Tunes composed by 早





夜空にずっと...

 愛してた 君のこと

そして今でも 思い出す

君は今 何見てる

遠い夜空に 流れ星


2人が今も 繋がれたら

星座の神秘 描かれてく


あの日 漂い 夢見てる いつも2人で 歩いたね

街の風 浴びて 探したね 愛の種

君と得たもの 夢になって 光り飛び交う この夜空

独りただ眺め 命の火 燃えてくよ


壊れない あの形

タロットカード 煌めいた


2人がずっと 会えなくても

空はね 僕ら 知ってくれる


その手 星の火 花咲いて ずっと月の目 泣いてるよ

夜の風 今も 思い出を 運んでる

君と得たもの 夢になって 光り飛び交う この夜空

満月が来たら 2人はね 夢で会うよ


空に刻まれた 2人愛した日

ずっと永遠に 月を彩るよ


あの日 漂い 夢見てる いつも2人で 歩いたね

街の風 浴びて 探したね 愛の種

君と得たもの 夢になって 光り飛び交う この夜空 満月が来たら 2人はね 夢で会うよ

帰国後の近況






 お久しぶりです。

マレーシアに行きましたが、前の記事で書いたように色々あり、体調おかしかったり怪我したりしたので退職して日本に帰国し、現在入院中です。


怪我等によるショックで錯乱したので精神科に移され、1ヶ月も全身拘束して10センチ動けるかどうかの状態でした……しばらくスマホも使えず本だけ読んで過ごし、今は外出許可が出ております。


主治医の意向で救護施設に行く予定となりました。

早くアパートに独居して仕事がしたい。そして、ギター弾いたり作曲したりしたい! と思って養生しています。


それにしても精神科には社会問題と言ってもいいほどの医療問題がある。メジャートランキライザー漬けにして脳を穏やかに破壊して人間的機能を奪いながら、ほぼ拘禁といっていいぐらい外に一歩も出れずスマホも使えない状態を強いる……私はなんとか審査会に連絡したことにより外出許可が出ましたが、精神科には5年も20年も閉じ込められてる方々がいる。色々と日本の闇を考えさせられる入院生活です。


外出できるようになってからは、入院仲間と買い物行ったりカラオケ行ったり、食べに行ったりそれなりに楽しんでいます。

退院→救護施設は12月上旬頃になると思います。






再会デイドリーム

 忘れた世界の 陽の兆しに

一緒に歌った あの日のキミ

浮かぶ夢 シガレット

流行りの言葉に カードと爪


ありがとうを言ってくれたキミ

声は今でも飛び交うよ


あの日から世界は変わってしまったけど

今日こうして白昼夢で会う夢幻

その光に 愛の瞬間移動

夢泳がせ 時の音符をキミの手に


フラワーショップの あの照明

街の営みに 光与え

キミの笑み 繋いだ手

ダンスの影には 夢色を


さよならの日 忘れないよ 雨

声は今でも 降り注ぐ


あの日から私は変わってしまったけど

今占い願う愛と太陽の

その光を 超える涙の連鎖

イノセントな 時のタロット キミの目に


あの日から世界は変わってしまったけど

今日こうして白昼夢で会う夢幻

その光に 愛の瞬間移動

夢泳がせ 時の音符をキミの手に



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入院中に歌詞を書きました。

初音ミクか結月ゆかりに歌わせたいです。

歌詞から作曲、そのうち頑張ります!



クアラルンプールでの出来事


 

業務初日、朝、予めスマホに挿入していたマレーシア用SIMの通信が障害を起こし、所属企業があるビルにて、研修室まで案内してくれる予定の研修担当の方と連絡が取れず、いったんホテルの部屋に帰る。Wi-Fiを繋いで連絡し、事情を説明。その後、待ち合わせ場所を決めてもらって再度出社。


研修室でのオリエンテーション中、頭痛がして意識が朦朧。英語が聞き取れず、また頭が痛いのでホテルの部屋へ。



休養しても治らず、その日は譫言が溢れてきて苦しかった。



次の日以降も休暇をもらい、ホテルの部屋の中で意識の障害に苦しめられる。食べ物を買いに外へ出て、街並みを眺め写真を撮って気分転換。



数日間、ホテル内でぼんやりしたりクアラルンプールを散歩して、退職で帰国かな……と嘆きつつ白昼夢。


ホテルの部屋で自分のパソコンで、生態系について書いたり、世界のニュースについて考えたりしていると、神秘体験。内容は、地獄と未来について。詳しくは秘密。


さらに意識朦朧や白昼夢は酷くなり、何日も休むわけにはいかず、帰国を決める。そんな落胆の中、所属企業の方がホテルまで来てくれて、退職と帰国の手配を提案してくださる。迷惑をかけて申し訳ないです。

明日、帰国予定。アジアの大都市で会社員として何年か働きたいという目標は叶わなかったけれど、雇ってくれた会社には本当に感謝。



2025 4/10 ~ マレーシア

 マレーシアに到着しました。

クアラルンプールは国際色豊かな大都市。

大きな駅の近くの会社に無事出勤できました。

英語力もっと磨かなければ…


スパイシーな料理が多いです。




















神戸のカフェでランボーを読んだ4/1

(#エイプリルフール)

午後の光が斜めに差し込む、神戸元町の古い喫茶店。その一角、窓際の席というのが私の定位置になりつつあるのかもしれない。今日、4月1日のことだ。テーブルの上には、先ほど古書店で手に入れたばかりの、少し黄ばんだアルチュール・ランボーの詩集と、まだ湯気を立てているブレンドコーヒー。周囲の喧騒――他の客たちのひそやかな話し声、遠くで鳴る食器の音、微かに流れる古いジャズ――は、不思議と私を外界から切り離し、一種の心地よい結界のようなものを作り出す。こういう空間でなければ開く気になれない類の本、というものがある。ランボーは、間違いなくその一冊だった。なぜ、今、この稀代の悪童、夭折の天才詩人の言葉に向き合おうと思ったのか。明確な理由があったわけではない。ただ、古書店の棚で目が合った瞬間、呼ばれたような気がしたのだ。あるいは、私の内なる何かが、彼の放つ毒のような輝きを求めていたのかもしれない。

