見えている?

外的に存在している現実においてであれ、人の心理に現象している観念群においてであれ、実は見えない事柄というのは無数に存在している、という命題を想定したとき、後者については当たり前のことであるが、前者についてはどうであろうか。外的現実というのを、視認できる範囲にある物の群というのではなく、現実世界全てに存在している諸々の出来事の総体であると、見做した時、視覚には入っていない事柄が外的現実のほとんどを含むといえることは当然であるが、人間に記憶や想起という機能が携わっていること、及びそれが常々の刹那に働いていることを考えるなら、人間が体験する現実というのはその瞬間的眼前性においても常に、見えない少なくとも見えていない事象も含まれているとはいえないだろうか。つまり、何を見ても、それに関する記憶が瞬間的に想起され、その記憶を伴って眼前の出来事に対する解釈が起こり、そこから導かれる行動や発言を物や他者に対して作用することにより、視覚内の現実を人は体験しているのであるから、つまり瞬間的眼前と想起上の事象の作用のフィードバック体系が一秒一秒駆動しているところのものが現実の諸事象の配置とそれらの体験なのであるから、人の現実体験において、現実世界全てに存在している諸々の出来事の総体の一部が、視覚内の現実に強度に介入しているのである。鏡に映っている窓の外の風景が鏡がなければ本来その人の視覚内であったり半径数メートル内であったりにないように、刹那刹那の記憶の想起が、遠くのまたは過去の出来事を眼前の体験する現実に引き入れている。

とにかく、現実において人や物が相互作用をなしているその空間上において、心理だけでなくとも、見えないものや見えていないものはたくさん関与しているのであり、眼前に現象していない事象を含めた上で人間はその現実を体験しているといえる。そういう場において取り交わされる諸々の事象同士に対して、さらに人は関係性を見出しているものであるから、関係を結ぶ以前の事象だけでなくその関係性も事象としてカウントするのであれば、人がその瞬間体験している現実の空間上の事象というのは膨大な数になりうると言える。

人の知覚力や知能に応じて、現実の場を体験するにあたって、把握する事象や関係性の数は増えるものである。知覚力は眼前の現実の感取における事象の数という面において、知能はその瞬間に想起する記憶内の事象の数及び眼前の現実の事象と想起した事象の群から見出す関係性の数という面において、体験する現実世界において把握する事象の数の増大に寄与する。またその刹那に想起する記憶内容は個人によって全く違うものである。だから、同じ場を体験していても知覚や知能の程度によって、見えている世界は全く異なっており、ある人においては現実把握に存在する事象やその関係性が、別の人には存在していないということがあり、その差はかなり大きいものである。

タナトフォビアについて

『モルヒネ』という小説を読んでいると、死の恐怖が襲来した…。
国産ミステリー、アメリカ産サスペンスにおいては、殺人事件が頻発して登場人物がバタバタ死ぬ。それはお決まりの形式であり、小説でなくても『名探偵コナン』は少年ジャンプのバトルものよりも死者多数であり、ミステリーやサスペンスを成り立たしめる要素として、欠かせないのが殺人事件である。そういう作品をたくさん読んでいれば、登場人物の死亡というのが文学上の倫理的な意味をもつ事柄ではなく話のプロットでしかないものになり、特に心理的抵抗や不安感などがなく読めるものである。しかし、そういう定型化した殺人による死亡とは違い、『モルヒネ』においては主要人物が癌と宣告されるし、ホスピスが出てくる。

私は子供の頃、ニュースでホスピスが映るのが鬱であった。理由は、タナトフォビア(死恐怖症)であり、とにかく子供の頃から死ぬのが怖かった。死が差し迫ったことはなかったし、ましてや自殺しようと思ったことは一度もなかったが、いつか70年後か100年後か知らないが自分に死があることが、どうしようもない恐怖であり、重いメランコリーに何度も陥った。小学2年生の頃、60x60x24x365x80を計算機で叩くと2,522,880,000と出てきて、25億秒という限られた数字に直面して限定的な時間しか生きられないこと、死が秒ごとに近づいてくることに絶望し、砂時計が頭に浮かび、1秒1秒が消費されることが恐怖であり、泣いたり吐きそうになったりベッドにうずくまったりしていた。眠るとそのまま死んでしまわないかが不安でしかたなく、小学校の時に不眠症にも陥った。

