TORRに挑戦……

1週間ほど前、Twitterに流れてきた無料のIQテストをやったら、なんとなく面白くて、IQって何だろうと考えて、1個前の記事を書きました。ささっと書いた雑文程度で特になにか重要なことを書いたわけでもなく、IQ高い人は社会適応を目指した方がいい、と当たり前のことを書いただけに終わってしまいましたが…

IQというのはある程度高ければ、社会に適応しやすいと思うが、突き抜けて高いと、逆に適応しにくくなるのではないかと思えることが度々あります。IQが高く生まれたのに学校や社会になじめず孤立し、能力を生かせない人というのは多いような気がします。

そういう人にとって救いになるのが、High IQ Society であるのかもしれないと。孤立している頭の良い人は、なかなか話が合う人を見つけることができない、なぜなら孤立していれば絶対数として友人知人が少ないし、その少ない友人の中で知的嗜好の合う人を見つけるのはなおさら難しいからです。



High IQ Society(高知能団体)というのは、入会することで、コミュニティの一員になるのだから一気に知己を増やせるというだけでなく、その成員が悉く同等の知的レベルであるから、趣味や話が合いやすいことになると思います。

MENSA に入会して、わかったことは、グループ意識と同じような知的レベルのためか、SNS で交流が盛んで、みな生産的な、少なくともそれなりに楽しい、コミュニケーションを展開しているということです。私はオフ会のイベントにほとんど参加していませんが、SNSで興味深い投稿を拝見させて頂いていて、インスパイアーされることがよくあります。

それはそうと、私は海外の文化に結構興味があるし、英語を勉強したいし、英語で外国人とコミュニケートしてみたい、という願望が強いです。また、コロナ禍の中、人とあまり直接会って話す機会が減り、ネット上でのコミュニケーションの有用性が上がってきています。というわけで、ネット上のほとんどが外国人のSNSはないかと思っていたのと、Facebook上でのJAPAN MENSAのメンバーたちの交流が生産的であることを鑑みて、海外産のHigh IQ Societyに入会しようと思いました。

だいたい自分のネット上のIQテストが140台なので、現実的には入れる可能性があるのは、145あたりか…と思い、調べてみたら、CIVIQ Society, TORR, Triple Nine Society などが該当していました。入会要項を見ていたら、IQの数値以外の面で、つまり費用や手続きの容易さの面で入りやすい団体が、TORR でした。
https://torr.org/

入り方は↓のリンクのサイトでアカウントをつくり、
https://iq-test.ca/ccfit/
ICFIT(The International Culture Fair Intelligence Test)という8.99ドルのテストを受けて、IQ145以上の結果を出し、その後で20ドル(コロナの影響で今は安いが通常は49ドル)を支払うというものです。TORR の会員サイトと iq-test.ca は連動しているのでスムーズです。今なら日本円で3000円ちょっとの費用で、ネットのテストと手続きだけで入れるので、入会の煩労が特にないです。PayPal(アカウント持ってない方は)登録するのがちょっと面倒なくらいです。

早速、多少の緊張を感じつつ、ICFIT を受けてみました。往々にしてIQテストは守秘義務があるので内容は書けませんが、TORR のサイトによると、「This test is comprised of spatial and matrix reasoning items as well as a few numerical items. 」(https://torr.org/)


テクノロジー犯罪の被害によって弱っている自分の頭ではなかなか難儀ではありました…

お酒飲んでいたし
徹夜していたし

言い訳はともかく、
時間切れ……



時間配分をもう少ししっかり考えておけばよかった…



きっとだめだろう…






結果確認の緊張感をまどろませるために……睡眠不足だったけどコーヒー飲んだかどうか……いや……そのときフラフラだったんでコーヒー飲んだかどうかさえ覚えていない……




結果は……








……アルコールと涎で喉が潤う中、ちょっとぞくぞく…!








…。





ギリギリIQ145でした。
セーフ!





どうやら IQ-Test.ca と TORR の会員サイトは連携しているらしく、IQ-Test.ca のICFITでIQ145以上をとると選択できるようになる、TORR へ入会のために20ドルを支払う、というところをクリックし、 IQ-Test.ca 内で PayPal 決済をすると、自動的に TORR の会員になりました!