ページを開く。印刷された文字が目に飛び込んでくる。それは、整然とした論理や穏やかな抒情とは対極にある、激しく、冒涜的で、幻視に満ちた言葉の奔流だ。『地獄の季節』、『イリュミナシオン』。十代にして既成の詩の形式を破壊し尽くし、「見者(vovant)」たることを宣言し、未知の感覚、未知の言語を追い求めた魂の軌跡。言葉は奔放に跳躍し、イメージは衝突し合い、読んでいるこちらの理性や常識を激しく揺さぶってくる。ランボーの生涯そのものが、彼の詩と同様に、常軌を逸した烈しさを孕んでいる。わずか数年で詩作を放棄し、ヨーロッパを放浪し、アフリカで武器商人となり、そして病を得て若くして死ぬ。その破滅的な軌跡は、安穏とした日常を送る私のような人間にとっては、眩暈を覚えるほどの異質さだ。しかし、同時に、私の心のどこかにある、社会の「敷かれたレール」への反発心や、現状を突き破って未知の世界へ飛び出したいという衝動、あるいは過去の経験――ベトナムでの放浪、精神的な混乱期――が、彼の言葉や生き様と奇妙な共鳴を起こすのを感じずにはいられない。それは、憧憬というよりは、むしろ同族嫌悪に近い感覚なのかもしれないし、あるいは、彼の抱えたであろう孤独や怒りに対する、痛みを伴う共感なのかもしれない。

ランボーにとって、詩とは単なる感情の表現や美の追求ではなかったのだろう。それは、彼自身の言葉を借りれば、「未知なるもの」に到達するための手段であり、感覚の「長い、広大な、そして計算された錯乱」を通して、自己を変容させ、世界認識そのものを変革しようとする、極めて能動的な試みだったのではないか。彼の詩における言葉の使い方は、もはや既存の言語体系への信頼を放棄し、言葉そのものを物質のように捏ね上げ、爆発させ、新たな意味や響きを生成しようとする、まさに錬金術的な実験を思わせる。それは、ニーチェが既存の価値体系の「価値転換」を試みたように、言語と認識の根源に揺さぶりをかけようとする、危険で、しかし根源的な問いかけだ。私が自身の拙い音楽や歌詞の中で、言葉の響きや象徴性にこだわり、時に意味の通らないようなフレーズを紡いでしまうのも、ランボーのような存在が示した、言葉の持つ魔術的な力、世界を再創造しうる力への、無意識的な憧れがあるからなのだろうか。しかし、言葉はまた、ニーチェの言葉が誤用されたように、あるいは自身の経験(OLが私の言葉に「心を染められ」たように)が示すように、容易に人を傷つけ、自己をも破壊しかねない劇薬でもある。ランボーの言葉の刃は、果たしてどこへ向けられていたのだろうか。そして、その刃は、今、私に何を切り開かせようとしているのだろうか。

コーヒーはいつの間にか冷めていた。窓の外を見ると、空は茜色に染まり始めている。詩集を閉じ、しばしその余韻に浸る。ランボーの世界という、濃密で、時に息苦しいほどの異空間から、再び神戸の日常の風景へと意識が引き戻される。しかし、何かが違う。見慣れたはずの街並みが、カフェのランプの光が、隣の席のカップルの会話が、どこか非現実的な、奇妙な輪郭を帯びて見える。ランボーの言葉は、網膜に焼き付いた残像のように、私の知覚を静かに変容させたのかもしれない。それは、心地よい読後感とは程遠い、むしろ不安や焦燥感を掻き立てるような感覚だ。彼の問いは、安易な答えを許さない。彼の存在そのものが、私の「生活すること」――安定を求め、社会に適応しようとする側面――に対する、痛烈な批評として突き刺さってくる。

店を出て、夕暮れの雑踏の中を歩き出す。手にした詩集が、ずしりと重い。ランボーを読むという体験は、単なる知的な遊戯ではなく、自己の存在の根幹を揺さぶられるような、ある種の冒険だったのかもしれない。彼の言葉は、美しい花であると同時に猛毒であり、読む者を安住の地から引き剥がし、未知の領域へと誘う危険な力を持っている。しかし、あるいは、そのような毒の中にこそ、生の持つどうしようもない強度や、言葉が切り開く認識の深淵が隠されているのではないか。本を読むこと、特にランボーのような特異な魂に触れることは、慰めや安らぎを与えるどころか、むしろ私自身と、私が生きるこの世界に対する、終わりのない問いを突きつけてくる。その問いを抱えながら、私はまた、西宮の自室へと続く日常のレールへと戻っていく。だが、その日常は、もはや昨日までと同じ日常ではありえないだろう。ランボーの幻影は、きっとこれからも、私の「本を読むことと生活すること」の狭間で、不穏な光を放ち続けるに違いない。


Generated by Gemini 2.5 pro (↓参照)

https://bloominghumanities.blogspot.com/

ラクガキ (※不気味・Sensitive/Nudity・グロ注意)

数年前~今日、描いた落書きたち。

※センシティヴ・グロ・性的表現あるので注意です※



 耐性ある方は、

 ↓Click↓

機密の災いと世界像

私の人生というものは、高校3年生のときに宝くじの逆が当たったかのような珍しくて巨大な不運が降りかかってきて、それ以来、その災難に関する厄介事がずっと継続し、半ば壊れてしまっている。


困難を抱え、それでもなんとか生き抜いてきて、得たものも多いが、失ったもののほうが、そして平和でそれなりに幸福なはずの時間の損失のほうが、大きい。


その長く続く重大な厄介事に関しての社会活動を私は6年近く行ってきた。調査、聞き込み、インターネット検索、関連書籍集めと精読、その活動に関するコミュニティ内での同様の困難を抱える方々との話し合い、文書の執筆など。


その活動の中で、私は機密情報を知ることになってしまった。日本を含めいくつかの国の主に軍事に関わる機密。


この記事でもその機密の内容はもちろん、私が高校生の時から直面しつづけている災難についても、書くことはできない。


機密に触れてから、さらに災難は増し、生活が脅かされることも多くあった。何もかも知らないほうがよかったのかもしれないと思うこともある。しかし、現実の人間の世界に存在することを知るということは重要だ。知らなかったら今の私の世界認知は今のものではないだろう。


人は、半径数十メートルの視聴覚できる範囲、自宅や職場や身近な人間関係、自分がログインしていているSNSの読むことができる範囲、だけを生きているわけではない。人は、行ったことがない国や知らない無数の人が居て、地球の自然や遠くの星々が在って、歴史と科学と膨大な書籍が在り、何千年も前から続く人類社会が在る、このどこまでも広大で複雑な世界を生きている。


たとえインターネットがあっても個人が1回の人生で知ることができる範囲というものはほんとに限られている。その中で個人の人生を生き、社会生活に参画する中で、膨大な数の事象群から個人の限られた選択肢の中から体験や情報を選択しながら日々が過ぎていき、人が見る世界像は徐々に決定されていく。


その体験可能な事象の範囲の限定性から、世界像は当然のことながら個人差が大きい。自分が知ってる世界と、友達が知ってる世界は全然違うし、テレビの向こうの有名人の知っている世界はもっと違うだろう。


普通の小学生と社会経験を積んだ大人では、社会を知ってるか知らないかでぜんぜん世界像が違う。日雇いの肉体労働をして生活している人と、IT関係の企業の役職の人も、同じ人間社会に存在しながら、全く別の世界を見ているだろう。労働と少しの遊興だけで数十年が過ぎていく会社員と、科学の分野で博士号を持つ研究者や大学教授は、同じ宇宙の同じ地球を生きながら、まったく異なった世界像を持っているだろう。