死ぬのが怖いという言葉は、あまり日常世界で発せられないし、また死の恐怖が口にだせないほどの恐怖であったことから、世間一般では絶望を呼び起こすタブーとして死は誰も口に出せないものだと勝手に思い込んでいた。しかし、ある時、兄に死んだらどうなるのかを涙ながらに尋ねたら、「ずっと眠っているようなもの」という返答が返ってきたので、唖然として、一体この人は生きているのかと怪しんだほどである。

後々、死への恐怖心は個人差があるものであると知った。そしてタナトフォビアという病名までついていることも知った。少しづつ、死に関して口に出すことができるようになったとき、母にこの病気は遺伝ではないかと尋ねたら、父もタナトフォビアを持っていたことを知った。父は、旅行で飛行機に乗っているときに、アナウンスで気流のため揺れますと流れてきたのを聞いて、パニックの発作を起こして、(飛行機の操縦をしたことはないのに気が触れたため)「俺が飛行機を操縦する!」といって本気でコックピットに向かったそうだ。当然、仮に操縦したら間違いなく死亡するし乗客数百人を巻き込む惨事になることではあるが、パニックが強烈であったため完全に理性を失ってしまっていたらしい。

タナトフォビアに一般的に遺伝性があるのかどうかは詳しく知らないが、どうにせよ生まれつき宿ってしまったどうしようもない病気みたいなものであり、少なからず誰でも漠然と恐れているものかもしれないが、タナトフォビアを持っていると死の観念で鬱やパニックになったり泣いたり吐いたり震えたりと、とにかく死が怖くてどうしようもない。大江健三郎もタナトフォビアを持っていて、全く死が迫っていなかったのにもかかわらず学校で死を想起しただけで吐いてしまったことがあるとのことだ。

死が怖いので、永遠の命を冗談抜きで求めていた。しかしタナトフォビアを持っている人にはよくあることだが、「永遠」とか「無限秒」を頭に想像するだけで、果てしない時空を直覚してしまい、恐怖に陥る。タナトフォビアを持っている人にとって、死が恐怖させるところのものは、"生きられないことではなく、痛みや苦しみを伴ってなされることであるからでもなく、意識が永遠に消滅すること"であり、その意識が消滅しつづけている状態に終わりがないことに、恐怖するのであるが、そういう意識そのものを直覚する度合が強いことから、無限の秒とかそういう果てしない観念に対して体感として恐怖してしまう体質・精神構造になっているのである。永遠に生きることも怖い。さらには、時間が存在していること自体が怖い。宇宙が存在していること自体が恐怖でどうしようもない。命や意識を自身が持っているということ自体が恐怖であり、毎秒毎秒、得体のしれない恐怖感にさいなまれる。その恐怖感が終わるところの死はその恐怖からの解放かというと全く逆であり、死んで意識を失ったままになることもなにより怖い。とにかく存在していることと存在が消滅することに恐怖を感じて仕方がない。時間や物が存在していること自体が不自然で異常なことに感じられ、だからといって自然な状態であるはずの宇宙が無いこと、ビッグバン以前を想像すると、胸に風穴があいたように果てしない恐怖感に突き落とされる。

年をとっていくにつれてと、時間や空間についての哲学を読むにつれて、この「時間」「永遠」「意識」「存在」「宇宙の無」についての恐怖感は多少は克服できたが、今でもやはり「死」は克服できない。忘れていても、あれが来たって感じで、もうどうしようもない。意識が消えたまま永遠に時間がすぎるのがどうしようもない恐怖であり、1兆年人生があったところで足りない。というかいつか死ぬなら70年も1兆年も同じだ。5000億年地獄の生活をしてもいいので、のこりの5000億年普通に生きれたら、どんな地獄があってもいい。それで終わるのなら意味がないので、永遠のうち交互に半分が地獄でもいいからとにかく永遠に生きたくてどうしようもない。宇宙終焉まで生きたところで解決にはならないので、宇宙も永遠に存続してほしい。

ここから先は笑ってくれていいことであるが、切実に永遠の命が欲しく、私が大金を欲しがっているのも、永遠の命が今後30年のうちに実現するかもしれない…とか思っているからである。無いとは思うが、しかし、医学が発展するにつれて130年くらいは元気に生きてられるようになる可能性は全く皆無とは言い切れない。お金を持っていたら、130年建康に生きられるとしたら…今から100年後には永遠の命を実現する技術があるかもしれない。