TORR の会員サイトにログインできるようになり、会員専用のSNSを使用できるようになりました。

知的な外国人…と聞くとワクワクして、さっそく自己紹介いてイイネやリプライ待ち…。
趣味や気のあう人がみつかるといいな。

高IQ団体入会というのはメンサみたいな規模と伝統の大きい組織を除いて果たしてメリットがあるのかどうかはわかりませんが、TORR の場合は今(2020年4月の時点で)は3000円台で入れて、知的レベルの似通っている人と交流できるグループに属せるというのは、それなりにいいものではないかなと思います。

TORR で遠くの友人をみつけられるよう、英語の勉強を精進しなければ!

IQの高い人について

IQが高い人の特徴というのは何か?
・頭が良い
・数学が得意
・閃きがある
・知的好奇心が強い
・孤独
・普通の人と会話がかみ合わない
など色々なイメージがあると思う。IQ社会であるアメリカでは、収入とIQの高さが相関関係にあると言われている。一方で、社会や文化・芸術にとって創造的であることと、IQの高さがそれほど相関にないという報告もある。




(初めて受けた有料の具体的な数値が出るテストの結果: 146)

まず、IQが高いとはどういうことか。多くのIQテストで測られる能力というのは、図形や数列の法則性や規則性を見つけ出してそこから1個~数個ある空欄を類推して求めるというものであるが、その結果が知能を純粋に評価する数値として規定されていいものであるかどうかというのは、昔から議論の対象になっている。知性全般でいうと身に付けた知識であったり知的な特訓によって獲得した能力であったりも含まれるが、IQというと、(必ずしも定義としてあるいは臨床的事実としてそうであるわけではないが)イメージとしては先天的な(もしくは発達段階で形成された)大人になってからは恒常的な知能の指数、という意味合いがあるものである。IQテストに多いのが、図形がいくつか並んでいる問題であり、数列より比較的用いられることが多い理由は、数列のほうは数学を学習することによって経験的に獲得できる能力に依拠する度合が、図形と比べて大きくなってしまうからだろう。IQテストの図形の問題は、幾何学的知識にもその正答率がほとんど依存しない(幾何学的訓練がある程度はその正答率に影響するかもしれないが)、前提的な知識を度外視できる純粋な問題になっていて、未知の事象の配列から法則を見出す能力、及びその法則を分析して次に来るものや欠けているものを類推する能力などを、それなりに判定できるものであろうとは思う。

一般的なIQテストで測ることができる機能というのが、並んだ図形などから法則を見つけ出す能力であることから、平均的な知能の人にとってはとくに意味のない事象の配列であったりランダムに見える物事の配置であったりに対し、IQの高い人は法則や規則を見出し、それらの関係性や意味をつかむことができ、従って分析や思考の対象にすることが可能となる。要するにIQの高い人にとっては、諸々の物事がより強く多く関連しているように見え、従って意味をもっていたりする度合も大きい。IQが高ければ、事象の分類の方法が多様であるため、下位のカテゴリーの事象を上位のカテゴリーの事象関連の中に置き並べたりでき、より上位の概念で事象を括ったり、上位概念から個々の事象に降下したりすることが、易しく行える。このことによって、物事を様々なレベルで考えたり、一見遠そうなカテゴリーに見えるものに結び付けて考えたり、人より多くの関係性を物事の群に見つけ出したり、その関係性や意味を様々な平面で多角的に分析したりすることができる。

もちろん、これらの能力は学業の出来にプラスの相関をもっているだろうが、それだけではないだろう。IQテストではどんな前提にも依拠しない純粋な図形の羅列などかから法則性発見の能力や類推する能力が測られるため、五教科や読み書きなどに限らず、人と人の関わりの間でおこる諸々の事柄に対してであったり、人の心理に対してであったり、社会でおこる様々な事柄群に対してであったりも、上記の能力が適用されるため、日常生活や社会生活においても、様々な物事が色々な方法で関連していて多角的な思考の対象になっているということが考えられる。