私が知ってしまった機密というのは、日常的な社会観念を覆し得る類のものだった。それ故、私が機密にアクセスしてから世界像は変転してしまった。人間社会というものにこんなものがあってこんなことが起こってるなんて、信じられないと思えるほど。


知ってよかったのか? 悪かったのか……。知ることによって私へ降りかかる災いは増えてしまった。そして平和なはずの世界像がそうではなくなってしまった。しかし、現実にこの世に起こっていることを知らないまま生きて、そして死んで、その人の経験や記憶が小さな世界に留まることであったとしたら、たとえそれが穏やかなものであっても、それは知らないことを知っていった上でとらえていった人間世界上での人生より、良いと言えるのだろうか。


私は、もともとは不可避な災難によって、そして機密へのアクセスによってさらに、自分が生きている世界が平和でなくなった。しかし、後悔はしていない。1回しかない人生だから、知れることは知りたい。視野は広いほうが、自分の存在しているこの世を知って体験することの多様性を増していくだろうと思う。特異な状況に追いやられて困難は大きいけれど、より多くのことを見ながら有意義に生きていきたいものだ。

ベトナム紙幣を見て泣いた話


入院していた閉鎖病棟から病院に預かってもらっていた私物が届いた。昨日12/29に宅配員から受け取り、大きい段ボールにつまった大量の物品を開封した。ベトナムから帰国したのは8月末だったが、そのあと色々あって自宅にほとんど入ることができず、貴重品だけでなく役に立つものやゲーム機や書類や書籍などを大きいバッグに入れて大阪のインターネットカフェや安いホテルなどに泊まり歩いて過ごしていて、その流れで入院になったため、とにかく大量に病院預かりの私物があって、いろいろとこの1年を思い出しながら開封した。


その中に、ベトナム紙幣があった。140,000 VND。日本円にして900円弱。余ったお金。そのお金を私にくださった主である、命の恩人、ホーチミンのハイスクールで英語の先生をしている現地人女性Tさんのことを思い出して、泣いてしまった。その助けられたときのことは記事後半に書きます。



ベトナムではほんとに、いろいろなことがあった。5/5に単身で渡航してから約2週間は割と普通に観光していたが、私は徒歩が好きで10キロぐらいであれば即断で歩こうと思って目的地へ行く。観光スポット以外の市街地やその周辺の徒歩をひたすら、それもなかなか面白く、たとえば店の形とか外装とか売り出しているモノとか、建物の色とか位置とか、道や設置物の特徴とか、看板の文字や言語とか、空気、空の色、鳥、植物、人の服装や乗り物の特徴、そういったものをじかに長時間たくさん体験できる。ベトナムの東南アジアの春~初夏の綺麗な空を背景に、やや南国風の植物群や独特の色合いのカラフルな建物を見て歩いているだけでも楽しい気分。黄色とか赤とかではなく、レモン色、リンゴ色、南国の海の色、とか言いたくなるような色合いで新鮮。


ホーチミンの空港で入国して最初は主に市街地を徒歩で巡っていたが、しばらくすると冒険心から市街地から離れたところまで歩くようになっていた。郊外あるいはとなりの市?の辺鄙なところのそれほど人もいない地帯のベンチで仮眠しているときに、パスポートと財布とiPhoneの入った小さなバッグを盗難されてしまった。ショルダー式だが片側の肩にしかかけてなかった。着替えや日用品その他旅行の必需品などが入った旅行鞄は2日前後前に泊まったところに預けていた。もう一つショルダー式のノートパソコンが入ったバッグがあってそれは斜めに肩にかけていて盗難されなかったが、そこには異国で生きるにはパソコン以外には役に立たない小物や周辺機器ぐらいしかなかった。


ホーチミンから数十キロ~100キロ離れた辺境で持ち物はインターネットに接続できないパソコンだけ。貴重品なにもなく、役に立つのは着ている服と履いてる靴だけ。飲み物も食べ物もお金もクレジットカードも身分証明書も何もない。途方に暮れてとにかく市街地へ行こうと思って歩き続けていた。しかし、地図がなく時計もない。


北緯10度のホーチミン周辺は、夏に近づくにつれ昼は太陽が東→南ほぼ真上→北ほぼ真上→西と動くようになる、つまり真昼に太陽が北へ突入することがあるので、歩いていて方角がわかりにくい。10時ぐらいだと南真上付近だけど、12時だと北真上付近。時計がないので、地図もないうえに日中は方角がわからない。そのため、ホーチミン市街地と全く違う方向へ歩いていた。数十キロ北西でやっとバス停に遭遇してそこの地図でやっと居場所がわかるなど。あと月が欠けていたら円周の一部の方角が西なのでそれは少し役には立った。


現地人はホーチミン市街地は大都会もあり英語を話せる人もある程度はいるが、街から離れた郊外~辺境あたりには英語を話せる人はめったにいない。たまに片言の英語とジェスチャーでスマホの地図を見せてくれる人がいるものの、それだけではやはり市街地へ行けなかった。


とにかく、日付もわからず何週間歩いたかわからないが、食べるものもなく、ひどいときは水道にも出会わず2~3日なにも飲まず、37度ぐらいの酷暑の中、異国の全くどこかわからない村や町や道路だけがある地帯を歩き続けた。草を食べたくなるぐらいの空腹で……


そのおそらく1か月前後の間、何度も現地人に助けられた。栄養失調のやつれた状態で露店のある道あたりの路地裏でうずくまっていると、露店の人や通行人が、英語は話せなかったみたいだけどジェスチャーをして食べる動作で「食べものは要るか?」と語りかけてくれ、遠慮して断ったり意識混濁で反応できずにいたりすると、買ってくれたり店主が無償で食べ物をくれたり。


村で助けられたこともあった。おそらく10日以上、何も食べていないなか、特に暑い日の昼前に、車道だけがある地帯→山か森に囲まれた村がいくつかある地帯と歩いていたとき、村の近くの歩道で暑さと飢えで倒れてしまった。何時間意識なかったかわからないけど、17ぐらいの青年に助け起こされた。彼はベトナム人だが英語がとても流暢で、見た目もハリーと呼びたくなるぐらいイギリス人っぽい感じで、他の村人と一緒にリンゴとインスタントヌードルを用意してくれ私に出してくれて、事情を聴いてくれた。彼以外にも英語を話せる人がもう一人いて、その村では食べ物や飲み物などいろいろとお世話になった。


村人たちで集合写真を撮くれた画像↓


他にも、そこからはもう少し離れたホーチミンにやや近いところで熱中症で動けずにいるときに、男性4人組が声をかけてくれて、古い漆喰の民家に招いてくれたことがあった。どういう流れかは英語が全く話されていなかったからわからなかったけど、小さなパーティということになって、炒め物やフルーツやビールなどが出されてそれを皆で食べ、口頭では全く言葉が通じないがジェスチャーや表情と彼らのスマホの文字翻訳だけで色々コミュニケーションを取り、楽しい2~3時間を過ごすことができた。