実際のところ、諦めていて、タナトフォビアによるメランコリーに陥るほどの不安と恐怖は、なんとか忘れてやりすごしていたのではあるが、3年前に機密に該当することなので詳細は伏せなければならない事象なのだが、人類の物とは思えない科学力をみせつけられた。あれだけのことを成し得る科学技術があるのなら、永遠の命だってここ100年以内にあるかもしれない…たとえば意識をコンピュータに転送して、そこでしばらく生きて、その間に肉体を新しく作って、コンピュータで起動していた意識を肉体に移し入れるなど。限りなく実現の可能性が低いことではあるが、砂場の砂粒一つ程度にも可能性があれば、それに賭けてもいいくらい、死ぬのが怖い。永久に意識を失っていることなど、ありえないほど怖い。

松本零士の漫画『銀河鉄道999』に感動したことがあるのだが、私はどうしても機械の体でも何でもいいので意識を失ったままである状態になることから回避したい。なんならロボットのような体ではなく、パソコンでも空き缶内の脳漬けでも、サイコロでも木でも石でもどんな肉体の形態でもいいので永遠に意識を保ちたい……

革命的表現に出くわすことの功罪

私の知る限りにおいて、個人的な見解ではあるが、世界史・思想史・音楽史・美術史のあらゆる有名な人物のなかで、キリスト以外の中で最も純粋な人物は尾崎豊であり、最も誠実な人物はニーチェであると思っている。

イエス・キリストはキリスト教の開祖となったが、同時に革命家でもあった。色々な伝記があり、不遜極まる非実在説の類もあれば、聖書に書かれているその通りであるという説もあり、ドストエフスキーの『白痴』の穢れなきムイシュキン侯爵のような人物ではないかという説もあるが、個人的にはルナン伝と呼ばれることもあるエルネスト・ルナン著の『イエスの生涯』が史実に近いのではないかと思っている。ドストエフスキーの小説に出てくるキャラクターの中では、あまりに世間知らずでその人間離れした純情と無垢で周りを翻弄すると同時にまわりに翻弄され続けるムイシュキン侯爵よりは、家族の諍いだけでなく周囲の人の混沌を正し導こうとする意志をもつ人格者であり、続編では革命家または反政府主義者が想定されていたアリョーシャに近いのではないかと思う。

ルナンの描いたキリストは、愛の精神や民族救済の理想に燃えた情熱的な革命家である。政治には疎い田舎町の大工であるが、身近に実際にみる世界において、人々がローマ帝国にへつらうヘロデ王の圧政に苦しみ、また、権威を持ったパリサイ派の堅い律法の形式に生活を縛られ、人々が救世主を求めていた風潮の中で、愛を説くと同時に、世界を変革させたいという革命精神に突き動かされ、自身の愛の神の思想を口述の形で旅をしながら語っていた人物。個人的には聖書の記述そのままの出来事が起こったとは限らないと思っている。確固たる権威に属さずに各地に風来に現れてカリスマを得た人物というものは往々にして、その偉大な精神に直面した人の見聞、その口伝、噂で、諸々の偉業に尾ひれがつけられ、やがて伝説となり、神話となっていくものであるし、新約聖書が執筆されたのは後の時代である。

しかしキリストの生涯が実際にどうであったかに関わらず、地球上で最も読まれている書物である新約聖書に神懸かった偉大な人物として書かれ、後の文献学者から革命家であると史実として記述され、実際に歴史上最も人類世界に影響を与えた人物であり、2020年はキリストの存命期を基準にした年号である(近年はB.C/A.Dの定義付けが改訂されつつあるが)し、キリスト生誕の日とされることもあるクリスマスが祝われるなど、キリスト教圏以外にも多大な影響を残している。イエスが存命の間には、イスラエルの地の貧困な人、病人、圧政に苦しむ人に絶大な支持を得、後には世界を変えるほどの宗教になった。私は特に特定の宗教を持っておらず、宗教と言えばお墓が仏教のお墓に入ることになるだろうというくらいにしか身近な生活には宗教が関係していないものであり、信仰心は持っていないが、イエス・キリストの生涯・教え・思想が書かれた聖書やその他、キリスト教関係の文献に多感な時期に出会えたことは、一生の財産であると思っている。実存としての思想の面だけでなく、文学・哲学さらには西洋のロックなどに、文化的な興味関心を深く持つことができたのは、聖書を手にしたからであると思っているし、また、人格の面でも中学生のときまでは人に冷たかったが少しは他者に対して愛情を持てるようになり優しくなれたと思う。

