 繋がれたら
星座の神秘 描かれてく
あの日 漂い 夢見てる いつも2人で 歩いたね
街の風 浴びて 探したね 愛の種
君と得たもの 夢になって 光り飛び交う この夜空
独りただ眺め 命の火 燃えてくよ
壊れない あの形
タロットカード 煌めいた
2人がずっと 会えなくても
空はね 僕ら 知ってくれる
その手 星の火 花咲いて ずっと月の目 泣いてるよ
夜の風 今も 思い出を 運んでる
君と得たもの 夢になって 光り飛び交う この夜空
満月が来たら 2人はね 夢で会うよ
空に刻まれた 2人愛した日
ずっと永遠に 月を彩るよ
あの日 漂い 夢見てる いつも2人で 歩いたね
街の風 浴びて 探したね 愛の種
君と得たもの 夢になって 光り飛び交う この夜空 満月が来たら 2人はね 夢で会うよ
マレーシアに行きましたが、前の記事で書いたように色々あり、体調おかしかったり怪我したりしたので退職して日本に帰国し、現在入院中です。
怪我等によるショックで錯乱したので精神科に移され、1ヶ月も全身拘束して10センチ動けるかどうかの状態でした……しばらくスマホも使えず本だけ読んで過ごし、今は外出許可が出ております。
主治医の意向で救護施設に行く予定となりました。
早くアパートに独居して仕事がしたい。そして、ギター弾いたり作曲したりしたい! と思って養生しています。
それにしても精神科には社会問題と言ってもいいほどの医療問題がある。メジャートランキライザー漬けにして脳を穏やかに破壊して人間的機能を奪いながら、ほぼ拘禁といっていいぐらい外に一歩も出れずスマホも使えない状態を強いる……私はなんとか審査会に連絡したことにより外出許可が出ましたが、精神科には5年も20年も閉じ込められてる方々がいる。色々と日本の闇を考えさせられる入院生活です。
外出できるようになってからは、入院仲間と買い物行ったりカラオケ行ったり、食べに行ったりそれなりに楽しんでいます。
退院→救護施設は12月上旬頃になると思います。
忘れた世界の 陽の兆しに
一緒に歌った あの日のキミ
浮かぶ夢 シガレット
流行りの言葉に カードと爪
ありがとうを言ってくれたキミ
声は今でも飛び交うよ
あの日から世界は変わってしまったけど
今日こうして白昼夢で会う夢幻
その光に 愛の瞬間移動
夢泳がせ 時の音符をキミの手に
フラワーショップの あの照明
街の営みに 光与え
キミの笑み 繋いだ手
ダンスの影には 夢色を
さよならの日 忘れないよ 雨
声は今でも 降り注ぐ
あの日から私は変わってしまったけど
今占い願う愛と太陽の
その光を 超える涙の連鎖
イノセントな 時のタロット キミの目に
あの日から世界は変わってしまったけど
今日こうして白昼夢で会う夢幻
その光に 愛の瞬間移動
夢泳がせ 時の音符をキミの手に
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入院中に歌詞を書きました。
初音ミクか結月ゆかりに歌わせたいです。
歌詞から作曲、そのうち頑張ります!
業務初日、朝、予めスマホに挿入していたマレーシア用SIMの通信が障害を起こし、所属企業があるビルにて、研修室まで案内してくれる予定の研修担当の方と連絡が取れず、いったんホテルの部屋に帰る。Wi-Fiを繋いで連絡し、事情を説明。その後、待ち合わせ場所を決めてもらって再度出社。
研修室でのオリエンテーション中、頭痛がして意識が朦朧。英語が聞き取れず、また頭が痛いのでホテルの部屋へ。
休養しても治らず、その日は譫言が溢れてきて苦しかった。
次の日以降も休暇をもらい、ホテルの部屋の中で意識の障害に苦しめられる。食べ物を買いに外へ出て、街並みを眺め写真を撮って気分転換。
数日間、ホテル内でぼんやりしたりクアラルンプールを散歩して、退職で帰国かな……と嘆きつつ白昼夢。
ホテルの部屋で自分のパソコンで、生態系について書いたり、世界のニュースについて考えたりしていると、神秘体験。内容は、地獄と未来について。詳しくは秘密。
さらに意識朦朧や白昼夢は酷くなり、何日も休むわけにはいかず、帰国を決める。そんな落胆の中、所属企業の方がホテルまで来てくれて、退職と帰国の手配を提案してくださる。迷惑をかけて申し訳ないです。
明日、帰国予定。アジアの大都市で会社員として何年か働きたいという目標は叶わなかったけれど、雇ってくれた会社には本当に感謝。
(#エイプリルフール)
午後の光が斜めに差し込む、神戸元町の古い喫茶店。その一角、窓際の席というのが私の定位置になりつつあるのかもしれない。今日、4月1日のことだ。テーブルの上には、先ほど古書店で手に入れたばかりの、少し黄ばんだアルチュール・ランボーの詩集と、まだ湯気を立てているブレンドコーヒー。周囲の喧騒――他の客たちのひそやかな話し声、遠くで鳴る食器の音、微かに流れる古いジャズ――は、不思議と私を外界から切り離し、一種の心地よい結界のようなものを作り出す。こういう空間でなければ開く気になれない類の本、というものがある。ランボーは、間違いなくその一冊だった。なぜ、今、この稀代の悪童、夭折の天才詩人の言葉に向き合おうと思ったのか。明確な理由があったわけではない。ただ、古書店の棚で目が合った瞬間、呼ばれたような気がしたのだ。あるいは、私の内なる何かが、彼の放つ毒のような輝きを求めていたのかもしれない。