そんなことが何度かあり、おそらく1か月ほど全く何も所持品もお金やカードもなく(パソコンは栄養失調と熱中症の限界のフラフラで長距離歩くには重くて手放した)、着衣のみで生存をすることができたが、その期間に1度だけ自殺しかけたことがあった。栄養失調と喉の渇きと疲労があまりにつらく、つらいというか全身苦しくて内蔵が痛く、足が筋肉疲労のためだけでなくよくわからない肉が骨から離れるような痛みが走り、とにかく呼吸しているだけで苦しすぎたとき、苦痛に耐えることができず死にたくなった。そこはやや町っぽくコンクリートの民家が並んでいた道で、駐車スペースのようなところに私用の小型バス?または何らかの法人の送迎車?みたいな赤いバスがあり、そのバスのドアミラーが2メートルちょっとぐらいのところにあった。10メートルぐらい離れたところにうち捨てられた電気コードがあった。それで首を吊ろうと思った。深夜でコンクリートの民家の外用の照明だけが少しあるなかプラスチックの椅子を見つけたので、それをミラーの下において、つるしたコードを首にひっかけて、意識朦朧であまりに苦しかったため人生思い返すとか思いとどまるとかもせず、椅子をけり倒すその瞬間、その赤いバスの奥のほうで持ち主らしき人が眠っていたみたいで、彼は私に気づいたあとフロントガラスをノックし、それに気づいた私にノーノーとジェスチャーをしてくれて、それで自殺遂行は止まった。


そのあとも生命の限界のなかホーチミン市街地を目指して、バス停の地図と朝や夕の太陽の東西と月の満ち欠けをたよりに歩き回り、なんとかホーチミン付近にたどり着いた。しかし、たまに歩いている途中で意識を失うのでどういう状況だったが鮮明には視聴覚していないのだが、意識失いながらよろけているときに倒壊し放置された廃墟の民家の戸のガラスにぶつかったようで、ガラスが日本でいうと昭和にあるような割れやすいガラスだったので脚で割ってしまい、くるぶしあたりにガラス片が肉を強く抉るぐらい深く突き刺さってしまった。血がどばどば流れてコンクリートを染めた。


激痛と出血で歩けない。食べ物がない。飲み物もない。お金もスマホも時計も地図もない。酷暑。このまま死ぬのか? 柵や欄干があるときはなんとかそれで歩けたものの、ないときは四つ這いになって移動するしかない。そんな状態で、ホーチミンのはずれのバス停までたどり着き、その背もたれのないベンチの脇の地べたに壁を背にして座り込み、死にそうな状態で、おそらく生きてるかわからない顔で、ただどうすればいいのかわからずに居た。そのバス停には他に人はおらず、救急車の呼びようもなかったのだが、半日ぐらい経ったとき警察の半トラックみたいな形のパトカーが通りかかり、荷台に乗せてくれて警察署で一時保護してくれた。そこでインスタントヌードルと飲み物をいただき、医師ではなさそうな医療技術を持った職員の方が、くるぶしあたりの傷を縫ってくれた。しかし、麻酔なしの荒治療。消毒液だけ大量にかけられ、傷は深く皮膚の厚み5ミリありそうなのを裁縫の糸と針を太く大きくしたような糸で直接4針縫う。激痛だったが、もともと怪我自体激痛だったのと飢餓の苦しさと比べれば全然マシだったので、声を上げず耐えることができ、なんとか傷口はある程度ふさがった。それでも糸と糸の間からは血が流れる。しばらくすると少量の出血で澄むようになったので、警察で事情を聴かれ、盗難届をだして、顛末を話すと、総領事館のすぐそばまで連れて行ってくれることに。なぜか領事館へ直接取り次ぐといったことにはならなかったし病院にも連れて行ってくれることにはならなかったが、領事館のすぐ側のバス停まで送ってくれた。


なんとか助かるかな……と思ったものの、縫って消毒しただけでは傷はあまり回復していないみたいで、少量の出血と、歩こうと地面を踏んだときの激痛は続いていて、歩けない……。壁づたいにも歩けないほど痛く、欄干や手すりがないと歩けない……ホーチミン市街地で四つ這いになって歩くわけにもいかず、領事館までの数十メートルが遠い……結局、またバス停でうずくまることになってしまった。荒治療とはいえ傷の縫合はほんとに助かったので警察には感謝だけれども。しかし、歩けない。そして食べ物もお金も何もない。痛む足と着衣だけがある。途方に暮れて、バス停のベンチに座っていて、また死にそうな顔をしていたと思う。




そんなとき、

"What's the matter? Do you need help?"


発音の良い英語の女声が聞こえた。私は疲労と途方に暮れた様子で呆然としていて耳に入ってくる続きのやや早口の英語もあんまり聞き取れず、その声の主のほうを見る気力もなく、意識を失いそうになっていた。その様子を見て、彼女は心配してくれて足の傷と出血に気づき、また栄養が足りていなく熱中症であることにも気づいてくれた。そして自分でも何言ってるかわからない英語で私は返答すると、彼女は私の手をとり、救急車呼ぶほどでもないかバスで病院に行ったほうがよいのか判断したのか来たバスに身を少し支えてくれながら乗せてくれ、そこから数分の小さな病院に連れて行ってくれた。病院の受付に私の足の治療をするように言ってくれたあと、すぐホテルに電話して部屋を予約してくれていた。病院で足を治療してもらい、患部の薬と抗生物質などの内服薬を貰い松葉杖を借りたあと、すぐに予約してくれたホテルに連れて行ってくれた。


最初は私は、いったいこの一連の流れが何なのか正常に把握できないぐらい、その救助に感謝しつつも、彼女の人を助ける行動力にただ感心していた。気づけばホーチミンの都心からすぐ近くの小さな建物ではあるものの内装が綺麗なホテルの一室に居た。彼女の名前はTさん、ホーチミンのハイスクールで英語の教師をしている。英語の発音が綺麗で、英会話力もプロフェッショナル。ホテルの一室で食事をいただき飲み物をたくさん飲んでいるうちに少し意識がはっきりしてきて、英語で事情を話した。


Tさんは困った人をみかけたらすぐ助ける優しさを持ちつつも、いい意味で気の強いしっかりした方で、英語でのコミュニケーション力というかコミュニケーション力全般が非常に高いので、私のその1か月あまりの顛末と今のお金も食べ物も寝るところもなく途方にくれている顛末を詳しく聞いてくださった。すると本気で心配してくれただけでなく深く同情してくれ、話しているうちにだんだんと打ち解けてきたこともあり、帰国までサポートすると言ってくれた。