私にとって聖書に出会えたことはいいことだらけであった。宗教には属していないがイエス・キリストは最も尊敬する人物の一人であり、とくにそのときの貧しい人や病に苦しむ人などを救おうとする愛、神の意志を事実伝えた精神性、圧政に対する革命への意志を尊敬している。

しかし革命家、革命的思想家というのは、若い精神にとっては時に悪影響になることもある。たとえばニーチェである。



ニーチェは反キリストとして有名であり、「アンチ・キリスト」というタイトルの書物を著し、有名な「神は死んだ」という言説もあるほどである。しかしニーチェは、その「アンチ・キリスト」においても、一人の個人としてイエスに敬意を示している言説が見られるし、ニーチェが発狂するほど生涯をかけて否を唱えたのは、キリスト教というよりも、畢竟、キリスト教圏のヨーロッパの人々の生の価値が西洋文明や政治体制によって貶められていること、ニーチェ自身が現実世界や書物の中で見聞きする人たちの良心が不誠実になってきていること、そして権威として世界に君臨しながら(科学の発展によって神の実在が疑われるようになってきたこともあり)宗教が実際に人の生命の内奥に機能し実存を高める役割を失ってきていることであり、ニーチェ自身は決してヤハウェの神を貶めたわけではない。実際にニーチェは旧約聖書の荒ぶる雄雄しい怒りと罰の神に畏怖と敬意を示す言葉をいくらか残している。

「神は死んだ」というのは、神が人に正しく作用することのなくなった当時の西洋世界の形態や風潮、西側文明人の傾向全般を批判した言葉であり、人々に機能しなくなりつつあった神への信仰心を超えるものとして、虚無を乗り越えるために、宗教や既成の枠組みに囚われない個人の生の高め方を狂気に陥るまで説き続けたのである。私は一時期グノーシス主義にハマっていたときにキリスト教に対して懐疑的になることはあったが、不思議とニーチェを読んだときはアンチ・キリストにはならなかった。上述のことを認識していたからでもあると思うが、何よりニーチェの誠実さを感じ、もはや崇高ともいえる誠実な精神に、宗教の根本に通じる倫理を見出したからかもしれない。ニーチェの誠実というのは、学術的にはどうかと思うことが多々あり、言いたいことのために事実を捻じ曲げる傾向にあり、師から処女作を「酔っ払いの戯言」とまで言われアカデミックな世界から半ば追放されたほどであるが、精神的な面での誠実は極まっている。だからこそ、自分がそれは人の生を貶める・諸々の高貴な価値を貶めると直感したもの、判断したものに対しては、妥協のない批判を容赦なく行っている。当時の権威や一般的風潮に媚びることなく、それらから攻撃を受けることを全く厭わず、信じたもののために命を懸けて言葉を放っていた。

その革命的な精神は同時に悪影響にもなりうる。ニーチェが悪影響を与えた個人として有名であり、文明上の永久戦犯といっても過言ではないヒトラーは、若いころにニーチェの超人思想などに多大な影響を受け、ニーチェの元盟友ワーグナーに心酔し、ナチスの凱旋歌にワーグナーのタンホイザーを使用した。ヒトラーは反ユダヤ主義を偏執的な誇大妄想といってもいいほど推し進めていたが、ニーチェは決して反ユダヤ主義者ではなかった。前述のようにニーチェは旧約聖書の神を高く評価し、畏怖を示して礼賛することがあったし、妹が反ユダヤ主義活動をしていたのに強く反発しただけでなく、反ユダヤ主義が当時のドイツに蔓延りつつあることに危機を感じ、警鐘を鳴らしていた。ユダヤ人に迎合したわけではないが反反ユダヤ主義といってもいいほどであった。ニーチェは当時の西洋文明に虚無を感じ取っていただけでなく、政治的な面でもドイツの異常の萌芽を感知していた。