なので、適切にIQの高いことからくる能力を社会上の事柄に向けることができたら、その人はより充実した少なくとも思考の体系を事実関連に役に立つ形でもつことができる。頭が良い人の言うことが魅力的に感じるのはこのためだろうと思う。しかし頭が良いことは、物事を深く考えすぎることに繋がるし、また知能が高いということは神経の敏感さにもある程度は相関があるだろうし、さらに知能が高ければ他の人が気づかないことに当たりまえに気づき誰も認識していないことを当たり前に認識していたり、多くの人の関心のないことに関心を強くもったりと、孤独に陥る危険に繋がる要素も孕んでいるだろう。

人間の諸々の能力の中でもちろんIQというのは一部の指標ではないが、人間社会上の事象というのは人間の総体が今までに形成してきた関係性や意味などで繋がりが成り立っているため、多角的にそれらを見出していける能力というのは、孤独を免れて適切に人間社会に適用させることができれば、大きな力になる。もちろん社会上の事柄だけでなく、学問においては顕著にその力が現れるだろうと思われる。しかし問題は、社会の総体といのは、全ての個人がそれに属しているという性質上、平均的な人向けにできている、ということである。IQが高いことによって、たとえば小学校や中学校の学業が退屈すぎて教育に意味を感じなくなってしまったりすることもあるし、社会生活でも頭が良ければすぐ分かりすぐに通過できる事を面倒な手続きや説明を経てやっと通過しなければならなかったりと、IQの高い人への弊害も多く、その能力を存分に発揮できていない高IQの人というのはけっこう多いのではないだろうか。


(JAPAN MENSA はそこそこ会員数が多く、交流や活動が盛んです。)

東大生の平均IQは120と言われていて、日本人の平均の105~108あたりから10以上も高い。ハーバード大学生の平均は130、メンサ会員の最低値が130、メンサ会員の理論上の中央値が135であることから、メンサ以上の人というのは、東大生と平均的な頭脳の人の差よりも大きな差を、東大生の平均に対して持っているのであり、同じ大学で同じ教育レベルである程度近い知能の群の中で人と関わるということのできる東大生よりも、孤独に繋がりやすいと推定できる。だからこそ、メンサをはじめとした高知能団体が出来、だいたい同等の知能の人どうしが交流する場と言うのが設置されている。メンサに始まるハイIQソサイエティーというのはそういう意味で画期的であり、普通の人の中で突出したIQを持っているがゆえにものたりなく感じることを、補ってくれると思うし、その団体の中でスムーズに知的な交流ができるため生産的であろうと思われる。


(追記→ https://jean629980.blogspot.com/2020/04/torr.html TORRというIQ145以上の団体に入会しました。会員専用SNSがあります。メンバー一覧はこちら→です。31ページ目に私の名前があります。https://torr.org/members/)

しかし、IQだけが全てなはずはないし、人間にはさまざまな要素があるのだからそれらの色々に魅力や意義を感じるべきであるし、IQが20離れると話が通じないということはない。話が通じるかどうかという問題については、もちろん高度な思考をリアルタイムで言語化した内容というのはIQに差がある人に対して通じないことが多いが、人間が人間である以上、相手に応じて発話する内容や形式を変えていくべきであるし、本当にIQの高い人ほどそうすることができるだろう。私は精神科で受けるIQテストは受けたことがないが、メンサの入会テストは簡単に全てできたので少なくとも130以上は保証されていて、ネットのIQテストで信憑性がありそうな比較的しっかりしたものでは140台と出ることが多いが、保育園や小学校のころ仲の良かった友達は学校でテストの点が一番低い人だった。特に彼とは問題なく接することができ、IQが高いが故に可能な助言であったりを私は行っていたであろう一方、その友達は活発で人と交流するのが得意であることから私に人と人との関わりについて教えるところがあっただろうと思われる。IQが高ければ諸々の知的能力が高いことにはなるが、人間という様々な面を持っている存在を測るにあたっては、ほんの一部の指標でしかないように思える。