ページを開く。印刷された文字が目に飛び込んでくる。それは、整然とした論理や穏やかな抒情とは対極にある、激しく、冒涜的で、幻視に満ちた言葉の奔流だ。『地獄の季節』、『イリュミナシオン』。十代にして既成の詩の形式を破壊し尽くし、「見者(vovant)」たることを宣言し、未知の感覚、未知の言語を追い求めた魂の軌跡。言葉は奔放に跳躍し、イメージは衝突し合い、読んでいるこちらの理性や常識を激しく揺さぶってくる。ランボーの生涯そのものが、彼の詩と同様に、常軌を逸した烈しさを孕んでいる。わずか数年で詩作を放棄し、ヨーロッパを放浪し、アフリカで武器商人となり、そして病を得て若くして死ぬ。その破滅的な軌跡は、安穏とした日常を送る私のような人間にとっては、眩暈を覚えるほどの異質さだ。しかし、同時に、私の心のどこかにある、社会の「敷かれたレール」への反発心や、現状を突き破って未知の世界へ飛び出したいという衝動、あるいは過去の経験――ベトナムでの放浪、精神的な混乱期――が、彼の言葉や生き様と奇妙な共鳴を起こすのを感じずにはいられない。それは、憧憬というよりは、むしろ同族嫌悪に近い感覚なのかもしれないし、あるいは、彼の抱えたであろう孤独や怒りに対する、痛みを伴う共感なのかもしれない。
ランボーにとって、詩とは単なる感情の表現や美の追求ではなかったのだろう。それは、彼自身の言葉を借りれば、「未知なるもの」に到達するための手段であり、感覚の「長い、広大な、そして計算された錯乱」を通して、自己を変容させ、世界認識そのものを変革しようとする、極めて能動的な試みだったのではないか。彼の詩における言葉の使い方は、もはや既存の言語体系への信頼を放棄し、言葉そのものを物質のように捏ね上げ、爆発させ、新たな意味や響きを生成しようとする、まさに錬金術的な実験を思わせる。それは、ニーチェが既存の価値体系の「価値転換」を試みたように、言語と認識の根源に揺さぶりをかけようとする、危険で、しかし根源的な問いかけだ。私が自身の拙い音楽や歌詞の中で、言葉の響きや象徴性にこだわり、時に意味の通らないようなフレーズを紡いでしまうのも、ランボーのような存在が示した、言葉の持つ魔術的な力、世界を再創造しうる力への、無意識的な憧れがあるからなのだろうか。しかし、言葉はまた、ニーチェの言葉が誤用されたように、あるいは自身の経験(OLが私の言葉に「心を染められ」たように)が示すように、容易に人を傷つけ、自己をも破壊しかねない劇薬でもある。ランボーの言葉の刃は、果たしてどこへ向けられていたのだろうか。そして、その刃は、今、私に何を切り開かせようとしているのだろうか。
コーヒーはいつの間にか冷めていた。窓の外を見ると、空は茜色に染まり始めている。詩集を閉じ、しばしその余韻に浸る。ランボーの世界という、濃密で、時に息苦しいほどの異空間から、再び神戸の日常の風景へと意識が引き戻される。しかし、何かが違う。見慣れたはずの街並みが、カフェのランプの光が、隣の席のカップルの会話が、どこか非現実的な、奇妙な輪郭を帯びて見える。ランボーの言葉は、網膜に焼き付いた残像のように、私の知覚を静かに変容させたのかもしれない。それは、心地よい読後感とは程遠い、むしろ不安や焦燥感を掻き立てるような感覚だ。彼の問いは、安易な答えを許さない。彼の存在そのものが、私の「生活すること」――安定を求め、社会に適応しようとする側面――に対する、痛烈な批評として突き刺さってくる。
店を出て、夕暮れの雑踏の中を歩き出す。手にした詩集が、ずしりと重い。ランボーを読むという体験は、単なる知的な遊戯ではなく、自己の存在の根幹を揺さぶられるような、ある種の冒険だったのかもしれない。彼の言葉は、美しい花であると同時に猛毒であり、読む者を安住の地から引き剥がし、未知の領域へと誘う危険な力を持っている。しかし、あるいは、そのような毒の中にこそ、生の持つどうしようもない強度や、言葉が切り開く認識の深淵が隠されているのではないか。本を読むこと、特にランボーのような特異な魂に触れることは、慰めや安らぎを与えるどころか、むしろ私自身と、私が生きるこの世界に対する、終わりのない問いを突きつけてくる。その問いを抱えながら、私はまた、西宮の自室へと続く日常のレールへと戻っていく。だが、その日常は、もはや昨日までと同じ日常ではありえないだろう。ランボーの幻影は、きっとこれからも、私の「本を読むことと生活すること」の狭間で、不穏な光を放ち続けるに違いない。
Generated by Gemini 2.5 pro (↓参照)
https://bloominghumanities.blogspot.com/
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