数年前~今日、描いた落書きたち。
※センシティヴ・グロ・性的表現あるので注意です※
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私の人生というものは、高校3年生のときに宝くじの逆が当たったかのような珍しくて巨大な不運が降りかかってきて、それ以来、その災難に関する厄介事がずっと継続し、半ば壊れてしまっている。
困難を抱え、それでもなんとか生き抜いてきて、得たものも多いが、失ったもののほうが、そして平和でそれなりに幸福なはずの時間の損失のほうが、大きい。
その長く続く重大な厄介事に関しての社会活動を私は6年近く行ってきた。調査、聞き込み、インターネット検索、関連書籍集めと精読、その活動に関するコミュニティ内での同様の困難を抱える方々との話し合い、文書の執筆など。
その活動の中で、私は機密情報を知ることになってしまった。日本を含めいくつかの国の主に軍事に関わる機密。
この記事でもその機密の内容はもちろん、私が高校生の時から直面しつづけている災難についても、書くことはできない。
機密に触れてから、さらに災難は増し、生活が脅かされることも多くあった。何もかも知らないほうがよかったのかもしれないと思うこともある。しかし、現実の人間の世界に存在することを知るということは重要だ。知らなかったら今の私の世界認知は今のものではないだろう。
人は、半径数十メートルの視聴覚できる範囲、自宅や職場や身近な人間関係、自分がログインしていているSNSの読むことができる範囲、だけを生きているわけではない。人は、行ったことがない国や知らない無数の人が居て、地球の自然や遠くの星々が在って、歴史と科学と膨大な書籍が在り、何千年も前から続く人類社会が在る、このどこまでも広大で複雑な世界を生きている。
たとえインターネットがあっても個人が1回の人生で知ることができる範囲というものはほんとに限られている。その中で個人の人生を生き、社会生活に参画する中で、膨大な数の事象群から個人の限られた選択肢の中から体験や情報を選択しながら日々が過ぎていき、人が見る世界像は徐々に決定されていく。
その体験可能な事象の範囲の限定性から、世界像は当然のことながら個人差が大きい。自分が知ってる世界と、友達が知ってる世界は全然違うし、テレビの向こうの有名人の知っている世界はもっと違うだろう。
普通の小学生と社会経験を積んだ大人では、社会を知ってるか知らないかでぜんぜん世界像が違う。日雇いの肉体労働をして生活している人と、IT関係の企業の役職の人も、同じ人間社会に存在しながら、全く別の世界を見ているだろう。労働と少しの遊興だけで数十年が過ぎていく会社員と、科学の分野で博士号を持つ研究者や大学教授は、同じ宇宙の同じ地球を生きながら、まったく異なった世界像を持っているだろう。
私が知ってしまった機密というのは、日常的な社会観念を覆し得る類のものだった。それ故、私が機密にアクセスしてから世界像は変転してしまった。人間社会というものにこんなものがあってこんなことが起こってるなんて、信じられないと思えるほど。
知ってよかったのか? 悪かったのか……。知ることによって私へ降りかかる災いは増えてしまった。そして平和なはずの世界像がそうではなくなってしまった。しかし、現実にこの世に起こっていることを知らないまま生きて、そして死んで、その人の経験や記憶が小さな世界に留まることであったとしたら、たとえそれが穏やかなものであっても、それは知らないことを知っていった上でとらえていった人間世界上での人生より、良いと言えるのだろうか。
私は、もともとは不可避な災難によって、そして機密へのアクセスによってさらに、自分が生きている世界が平和でなくなった。しかし、後悔はしていない。1回しかない人生だから、知れることは知りたい。視野は広いほうが、自分の存在しているこの世を知って体験することの多様性を増していくだろうと思う。特異な状況に追いやられて困難は大きいけれど、より多くのことを見ながら有意義に生きていきたいものだ。
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