私はメンサ会員であり、IQが高い人同士のグループだからこそ行える交流があることを知っているが、一方で、人間というのは色々な個性があり、個性が違う人同士が集まり強調するのが人間社会の形態であるのだから、必ずしも高IQ者が閉鎖的になる必要はないように思われる。私はおそらく140台であろうIQの割には、教育の水準の低いところをずっと生きてきたが、どんな個人にもそれぞれの魅力があったように思える。ドストエフスキーの小説の登場人物には、非常に考え深い人、たくさんのことを思いめぐらせている人、イワン・カラマーゾフのように知性の優れた人も居る一方で、ろくでなし、ならずもの、アル中であったり、貧しい人や病人もたくさん登場し、それらの群像が一体となって小説の世界を形作っている。知能の違いを受け入れて、それを排他に繋がる落差だと思わずに、人や社会に組み込まれていくことが重要であると思われる。

アメリカでは比較的高いIQを持つ人が成功しやすい社会の形態になってはいる一方で、その他の国では十分にそうなってはいないのが現状であり、IQの高い人が孤独に陥ったり能力を発揮することができなかったりするが、それを阻止するには、知能の差ということでアイデンティティを標準的な世界から分離させず、上手く人や社会に組み込まれていくようにするべきだ。IQが高ければ、そういう姿勢をもちさえすれば、それを実現することは容易であるはずである。高IQ者は社会に適切に組み込まれてこそ、彼は社会にとって生産的な活動をたくさん成すことができるだろう。もちろんメンサなど一定以上の高いIQを持つ人同士で「ソサイエティ」を作り交流することも意義のあることだが、社会と有意義に関係するためには、あくまでアイデンティティを標準から切り離さず、上手くその得意な知的活動を現実に組み入れることが求められると思う。もっている可能性は大きい。高IQ者に適した社会にはなっていない現状ではあるが、頭がいいのだから謙虚さを以って自身を社会に適応させればいいのであり、その方が本人も成功しやすいのはもちろん、幸福度もあがり、他者に対しても生産的になれるだろう。



読書のすすめ

読書は人生を豊かにしてくれるとよく言われるが、まさにその通りであり、読書によって齎されるものの価値は大きく、効能も大きい。読書で得られるのは決して知識だけではなく、数えきれないほど得られるものがあることは、読書家の当たり前に知ることであり、科学者も脳機能の向上の観点から読書によって得られるメリットが多いとされている。

 人間は言葉を恒常的に使用する生き物であり、脳内には無数の言語に関する回路が根付いているのだから、その言語に関する無数の数の回路が言語全般に反応しうる可能的な量と言うのは膨大であり、人間には莫大な量の言語の総体が開かれていると言えよう。

日常から人間は言語を使用すると言っても、特に読書をしない場合というのは、使われる言語の体系というのは限定されたものであるのだが、読書などの言語的活動をすることで、膨大な量の言語の総体に開かれることになり、日常の限定された言語の体系から大きくはみ出した量の言語が人の精神を駆け巡り得ることになる。

人間の古来から今も続いている多様な言語活動において、あらゆる物、事柄、出来事、状況、感情、心理、イメージ、観念、概念が名付けられ、名辞が与えられているとともに、それらの相互関係が文法に則った一定数の言語で起き並べられ、意味が与えられている。普段の日常生活ではとくに気をとめないような心理やイメージであったり、日常では出会わない出来事であったり、社会生活では特に必要とされないアカデミックな事柄であったりも、作家や学者によって言葉のまとまりで表現され、形や意味が与えられている。つまり、人間には言語の総体が開かれていると同時に、未知の世界が、それに含まれる事象に対して人が言語で名付けと意味付けを行っているということから、どこまでも開かれているのである。

それらは時には、普段は遭遇しない事柄であるためにすっと入ってこなかったり、アカデミックすぎて理解するのが難しかったりすることもあるが、人間の脳に備わっている言語機能の可能性は大きいため、既に知っている言葉や文法、それらが叙述可能な事象の配列から、いくらでも発展して、新しい事象や知識に対して誰でも解釈を行うことができ、そうすることで言語を通し、世界はいくらでも広がっていく。