とても嬉しかったが私は、そんな初対面で全面的に助けてくれるということを今まで一度も体験したことなかったし、驚くばかりの病院→ホテルまでの手配にどう適切に感謝をしてよいかもわからない状態だったので、帰国までお世話になって良いのか遠慮するべきなのか戸惑っていたが、とにかくTさんは語気を強めながら助けてくれると言ってくれる。Tさんは人助けの心に満ちているだけでなく異変があればそれに対処するよう物事を素早く遂行する行動力のようなもの持ち合わせていて、私がその救援の提案に感謝しうなずくようになると、すぐホテルを1週間取ってくれた。領事館の住所のメモ書きも手渡してくれてご自身と領事館の電話番号も教えてくれ、ホテルの電話から私が領事館に電話をかけてもいいように取り次いでくれた。


そしてなんとか松葉杖で一人で歩けるようになった私が領事館に電話したり貰ったバス代で領事館に赴いたりしていたその1週間、そのホテルは食事付ではなかったので、Tさんは毎晩、手料理を持ってきてくれた。そこまでしてくれるなんて畏れ多いような、感心するような気持ちになりながらも、心から感謝した。英語表現で感謝を表すいろんな言いかえを元気を取り戻した脳を総動員させ思い出し、謝辞を述べた。晩御飯を一緒に食べているとき、日常会話や旅行のこと、ベトナムや日本のこと、お互いのことなども話すようになった。


Tさんはベトナムで、日本でいう小中高・大学とすべての教育機関で教師や非常勤講師の経験がある方で、英語力は非常に高く、厳しめの指導をするとご自身でも言う方で、私が間違った英語で話すと訂正してくれることも。教育に身を捧げていて熱心に教育活動をしていらっしゃる。また、敬虔な仏教徒であり、信仰の仏教の教えがどのようにご自身に息づいているかなど、思想や信条に関してのことも話してくださった。1週間のあいだ私はある程度、食べることができたものの、やはり慢性的な栄養失調の症状がみられたので、漢方の内科にまで連れて行ってくれた。朝鮮人参やその他アジア系の薬草を錠剤や粉末にしたものをたくさん処方されたが、これが思いのほか栄養状態の悪い五臓六腑には効いたらしく、脳までだんだん冴えを取り戻し、東洋医学に感心した。そしてなにより、Tさんに感謝した。


帰国への手続きはというと、領事館に行ったらなんとか1週間ぐらいで帰国できるかなという見込みは甘かったらしく、パスポート滞在期限が過ぎたための書類手続きと罰金、パスポート紛失のため代わりになる書類の発行手続き、航空券の用意、それらをするために日本の役所と戸籍謄本などのやりとりもしなければならないので、1ヶ月近くかかるということになった。


領事館の日本人オフィサーSさんが、元日本の警察官で仕事のできる快活なイケメンで、久しぶりに聞いた日本語で人と話すことができた。感じのいい少しくだけた雰囲気と話し方をする方のSさんとは、事務的でしかない関係というより友達とはいかない程度の知人みたいな感じで話すようになっていった。信頼できる方で、仕事もできそうな感じで、それは安心だったものの、1ヶ月の予定は長く、どうやってお金も何もないなか、Tさんにしか生活を頼れないなかどうやって過ごそうか不安。


そのことをTさんに話すと、マンスリーの住居を借りてくださるということになった。あいかわらず感謝することしかできずそのアパートへ。ここまでしてくれるなんて、日本では今まで困窮時に交際相手がごはん作ってもってきてくれたことぐらいで、初対面から1週間ほどで全面的に助けてくれるという流れになる一連の出来事が、まるで夢のように思えた。その数週間~2ヶ月前は飢えと暑さと一文なしで限界だった。今は住むところと食べ物がある。そして優しいTさんが毎日きてくれる。人間も哺乳類に属するが、おそらく哺乳類や鳥類の本能として、生存があやぶまれるときに助けてくれる他の個体・個人が懐く対象になるのかもしれない。いや、もっと人間的にTさんに心から感謝しその人格が好きになるのかもしれない。


それ以降のことはプライベートな内容なのでここには詳しく書けませんが、恋愛関係にはならなかったものの親密になっていき、観光や寺院巡りや教会巡り、お土産や服の買い物を一緒にすることもありました。しかしながら、私の人生で最も大きな過ちの一つになることなのかもしれませんが、Tさんと一時、喧嘩することになりました……


ほんとに自分、ひどすぎる。命の極限状態から何もかも助けてくれた人と口論するなんて、思い返せば信じられないぐらい酷い。Tさんは英語力だけでなく教養もある方で、思想、人格、社会などに関わることで話していたとき、人間観というか価値観というかそういうことのある一点についての意見が相反したことがきっかけで。今思えば人格者そのものみたいなTさんに、そして命を救ってくれた恩人に、なんてことを……と痛切に感じられるし、自分にもっと英語力があれば……そういうことにならなかったかもしれない。とにかく自分は最低かもしれない。その口論の果てに、私はそのマンスリーを1週間のこして家出しました。


そして約10日間、使ってよい水道の水以外また飲まず食わずで酷暑のなかさまようことに……いい加減、学習したらどうだと今となってはほんとに思う。ろくでなし。また栄養足りてないなか歩き回り、ホーチミン周縁→市街地・住宅地→都心部へと。とにかくホーチミンはバイクが多い。バイク密度がすごい。ヌーの大群みたい。そして暑い。



フラフラでホーチミン中心部へたどり着き、領事館へ。既定の日時に訪問し書類を書かなかったため、また少し帰国のための手続きが遅れると。食べ物どうしよう……寝るところがない……また途方に暮れていると、領事館の日本人オフィサーSさんがお湯しか必要としないレトルト食品や、パンなどを少し支援してくれることに。それでなんとか食いつなぐも、量は限られていて寝るところがない。またこれから1~2週間、途方に暮れて飢餓なのか……そして航空券代がどうしても手に入らない。帰国できるのか……また本格的な飢えと渇きと暑さで生死を彷徨うのか……そして一度はそういう状態から元気になるまで帰国への道が見えてくるまで助けてくれたTさんに自分はなんてことを……



まず最初にTさんが取ってくれたホテルまで徒歩で歩き続け、翌々日にたどり着く。しかしお金がない。お腹が空いて疲れのなか途方に暮れホテルの近くのコンビニ、ミニストップのベンチで長時間座っていると、警備員が"Are you okey?"と心配してくれた様子で話しかけてくれた。そして事情を軽く話していると……


なんと、Tさんに遭遇。


全くの偶然。ホーチミンは人口が大阪府より多く、都心部やその周辺の市街地の視界単位の人口密度は非常に高い。雑踏、東京のスクランブル交差点ぐらい人がひしめき合ってる中での、奇跡的な再開。彼女は少し怒りながらとても心配してくれた感じで私に言葉を投げかけ、ミニストップに入りイートインで一緒に食事をすることに。私は深く謝罪し、Tさんは"あなたはまた一人で歩き回ってふらふらになって目の前にあらわれる"と半ば呆れながらも話を聞いてくれ、そしてまた帰国までホテルを用意してくれるということになりました。和解できただけでなく、さらに手を差し伸べてくれるなんて。