ヒトラーのような歴史に影響力を持った人物においてだけでなく、ニーチェの悪影響というのは散見されると思う。まず、20世紀以降の哲学史では「ニーチェ以前/以降」というのは重要なターニングポイントとなっているが、ニーチェ後のポストモダン哲学の一部は、ニーチェの唱えた遠近法主義の悪影響を受けて過度の相対主義に陥っているのではないかと、あくまで個人的には思う。言葉の使用方法の自由度が高すぎ、余計な観念を新しい遠近法として捏造的に量産しすぎているのではないか、ソーカル問題で槍玉に挙がっているように数学や科学の概念を濫用してはいないか、社会上の事柄を勝手におかしな観念体系で解釈しすぎではないか、などポストモダン哲学には問題点があると思われる。

また、若い多感な精神に対してニーチェの過激な比喩表現は麻薬のように作用し、西洋精神に毒づき覆そうとした革命精神と相まって、反政府主義者などの過激派を生み出す可能性を蔵しているし、また精神的に病んだ若い神経系に劇物のように作用し余計に苦悩を増大させるものでもあり得る。

ニーチェは哲学界のトリックスターであり、天界の火を人類のために窃盗するという不遜を犯してゼウスの怒りを買い山頂で磔にされ肝臓を長期間巨大な鷲エトンについばまれ続けたプロメテウスのように、11年間発狂したままになってしまったという悲劇が下ったし、言語の魔術師といってもいいほど言語の法を侵犯して多種多様な言語表現を生み出したせいで誤解されたりするが、決して低級なトリックスターのように悪意を持って人間界や言語世界を攪乱しようだとか思っていたわけではなく、確固たる内的な正義と倫理に基づいて、際まった誠実を以って、人間の実存を高めようという意志で、当時の西洋の諸々を批判していたし、それだけでなく言語そのものに対しても痛烈な批判をしている。

その結果として悪影響が見られるものではあるが、その誠実さを考えると皮肉なものではある。元来、人間世界がたくさんの不正や不誠実の上に成り立っているので、ニーチェの偉大な意志とその純度の高い妥協なき誠実さに影響を受けすぎ、ニーチェが批判したのがもはや当時の人間全般・哲学全般といってもいいことを併せるなら、その文芸的天稟に激情を宿したセンセーショナルな言語表現に陶酔した特に若い読み手は、本人のキャパシティを超えた二律背反的な葛藤に陥ることになると思われる。

しかしヘーゲルの哲学でいわれるように、弁証法によってテーゼとアンチテーゼが相互作用することが構成的に機能するし、ユングの言うように二律背反的な苦悩の状態にあるときは人間の無意識から超越機能が働き象徴的に諸問題を解決しようとするものだ。ヘーゲルの哲学はあまり親しんでいないので控えるが、このユングの超越機能や象徴による解決というのは大変興味深いものであり、ニーチェが比喩表現や象徴表現を多用したことも考慮すると、超越機能は若い悩み多きニーチェ読者には多数働くのではないかと思われる。文章や歌詞などで出会った比喩表現やその他シンボル・絵であったり、自分の空想や詩作などから発生した比喩表現や図像などに、突然ハっとして、社会的要請により意識上で優位にならざるを得ない観念群とそれに拮抗的に対立する無意識に抑圧された受け入れがたい情緒群の、妥協として、さらには妥協を超えて新しい視野の拡大に繋がる心理的新発見として、それらの言葉や表現が心に作用し、それによっていつのまにか神経症的苦悩の一部が解決されると同時に、人格の領域や内容が少し拡大する(たとえば以前より多くの事柄に寛容になれる・多くを理解る)ということがあるが、それが象徴作用としての超越機能の一例である。

キリスト教世界の詩人や音楽家には、たとえばマリリン・マンソンやジム・モリソンなどニーチェの影響を受け、明るく楽しく平和な世界と相反する思想や表現の傾向を持ちつつも、素晴らしい詩句や歌でカリスマ的影響力を持った人物がたくさんいるし、シュールレアリズムやダダイズムなど20世紀の美術においてもニーチェの現実を超越したような芸術表現や反現世界性に影響を受ける人がいくらかいた。