生き物の図鑑を読めば、掲載されている写真に添えられた言葉での説明により、生物と自然の森羅万象の営みが読む人の心の前に現前し、ありとあらゆる生き物の生態を、家に居ながら知ることができる。生物学の本を読めば、生き物の外観だけでなく内部の構造や機能であったり、生き物の行動の意味や目的を知ることができ、生き物についてより多くのことを、言葉と少数の絵だけで知ることができる。

伝記やノンフィクションを読めば、普段の交流する人との会話だけでは出くわさないような、色々な出来事を追体験することができ、人間世界についての新しい事柄がたくさん自分に開かれていくことになる。小説や文学を読めば、実際にないこと、人間が体験しうる様々な出来事、人間が思い得る色々な心理を体験することができ、現実の実存からはみでた様々なヴィジョンや真理を手にすることができる。

評論文や批評文を読めば、社会上のあるいは学問や芸術の世界の色々な事柄に対して、学のある人が持った意見、それについての思考を、共有することができる上に、様々な意見や思考を取り入れることによって、本の外で現実的に体験する事柄についても、色々と思いめぐらせ深い洞察を持てるようになる。哲学書を読めば、時代と場所を超え、偉大な精神が人間や世界について見抜いた真理に触れることができ、読む人の精神は成長していく。

言語というのは、人間を特徴づける伝達方法であり、単なる視覚や聴覚の直接的な情報とは違って、五感によって感知できない遠くの事象を交通させることができる点で、人間を動物と大きく引き離しているものである。人間に生まれたからには、見たこともない生き物の羽の構造を知ることもできれば、3000年前の哲学者が抱いた思考を共有することもでき、宇宙の果ての星の営みを知ることもでき、フィクション上の冒険や景色を体験できるのである。体験しうるであろう社会上の事柄についても、全く知らない他人の経験を言語を通して追体験することで、社会生活上で自分の物として起こしうる行動や思考の可能性も増していき、行動の指針であったり出来事に対する解釈であったりが増大していくことから、実際に社会生活を行動面でも精神面でも豊かにしていくだろう。

映像や音声での情報とは違い、単語が文法によって羅列されている言語においては、無数の情報が抽象された形で一語に集約されているので、言語一語そのものが五感に関する脳の領域に与える一次的情報は少なくとも、それを解釈する思考というのはどこまでも広がり得り、解釈の結果として脳内を駆け巡る情報量というのは、映像や音声を上回ることが多い。本には夥しい量の言葉がコンパクトにぎっしりと詰まっていて、言語そのものは五感がそぎ落とされた抽象の結果の記号であるが、それをしっかりと解釈し、脳の中で具体化、イメージすることによって、一冊の本は一本の映画よりも遥かに多くの情報を人間に齎し得るものである。

映像での表現に触れることとの決定的な違いは、読書などで言葉の並び、文章を解釈する過程で、精神活動がより強度に発動することだろう。映像においては五感の情報がほとんどそのまま解釈されるだけであるが、文章を解釈するプロセスにおいて、言葉に意味を見出そうとするとき、人は意識的であれ無意識的にであれ、過去に体験した出来事、過去に思考した内容を想起し、それらを素材として言葉の並びに想像しながらあるいは考えながら解釈を下すということを行う。つまりその過程で、今までその人が体験した色々な出来事の意味するところが組み合わされたり、今まで思考してきて精神が諸々の事象に見出してきた意味が意識上に浮上して新たな解釈が構成されたりと、とにかく精神が機能することによって文章解釈において意味付けがなされる。五感が体験すること、見ている映像の内容に比べて、読書などで文章を読んでいるときというのは、そのように精神が機能している度合が大きい分だけ、それまでの思考や体験の軌跡から蓄積された様々な意味や価値、それらから導き得る色々な思考が意識に登ること、そして現前している未知の文章から新たな意味や価値や思考を能動的に構成していくことから、非常に意義深い活動であると言える。