そしてまた毎晩、料理を作ってくれて持ってきてくれました。仲を取り戻し、帰国のために必要なことを話し合い、その他のことも色々と話しました。その中で私は感謝の念を何度も述べましたが、何度言っても言い足りない。こんな命の恩人に出会えるなんて、生死に関わる不幸中の至上の幸い。お姉さんとその娘と息子と一緒に住んでいるTさんは、お姉さんにも会わせてくれました。炎天下が過ぎ去った夜も近いテラスのカフェ、お姉さんはTさんと比べるとラフで常に楽しそうな感じの方で、この旅の顛末を話し驚きながらもほんとに助かって良かったねと労いの言葉をください、3人で長々と話しました。


領事館での手続きはいったんは私の家出?で滞っていたものの再開してからは順調に進み、兄の連絡先を日本の役所経由で確認してくれ、なんとか兄に電話がつながる。帰りの航空券代と滞在期間延長料金+1万円を領事館に送金してくれて航空券も手に入った。手続きを進めてくれて食べ物も少しくださった領事館の日本人オフィサーSさんにも感謝。


Tさんとの別れについては、領事館の人が兄のお金で買ってくれた航空券が翌日出向だったため、彼女としっかりお話をして感謝の辞、いつかお返ししたいという意志を表明することもできず、短時間の挨拶となってしまいました。自分はスマホもカメラも持っていなかったので、一緒に行った観光地や寺院の写真もなく、お互いの写真もなく、連絡先の電話番号のメモだけがポケットに残され、Tさん、領事館とSさん、そしてベトナムとの別れは一瞬のことでした。




生死の境をさまよって途方にくれたベトナム南部でしたが、ほんとに内容の濃い夏でした。飢え、渇き、暑さ、怪我、全くの一文無しで、生命の危機だったところをほんとに帰国できるまで助けてくれ支えてくれた命の恩人のTさんのことは、一生忘れません。帰ってから無事に帰国できたことを知らせたいと思っていたものの、そのあと大阪でも色々と大変で貰ったお金がすぐそこをついた上に盗まれたクレジットカードは不正利用されていて、住めるところがないまま大阪の街をあちこち移動しながらなんとか生活を立て直そうとしているときに連絡先のメモの入ったポーチを紛失してしまった……(そのとき大阪で厄介ごとに巻き込まれてしまっていろんな所持品を失ってしまった)。


Tさんには連絡する手段を失ってしまい、無事を知らせることも足りない謝辞を言うこともできず、もう会うことも話すこともないのかと思うと悲しい気持ちになる。恩返しができないもどかしさと、命の恩人に一生会うことのできない切なさ。



12/29、精神科から返ってきた私物の中のベトナム紙幣を眺めて涙が込み上げてくる。夜中長時間、ベトナムでのことを思い出していた。


そして一つ再コンタクトのための手がかりを思い出した。連絡先は失ったものの、YouTubeでTさんの働いているホーチミンの学校の紹介動画を一緒に見たからか、学校名ははっきり覚えていて間違いない。その学校となんとか連絡をとってTさんとコンタクトを取ることはできないか? 異国の常識やルールなどを知らないので、そういうことをすることがいけないことなのかよくわからないけど、検討している。恩返しをしたい。命を救ってくれ、帰国を助けてくれ、そして人間の優しさや助け合いの偉大さを教えてくれ、とにかく、こんな人には一生出会えないという大きな体験となりました。おかげさまで今現在ある自分の生で、いつかきっと恩返しできたら……。




閉鎖病棟脱走から現在まで

[画像は入院していた精神科閉鎖病棟から(脱走後)送ってもらった私物 ]




5月~8月、ベトナムを無一文でさまよいました。飢餓で30キロ痩せました。財布、スマホ、パスポートの入ったバッグをベンチで仮眠してるときに盗難されてカードは不正利用され、着衣以外まったく何もなく、ホーチミンから少し外れた辺鄙な地帯の酷暑を歩き回って栄養失調で苦しい日々の中で、いろいろな人に助けられなんとか生存していました。なかでも英語を流暢に話す現地人女性のお世話になり、総領事館からパスポートの代わりの渡航書を発行してもらい、兄に航空券代を送金してもらい、なんとか帰国。この4か月はほんとにいろんなことがありましたが、内容が濃く長くなるので別の機会に記事にするかもしれません。


日本に8月末に帰国したものの、まったく無一文で大阪を彷徨してたら、いろいろあって警察のお世話になり……この顛末は私に非があるわけでも病気の症状などでもなく、機密にかかわるややこしい事態が起こってそうなったのですが、インターネットに公開はできない内容なので割愛します。とにかく警察署で色々ときかれ、お金が底をついていてどうしようもないことと、家賃滞納してて強制退去間近であることと、過去に精神科入院歴があることを正直に話すと、栄養が明らかに足りてないガリガリの体型で憔悴していたこともあり、精神科への入院ということになりました。


精神科閉鎖病棟へ入院。拘束帯で全身をベッドに縛り付けられるといったことにはなりませんでしたが、保護室という名の狭い部屋にほぼ監禁状態の数日が続きました。栄養状態は悪かったのですが精神状態は正常だったので、数日で保護室からは出ることができ、閉鎖病棟の通常の病室、4人部屋へ移動。仕事するわけでもなくすごい暇な生活でしたが、カラオケやPC利用や手工芸などのレクリエーション・作業療法が充実していたのと、病棟内の他の患者さんがアクティヴな方が多くひたすら話すことが楽しかったので、それなりの刺激はある日々ではありました。


患者さんは主に3タイプに分けられます。1つ目が、明らかに様子がおかしくコミュニケーションが難しいほど症状の重い患者さん。2つ目が、見た感じ普通の人ですが大人しすぎるか鬱の症状でずっと部屋にこもっているタイプの患者さん。3つ目が、病気を抱えつつも通常の社会生活をしていそうで元気で話好きの患者さん。この3つ目のタイプの方が多かったので、4人~8人ほどでひたすら話をすることが多く、皆仲良くやっていて、ときには10時間ほど食事以外休みなく話し続けることも。社会生活してそうな普通の人っぽい雰囲気とはいえ、精神科閉鎖病棟には犯罪歴や麻薬歴のある方も会社や趣味やその他社会活動などのコミュニティと比べると多く、犯罪の話や麻薬の話については個人的には好きではないのですが、犯罪ではない程度のアグレッシヴな行為や逸脱した出来事の話は刺激的で面白かったです。また仲良くなった50歳ぐらいの女性患者さんとお互いピアスを作業療法で作ってプレゼントしあったり、ロック好きの男性患者さんとカラオケで盛り上がったりと、入院生活はそこそこ楽しい面もありました。