とにかく、ニーチェに限らず表現が巧みな革命的な思想家・表現者の読むことにおいては、下手をすると反社会的反人間的な思想に陥ってしまう可能性があると同時に、表現側が広範な事柄群を思考対象に表現していることから読み手が思想的感化を受けた際に実存に関する関心事としてそれらが精神上に現象するので、その革命性・反骨性とそれに相反する既成の社会の枠組みを同時に生きることになるので(その二律背反性を思考や読書や鑑賞などによって解決できる意志と努力がありさえすればだが)、人間世界上の諸々の事柄を内包する者として、人格の内容を拡大することに繋がるのではないだろうか。

もちろん思想や人格の面だけでなく、学説などにおいてもそれは言えるだろうと思う。ドイツ観念論を打ち立てたカントと、その伝統的哲学を破壊しようとしたニーチェを比較する事で、何らかの弁証法的解決によって新しい学説が生まれることはあるだろうし、カントを信望したあとにニーチェに心酔したとしたら、なおさら面白い言葉が生まれるのではないだろうかと思われる。

家族と和解 実家に帰還

実家に引っ越ししました。


半年間住んだ南森町とお別れ。大阪の中では一番都会っぽい北区のビルの風景を毎日15階のベランダから眺められ、美味しい料理店が多くてグルメには飽きず、終電気にせず梅田の繁華街に(コロナ前は)いつまででも飲み歩け、住むには良い場所だと思いました。

実家に帰った理由は、大学に行く予定で貯金した方がいいので高い家賃を払わずに済ますためと、家族と和解したからです。

以前の投稿で、家族から逃げるために失踪したと書きましたが、理由はテクノロジー犯罪で、親がテクノロジー犯罪を全く信じてくれず妄想と思われていたし、ブレインジャックで親の前で奇行を演じさせられたりしたため、8回も強制的に精神病院に入院させられていたのですが、4月か5月にやっとテクノロジー犯罪を信じてくれました。1月に行方をくらましたとき、書置きをしていきました。A4紙40枚程。テクノロジー犯罪の存在を証明するエビデンスが描かれたネットのページ、被害記録・犯罪告発のツイートの一部、テクノロジー犯罪(思考盗聴やブレインジャックなど)が技術的に可能であることをわかりやすく科学的に説明した文章、その他、テクノロジー犯罪が実際に行われていることを説明する文章などを、プリントアウトして置いていきました。

私が急に消えて連絡がとれなくなっているあいだに、親が何度も読んでくれたようです。そして4月か5月頃、私が猫に無性に会いたくなったので、夜中にふらっとこっそり帰ってみたとき、親が起きていて、その書置きを読んだことと、帰ってきた私が(被害が軽減していたのとメジャートランキライザー服用がなかったのとで)前よりだいぶ元気であったため、今まで10何年もずっとテクノロジー犯罪被害に遭っていたことを確かに認識してくれました。文章の力というものが凄いと感じたのと、思い切って一度失踪してよかったと。
 
実家にいても完全に精神科から解放されホッとしました。医療保護入院精度があるので親とコンタクトがあると精神科から逃れようがありません。メジャートランキライザーの注射を1年4ヶ月強制されていたのですが、この種の薬は、呂律回らなくなる・頭も回らない・歩き方おかしくなる・脳細胞を徐々に破壊していく等、恐ろしい薬です。被害との二重苦で、入院を繰り返しメジャートランキライザー漬けが続けば、廃人になる可能性もあるし、すくなくとも社会生活が大きく損なわれます。被害は終わりませんが、精神科からやっと永遠に開放されて嬉しいです。


5月6月7月はまだ大阪北区の生活を楽しみたかったので独り暮らし続けていましたが、家賃が高いし、勉強しなければならないのに緊急事態宣言解除後は外にふらっと遊びにいってしまうのとで、7/29に実家に引っ越し。
実家に帰ると、猫に癒されます。
やっと荷解き・片付け・掃除が終わりましたが、本棚が年々増えていく。
実家だとギターや歌をやり放題なのが嬉しい。


家族とは和解したので仲良くやっております。インド料理店へ親を連れて行きました。


さらば南森町


ラクガキ (※不気味・Sensitive/Nudity・グロ注意)

数年前~今日、描いた落書きたち。 ※センシティヴ・グロ・性的表現あるので注意です※  耐性ある方は、  ↓Click↓