上記までは読書の意義の一般論や、当たり前の事を抽象化しつつ詳しく書いてみたが、具体的にはどのような効能があるのだろうか。読書の効能を並べてみよう。

・新しいことを知ることができる
・語彙が増える
・思考力がつく
・想像力がつく
・文章力が上がる
・コミュニケーション力が上がる
・人と話すときの話題が増える
・興味や関心を手軽にいくらでも広げることができる
・社会および人間世界全般の把握が広がることで行動の指針や可能性が増える
・日常では体験しえない遠くの事柄やフィクション上の出来事を疑似的に体験できる
・様々なことに対して色々な見解や意見を持つことができる
・脳機能が全体的に向上する

すぐに思いついたものだけ並べてみたが、他にも色々な効能があり、とにかく人を賢くさせ、知っていることを増やし、人との相互関係を多様にする素養となり、社会生活上であれ精神的にであれ可能性を大きく拡大させ、生きることを有意義にするものであろうと思う。

最後に挙げた脳機能の向上について、実証されている事を以下に書いてみたい。

オックスフォード大学の神経学の教授であるジョン・ステイン氏によると、「読書は大脳のトレーニング」だそうだ。読書中の脳の状態を実際にMRIでスキャンしたところ、本の言葉で表記されている景色、音、味、香りなどを想像しただけで、それらに対応する大脳の各領域が活性化し、新しい神経回路が発生したとのこと。つまり、言語に関する脳の領域だけでなく、想像力によって本の中の五感情報をイメージに構成していく過程で、五感に関する脳の領域も活動して五感に関する神経回路も増えていくのである。

カナダのヨーク大学の心理学者、レイモンド・マー氏によると、読書によってストーリを理解して他人の考えや感情を理解しようと努めた脳において、脳の神経回路の重なりが増えていた、ということがMRIによる分析で‏明らかになった。このことから、読書することで他人の立場にたって考えたり他人に感情移入や共感を行う脳の機能が向上することがわかる。

エモリー大学の研究によると、ボランティアの学生に9夜連続で小説を読ませたところ、左の側頭葉の脳細胞の繋がりが増加していることが顕著にMRIの結果に表れた。興味深いことは、スキャンしたのは読書中ではなく読書後であったことから、左側頭葉の神経回路はたった9夜のことでその時だけでなく後に残るものとして増えたことになる、ということである。

他にも読書の効能を脳科学的に実証した実験というのはたくさんあり、脳の機能を向上させるうえで読書と言うのは非常に良いものであることが示されている。

読書をすることで、言語に関する脳の領域が強度に活動することはもちろんであるが、小説など五感情報に関わる事象が言語化されている表現を読むことにおいては脳の五感の領域が活動し、またストーリーにおいて人の思考や感情や人の状況が語られる表現を読むことで感情や状況や思考を理解する脳の領域が活動し、神経回路が増える。それも、読後もしっかりのこる増え方なのである。とにかく読書をすることで、脳のあちこちで神経細胞が繋がり、シナプスが形成され、飛躍的にシナプスを増やすことができる。たとえば音楽家は音に関するシナプスが普通の人に比べてはるかに多いため、音楽のワンフレーズを聞いただけで色々な感覚や感情が脳内を過り、それに対する論理的思考も発生したりするが、それと同じように、読書をすることで様々な事象に関するシナプスを増やすことで、同じ一つの出来事や言葉に対し、たくさんの思考や感慨やイメージを持つことができるようになり、日常に体験する情報に対しても脳内に駆け巡る印象や解釈が豊かになるだろう。


とにかく読書は、人を豊かにする。せっかくどんな人にも安価で手に入る本という媒体の上に、広大な世界が無数に広がっているのだから、人間に生まれたからには、人生を有意義にするために、読書を行わない手はない。幸い、書店や図書館に行けば、無数のジャンルの本が置いてあるので、普段読書をしない人もどれかには興味を持てるだろう。興味をもったタイトルの本、ふと目に入った本からでも、少しでも読んでいけば、興味や関心は広がっていき、新しい言葉、新しい出来事や物事、新しい五感、新しい考えなどを、体験することができ、心は豊かになっていくだろう。