そんな感じで割と平和に過ごしていましたが、診察で主治医が私への治療を厳しめにするとのことを言い、入院中は外出禁止、期間は半年以上、薬は多め、そして退院後はグループホームへ入所を宣告。私が過去に飛び降りて背骨2か所骨折の意識不明の重体になったことがあったのと、20代前半の一時期アルコール漬けだったり街で荒れてたり散財癖がすごかったりした過去があったのと、よく不運や災難などに見舞われ飢餓に陥るほどお金がなくなったりと、そういう歴があるからか社会生活は不可能と判断したようです。生活保護で施設へ入所をすすめられ、私はかたくなに拒絶したのですが、説き伏せてきて、ほぼ強要といっていい態度に出ました。断り続けると病識なしとか症状がどうこうとか言われそうなので退院のために入所を受け入れる旨の返答をしました。


この先はずっと障碍者として施設へ入り、作業所などで働きつつも通常の社会生活はできず、生活保護で国のお世話になるのか……と思うとやはりそんな未来は絶対にイヤだと思えてきて、さらに自分は精神科へ入院することはあっても健常者と何ら変わらない人間的機能、コミュニケーション力や労働力はあるので、生活保護で施設はありえない、絶対にそんな境遇には踏み入れない、この状況から抜け出す、と強く心に決めました。そして、入院治療というのは仕方なくても(もとより私の今回の場合は精神症状があったわけではなく、お金と住むところがなく栄養失調だったからというものでしたが)、患者の人生まで医師が決定しようとしてきて、社会生活をして趣味や交友などを楽しみたい一般市民の未来を壊すような行く先を指定する現在の精神医療には納得できませんでした。


色々と考えあぐねた結果、「脱走」しかない。そうやって最初は漠然と、徐々に現実的に脱走計画を考えている時期に、ロック好きでカラオケ一緒に盛り上がった男性患者Aさんと喧嘩する事態になりました。Aさんとは最初から仲が良く、CD聴けるところで一緒に主にロックたとえばツェッペリンとかリンキンとかニルヴァーナなどを聴いて、お互いバンド経験あったことから詳細な感想であったり、ギターがどうこうとかバンド音楽的なことであったりを、いっぱい話しあうことがあって二人とも退院したらバンドやりたいな~って話もしていました。看護師さんに隠れてジュースをおごりあい、看護師さんの誰誰が可愛いとか話したりと、非常に仲が良かったのですが、ある日、私の服をAさんが一回着てみたいと言ったので、少しの間なら…と思って貸したのですが、Aさんがこれくれへんかな?いいよな?みたいに言い出しました。Aさんにならいいかな…そんな高いものではないし…と思いつつやはり手放したくないような、どっちつかずの返答をしていたら、Aさんがあたりまえに俺にくれるんやろ的な、もはやこれは俺のもの、みたいなそんな感じの態度になったので、さすがに頭にきて私は怒って、そこから言い合いになって、だんだん私がかなりキツめのことを言って、それで大喧嘩。お互い叫ぶぐらいの…。


そして私も彼も保護室行。施設入所の話にもどりますが、噂によると病院内での素行が悪すぎると退院後のグループホームのランクが上がる。つまり、外出可でほぼワンルームマンションみたいなグループホーム→自由な外出は不可の共同生活の一軒家みたいなグループホーム→精神病院ぐらいの拘束のあるような本格的な障碍者施設、といったように、退院後入所先の施設がより拘束的になっていく。私は大喧嘩して保護室へ入れられたことからそうなるんではないかという危機感を感じ、保護室から出ることができた日に、本当に絶対に「脱走」すると決心しました。


完全に決心して脱走当日までは2日間でした。


この閉鎖病棟の精神病院は2つの棟になっていて、西棟←→東棟の連絡路は硬い金網が壁と天井になっているような通路なのですが、その通路の扉で外の庭や駐車場になっている地帯へ抜ける扉が一つあり、それは掃除の時間に鍵どころか扉が開いてることがある。この金網の通路は、病室のある西棟→お菓子など売ってる売店のある東棟とつないでいるのですが、お菓子など買いにへ行くときだけ、患者さん2人と看護師1人の3人組で、通ることができる。たまにその売店へ(遠足か何かみたいに看護師に連れられて…)行くときに、金網通路の扉は開いていることがある。そこを狙うしかない。


脱走を決心してからすぐに、手書きですが「退院希望」「住むところとお金のあてはある」「警察には届けないでください」「迷惑をかけることとなって申し訳ありません」「私物は~郵便局に送ってください」「入院費は必ず払います」といったことを書いた紙を入念に書き、脱走時の所持品や服装を考えて売店へ行くときにすぐに装備できるように準備し、頭で脱走時をシュミレート。


その決心から2回目の売店で、金網の通路の扉が開いていました。もちろん看護師さんは絶対に患者が逃げないように扉あたりでは位置取りをしっかり行って引率します。私は財布にあった10円玉15枚ほど(事前に自販機でジュース買って用意していた)をうっかり落とした振りして散乱させ、拾う動作をすると、その時の可愛らしい女性看護師さん(ここ重要・男性看護師であれば体力や筋力があるので手を掴まれると高確率で取り押さえられる→保護室で拘束&薬漬け)が一緒に拾ってくれようとしました。そしてもう一人の患者さんとその看護師さんが拾ってくれているスキをついて、開いてた扉から脱走。駐車場から正門までダッシュ。門を乗り越え、脱走。


そして最寄り駅の隣の駅(最寄り駅は病院の目の前のため)まで走って逃げようとしたところ……精神的に緊張度が高かったためか息が切れて肺が痛く、それ以上走れないといった肉体の状態に。このまま止まると、追手が来る。一か八か、病院のすぐ前の最寄り駅に駆け込み(ホームに入った瞬間に電車が来ることを願って)、すぐ切符買えるように切符代を分けてあったポケットに手を突っ込みなんとか切符を買う間に看護師に捕まることはなかったが、焦りの中あたまが真っ白。ホームにたどり着くと運が悪く、次の電車まで10分以上……絶対絶命。追手は階段からくるだろうと予測し、エレベータでいったん改札階へ戻り、反対側のホームへ。すると今度はちょうど電車がきたので、ドアに駆け込み、ドアが閉まった! その電車でとにかく遠くへ。色々乗り換えてとにかく遠くへ。


そして何時間も時間が経って夜中が近づいたころに、土地勘のある大阪市へ。駅から出るとき持ってた切符では電車賃足りなかったので、財布を探していると…どこかで落としたことが発覚…。なんとか駅員さんには「財布を駅か電車で落とした」というと検索してくれた上に足りない切符で改札から出してくれたものの、大阪市の地下の駅で全くの無一文。