夢と希望が炸裂したきっかけは、ささやかな出来事

職場では、私は寡黙な方ではあるが、それなりに人間関係はうまくいっていると思う。とくに深く親しい間柄の同僚はまだいないけれども、とくに問題をかかえず、主に日常的な出来事についてはちょっとした会話をしたりしている。

その中で、1月のはじめあたりに趣味の話になったとき、(実際はそのとき全然本を読んでいなかったけれども、いくらか前にハマっていた作家として)私は東野圭吾が好きだといった。そうしたら、同僚の一人が、道尾秀介という作家が面白いと勧めてくれた。

その数日後、その同僚が道尾秀介の『カラスの親指』という長編と、『鬼の跫音』という短編集を貸してくれた。

正直なところ、そのころは一定量のテクノロジー犯罪被害があり、脳機能を著しく低下させられていたので、本を読むのが気が進まないというのが1年近くつづいて、読書に対する関心と情熱をほぼ失っている状態であり、本を借りても読めるか読めないか…、あまり気が進まなかった。

でも家に帰って、折角借りたのだから読まないと、という半ば義務感のようなもので『カラスの親指』を読んでいたら、だんだんと小説に引き込まれて、面白くなり、脳機能が低下しているなかでも、どんどん小説の世界に入り込んでいって、非常に楽しみの多い読書体験ができた。

失われた読書への情熱…もう本はしばらく読めないだろうという諦め…
読書に対してはネガティヴになっていたその頃であったが、借りた本を読んだことで、読書が非常に有意義で楽しい体験であることを思い出し、また脳機能が低下している中でも難しくない小説であればけっこう読んでいけるものだと気づき、『カラスの親指』を読了したあと、これから読書を再開しようと思い立った。

そして何冊か読んでいくうちに、今年は小説100冊は最低でも読もうという目標ができた。実際に目標を立ててみると、思ったよりも読書が進み、この3ヶ月半のペースでいくと100冊は年間読書冊数が軽く超えることになるくらい、読書に熱中している。

そして色々と本を読んでいると、はるか昔に眠ってしまった読書への情熱、ものを書くことへの情熱が、思い出されてきて、評論家や作家を目指して読書と勉強と文筆に励もうという意志が芽生えてきた。ここ1か月はテクノロジー犯罪被害がだいぶマシになっているので、毎日何時間も言語活動に取り組んでいて、目標を目指して有意義に過ごせている。

本を借りる前の去年からは考えられないくらい、熱中して取り組めるものを見つけられて、毎日が生き生きとしてきている。テクノロジー犯罪被害で絶望し半ば人生を諦め、精神活動も停滞していたのを、一気に破壊してくれ、評論家や作家になりたいという夢、読書や物を書くことの楽しみが多い希望にあふれた意義の深い生活を、呼び覚ましてくれたきっかけは、職場の同僚が道尾秀介の本を貸してくれたことだったと思う。

人の無意識には夢や希望や情熱が眠っている。若いころに持っていたもので忘れてしまっていたものであったり、本人さえ自覚せず生の底に芽生えて胎動しているものであったり、現実に抑圧され眠りについているがその人の本分であることを全うしようとする情熱であったりが、だれしもどこかにはあるかもしれない。日常世界の些細な事柄も含めて色々なことに心が開かれていたら、そういう夢や情熱を呼び覚ますトリガーとなるような出来事というのは舞い込んできて、それらが復活して、生を意義深いものへと変化させる可能性はある。

同僚が本を貸してくれたら読んでみよう。なにか頼みごとをされたら引き受けてみよう。誘われたら行ってみよう。仕事で新しいことにチャレンジできる状況になったらやってみよう。ふと昔の友達から連絡がきたら会ってみよう。忘れてしまった何かを彷彿とさせるような出来事に出くわしたら、そっちに少しでも寄ってみよう。そのように些細なことであれ、日常で起こったちょっとした出来事に対して心を開いて、それについてのことを実行することが、人の人生を大きく変えるきっかけになることがある。物事を好転させる機会や可能性は日常世界のあちこちに偏在しているから、開かれた姿勢でいることの重要さ。

私は本に関することの情熱を、その1月の本を貸してくれたという出来事によって、俄然とりもどした。借りたものを読むことを拒絶せず、読むことに取り組んで本当によかった。昔は読書や著作活動をライフワークにしようという意志をもっていた。それが復活した。職場で本を貸してくれたというささやかな出来事が、私の人生を変えることになるのかもしれないと思えるくらいに。

スプートニクの犯罪者

村上春樹の『スプートニクの恋人』を読み始めた。

昔から村上春樹は結構好きだ。それなりに好き。月に一度は立ち寄る好みの音楽が流れている喫茶店くらいには好き。ファンというほどではないけど、年に1~3冊ほどは読んでいる気がする。話の筋が好きと言うわけではないけど、文体とか、書き方とか、比喩とか、文章にところどころ顔を出す独特の感慨とか、雰囲気とか。





それで、昔一度は読んだことある『スプートニクの恋人』を手に取って再読しはじめたのだが(ふと昔旅行に行った時のついでにいった町が素敵だったので、なんとなく足を運んでみるみたいに)、冒頭のすみれの恋に落ちたことの形容に、一気に引き込まれ、魅了され、どんな話がはじまるだろうと(最初に読んだのが10年前だったのでほとんど忘れていた。覚えていたのは主人公が切符をよくなくすようなロマンチストということくらいだ)わくわくしながら、読む心のなかに、小説に書かれているような竜巻が、ささやかにでも発生し、(止まらない風の中で方向感覚さえ失った蝶のように)俄然虜になった。

そのとき…
テクノロジー犯罪加害者が私を遠隔操作した。まるで嬉しいことがあった日の元気な少女がベッドでキャッッキャしてるかのように、顔に手を当てさせられ、脚をバタバタさせられ、ベッドの上を転がされ、うきうきした気持ちを増幅させられ、うぅーー! と言わされ、口の皮膚が千切れそうなくらい満面のニコニコ顔をさせられた。

テクノロジー犯罪加害者は、思考盗聴、いや正確に言うと感覚や感情まで精細に盗聴しているが、とにかく私の心の動きを体験して、それでウキウキ感が写り、このような遠隔操作をしてきたのか? 気まぐれに、AIが非常に嬉しがるような動作をさせるよう、スイッチを入れたのか? それはわからないが、とにかく私は少女が狂喜したかのように嬉しい気持ちを全身で表現することを強制された。

それはそうと、スプートニクというのは、ロシアが人類発の衛星打ち上げを行ったスプートニク計画において、「付随するもの」という意味のスプートニクが名前として用いられ、転じて衛星の意味になった言葉だ。テクノロジー犯罪の加害装置が一体どのようなものであるのかは不明だが、自室だけでなく、通勤の電車、バスでの移動、ビルの20階の職場、遠方への旅行での新幹線、登山しているときの山の全ての場所、海を船で渡る時のはるか沖のほう、スカイツリーの展望台、飛行機内、パリのエッフェル塔、ロンドンの市街地や繁華街のあらゆる場所、富士山の山頂、とにかく全ての場所で被害を受けるということを考えると、人工衛星が加害装置として候補に挙がる。

人工衛星からやられているとしたら…地球上逃げ場がないな。
とにかく逃れようのない被害というのは、蜘蛛の巣に捉えられた蝶のように、つねに意識が何者かに捉えられてしまっているが、たまに『スプートニクの恋人』の冒頭のように、それをわすれるほどの竜巻が起こり、私の意識を自由な活動へと攫ってくれるから、読書はとても精神衛生上いい。

被害を受けていることを数時間もわすれさせてくれた『スプートニクの恋人』。村上春樹の文章というのは、独特の抵抗のない連想のとめどない連続、不可思議なくらいの流麗さがあり、意識に淀みない流れを作ってくれ、その流れが小説の世界だけを流れるようで、色々な悩みを含んだ時間を意識させなくしてくれる。

今年は色々な小説を読み、少しでも被害を忘れていよう。

ラクガキ (※不気味・Sensitive/Nudity・グロ注意)

数年前~今日、描いた落書きたち。 ※センシティヴ・グロ・性的表現あるので注意です※  耐性ある方は、  ↓Click↓