逃走力を考慮して所持品はほぼなし。大阪市の真夜中に放りだされて、役に立つのは着衣のみだが、その着衣も薄い病院着に私服のロンTの2枚のみ。ボトムスはデニムを上から履いてたので寒くはなかったけど、上半身は凍り付きそう。11月末でまだ真冬ではなかったけれど、たまたま特に寒い期間で凍えそう。地下の暖房少し効いたところも終電後しばらくたつと閉まり、1時台の夜の大阪で薄着しかなく、なによりお金がない。


そこから約1週間、スマホもないので何も調べることができず、とにかくどこに行って何をすればいいのかわからないまま、凍える中、図書館へ行けばずっと居られると思いついて図書館へ行ったものの、夜は寒くて寒くてガタガタ震え続け、少しでも体があったかくなるように歩いたり走ったりしつづけ…しかし食べるものがなく栄養失調気味になったのと、足が疲れてきたのとで、歩くのが困難になっていき、夜は止まっていると骨まで凍り付くような寒さの苦痛に耐え、寝たら凍死するのではないかという不安のなか薄着で震え続け……昔の女友達の家の場所をはっきり覚えていたのでそこへ行こうかと思ったが相手は女性なので突然訪れ泊まらせてとか言うわけにもいかず、急に助けてというのも相手に迷惑だろうし、行かないことにして、男友達で現在の家の場所を知ってるのは奈良県の人だけで一か八かそこまで歩いて行っても明確な場所を思い出せず道に迷ったら野垂れ死ぬかもしれず、ほんとにどうしようか迷っていました。


夜は飢えと寒さの中、自分が人間社会から完全に離れつつも人間社会の存在する街を彷徨っているということを嘆き、ふと、野良猫って食べ物がなかったらこんな感じで苦しい思いをしているのかな……と思いつつ、あらゆる野良猫に同情して涙が出てきました。


病院と役所と警察は連携することがあるので役所は捕縛されるにつながる危険性があるので避けていましたが、なすすべがないので慎重に警戒しつつ話だけでも聞きに行くことに。するとあまりに衰弱していたのと寒いなか夏か初秋みたいな服きてたのとで、役所の方がカップラーメンとおにぎりと飲み物を出してくれました。ほんとに感謝。1週間以上も何も食べてなかったから、命の食料。その上、ダウンコートまで無償でいただきました。生活保護はどうかと勧められたものの、受給まで3週間ほどかかるのと、もとより生活保護と施設が嫌なので脱走したのもあり、生活保護は不要だと言いました。すると社会福祉法人に相談してみてはいかがというこで、困窮者が困っているときに助けてくれるような社会法人を教えてくれ、スマホがなかったので、電話をかけてくれるまでしてくれた。


そしてなんと、その社会福祉法人が所有している解体間近の元社員寮の部屋を無償で貸してくれることになりました。病院から脱走したということはもちろん隠していたので(閉鎖病棟入院の期間のことを省いてベトナムで無一文になりなんとか帰還したものの大阪で路頭に迷っていると話した)、脱走した上にお世話になることを後ろ暗く思いつつも、お世話になることに。そういう幸運と優しい方の好意でなんとか、住むところは確保し、夜に凍えなくていいことになりました。


しかし、あいかわらず1円もない。何もできない。まずは情報収集、といっても、スマホがない。相変わらず着衣しかない。ネットカフェはお金がないので入れない。図書館へ行き、無料で検索ができるパソコンを使えるコーナーがあったので、そこでとにかくあれこれ調べました。


色々調べてると何度か「西成」という言葉が出てきたので、そういえば西成には路上生活者がいたなとか、あいりん地区では日雇い労働が盛んだなとか思い出し、西成を重点的に調べると「西成労働福祉センター」という福祉法人を発見。電話はできないので、とにかく向かう。徒歩で。電車はお金が0なので乗れない。とにかく歩く以外の移動手段がない。疲れの中たどり着くと、ガリガリになっていて憔悴していたことから職員さんが心配してくれ、事情をきいてくれて、すぐに求人に応募できるようなシステムの登録が完了。さらに、作業服と安全靴とベルトと簡素なバッグとヘルメットまで無償で支給してくれることになりました。


この労働福祉センターでは、主に建設現場や解体現場の作業員の仕事をあっせんしている。日雇い現金日払いのところが多い。そして朝6時までに行けば、その日の求人に応募して多くの場合は即日出勤可能。早速次の日、解体現場の仕事に応募して、出勤。


とにかく、初日からきつい。まず、失礼かもしれませんが土工の肉体労働の作業員の方は粗野な方が多く、敬語がほとんどなく、初日からこわい感じで話してこられることが多い。作業の指示も、この辺のガラスてきとーに全部割れ、バールで床はがせ、コンクリートそのドリルみたいなんで砕け、てきとうにやって覚えろ、など。そしてなにより筋力や体力を酷使する。食べるものがなく栄養足りてない自分はふらふら。そして轟音や爆音が鳴り響く。土や砂やコンクリート片だらけ。作業中の場所では落下物が多い。2階3階の半壊しているところでも柵がないので、自身の落下の危険性がある。とにかく過酷な労働環境と作業内容と、厳しく怖い中年男性の大声といった中で、初日なんとか作業遂行して、念願の1万円札。うれしかった。最初から厳しい仕事ではあったけど、10日間ほど無一文でさまよって食べるものが役所の方がくれたカップラーメンとおにぎり1食のみだったのが終わり、500円以上のごはんが食べられる……。


きつい仕事ではあったもののなんとか慣れ、あんまり食べてないので筋肉は見た目ではついてなかったけど筋力は増してきて、このまましばらく続けようか迷ったけれど、とにかく落下による大けがなどの危険性が高いのと、尋常じゃない筋肉痛で家帰ってから動けないほど疲れてるのとで、続けるのは難しいかなと思い、日払い現金支給で少し貯めたお金がある程度いったころ、月給制のオフィスワークをしようと決意。


データ入力、プログラミング、コールセンターの面接へ。1日でその3件。コールセンターに即日採用されて、即入社を決めました。月給制ですが週払いも可能な会社なので、まだそれに頼ってはいますが、そして社会福祉法人から無料で住ませてもらってる部屋のお世話になってますが、なんとか現在は通常に近い社会生活をできています。


自分が脱走した閉鎖病棟がある病院については、私物返送の件で何度か連絡をしました。退院は意外とすっと成立したみたいで特に警察による捜査などはなく、電話の相手の職員さんは「みんな心配してましたよ」と心遣いのある口調で話してくれるなど、なんとか平和的な解決になったみたいです。脱走は病院には迷惑をかける逸脱行為ではありますが、どうしても施設への入所はしたくない、人生は自分で決めて自分で生きたい、生活保護にならずに働いて社会的責務を果たしてお金を得てそのお金で好きなことをしたい。そういう強い願いから脱走をしましたが、なんとかその願いは果たせそうです。まだ十全な安定の生活へは至っていませんが、病院への迷惑を心中で詫びつつ、社会人として正常な暮らしをできるようにがんばっていきたいです。

救済の意志 Geminiとの対話

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